勤務する宿泊施設は永田集落の外れの灯台寄りの海岸にあり、ハイビスカスやブーゲンビリアが咲き乱れバナナの森があった。
車で20分の一湊漁港にはヤマハの船舶拠点があり、60トンのクルーザーが一隻、20トンのクルーザーが2隻、その一隻は諏訪瀬丸で最も古いのが為朝丸、他に中型漁船が数隻、作業用の和船もあった。
船員は関係者合わせて総勢15名近く、元予科練生で船舶免許の講師だった最年長顧問の先生、元マグロ船の船長や貨物船の甲板長(ボースン)、漁師上がりの男達、高等商船卒の男達、最年少は海員学校を出て瀬戸内海で水中翼船に乗っていた18歳と17歳のまむしの兄弟だった。
ヤマハには一般社員部門の他に、この屋久島の船舶部門と鹿児島空港の中に航空部門があり、10人乗りアイランダー3機と4人乗りセスナ一機、それにじいさん専用のジェット機を有し、数名のパイロットを抱えていた。
じいさんのジェット機はフランクシナトラと同じ機で、浜松の自衛隊基地から鹿児島空港を経由せず諏訪之瀬島の野人宿舎だった私設飛行場まで直接飛んで来た。
このパイロットも予科練を経験していた。
薩摩半島には特攻の拠点となった知覧があり、彼らが飛び続けた空域と海域に2人も関係者が従事しているのも因縁だな。
諏訪之瀬島を皮切りに、赴任地だった硫黄島、屋久島と、出張と休養を兼ねて鹿児島天文館へ行くのに毎月のようにこれらの飛行機を使ったが、島に荷物が届けられた帰りの便で鹿児島に上がる。
当然、航空部門と船舶部門は毎年のように億単位の赤字を出していたが、じいさんはまったく気にしなかった。
そのじいさまに怒られてジェット機で浜松まで通うハメになりそうなのを回避した。
諏訪之瀬島に赴任して毎月のように給料の全額を3日間で天文館で使い果たしていた。
新入社員での基本給は8万6千円だったが、野人には特務手当、危険手当、離島手当などが付いて17万円を超え、半期の賞与は30万を超え、破格の待遇だった。
寿司屋・クラブなど転々・・一晩あたり5万円ほどだが、衣食住・宿泊はすべてヤマハ持ちだったので丸ごとお小遣いのようなもの。
毎日5万円は豪遊とも言えるだろうが、お金に執着もなく明日の命もわからないのだから普通とも言える。 島にはお金使う店がないのだから。
スッカラカンの豪遊を所長の報告で聞いたじいさんが烈火のごとく怒った。
「体張って稼いだ給料3日で使うバカが何処にいる![]()
」
じいさまのお言葉に反発した野人は、また逆らった。
「自分で稼いだ給料どう使おうが勝手でしょうがニンニク
」
「つべこべ言うなバカ~
」とさらにじいさんは怒った。
「鹿児島に上がることまかりならん ⅯUジェット機で浜松へ来なさい」
地獄のような裁定・・まるで罪人の護送ではないか。
通い慣れた鹿児島は華やかで美味しくて面白い。
浜松のほうが遠いし莫大な燃費がかかりそう。
それにあんな地味な田舎へ行って何するんだ・・・
皆は、「社長命令は絶対 ⅯUジェット機呼べ」と言うが・・
どうせすぐに忘れるだろうしいつものように無視、鹿児島へ上がった。
じいさんが理事長をやっていたヤマハポピュラーソングコンテスト、通称ポプコンに応募しろと言われ、本社から応募用紙と譜面が送られてきて2曲書いた時もどうせ忘れているだろうと送らなかったが、何も言って来なかった。
「ヤマハは夢を売る企業」と言い切るじいさんにとって、贅沢の極みとも言える飛行機会社、船舶船員部門丸抱えによる膨大な赤字など気にならないのだろう。
新たな指令とは、その船舶船員部門へ行くことらしい。
行けとは言わず、どうするか自分で判断して欲しいと言うことだった。 辞令もへったくれもなく電話一本でホイホイ転勤させられていたが・・
これまでと違って何とも煮え切らない半辞令のようなものだな。
パイロット不足だからセスナの運転手やれと言われるより簡単だが・・
じいさまの命令と言うより、じいさまがある依頼を渋々承諾して本社常務から連絡があった。
依頼とは「野人を貸して欲しい」と言うことだったようだが、鍋や釜じゃあるまいし。
しかし・・じいさんが躊躇する依頼って、何だ?
野人を持て余して、とうとう身売りされるのかな・・
飛行場の下で釣ったカンパチ
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