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朝、ノートに

「今日はこれをやる」と書いた瞬間に、

それが何が何でも守るべき

絶対的な法律に昇格する。

 

 

けど午後になると、もう一つの

「やった方がいいこと」のほうが

急に気分が乗ってきて、

そっちをやりたくなってしまう。

 

 

どちらを選んでも誰にも迷惑はかからないし、

どちらも正解の行動なのに、

最初の予定を曲げた瞬間に

頭の中の監視カメラが作動し、

強烈な罪悪感で自分を責め立てる

孤独な裁判が始まってしまう。

 

 

自分の気持ちに正直になって行動しようとすると、

必ずと言っていいほど

胸の奥からモヤモヤとした

罪悪感が湧き上がってくる。

 

 

それがどんなに些細なことであっても、だ。

 

 

自分の中で勝手に決めた

「やらなきゃいけないこと」よりも、

「今、こっちをやりたい」という

本音を優先しようとすると、

途端にブレーキがかかる。

 

 

たとえば、朝の時点では

「今日は絶対にブログの記事を

1本書き上げるぞ」と

手帳に意気揚々と書き込んだとする。

 

 

しかし、午後になって

いざパソコンに向かうと、なぜか急に

「いや、今はブログよりも、

ずっと後回しにしていたリール制作のほうが、

神がかったように集中してできそうな気がする」

と、急激に別のタスクへの気分が

乗ってくる瞬間がある。

 

 

リールの制作だって、私の中では

絶対にやった方がいいプラスの行動だ。

 

 

誰に頼まれたわけでもなければ、

今日が締め切りというわけでもない。

 

 

今日これをやると決めた予定を、

自分のその日の気分で

ちょっと変更するだけだ。

 

 

誰かに迷惑がかかるわけでもない。

 

 

普通なら

「よし、やる気があるうちに

細かい作業をを終わらせよう」と

軽やかにハンドルを切ればいいだけの話だ。

 

 

しかし、私の頭の中のシステムは

それを許さない。

 

 

リール用の動画を回し始めた瞬間に、

「おい、お前は朝、ブログを書くと決めたはずだ。

なぜ予定を狂わせる。楽な方に逃げるな」と、

脳内の厳しい自分が

ものすごい剣幕で怒鳴り込んでくる。

 

 

結果として、どちらも素晴らしい

生産的な行動であるはずなのに、

自分が決めた予定通りに

物事を進められない自分に対して、

いちいち心が激しく反応し、

容赦のない厳しい判断を下しては、

自分自身を責め立ててしまう。

 

 

この、どちらを選んでも

自分が悪者になってしまう

自作自演の減点方式が、

本当にしんどくてたまらない。

 

 

表面上は、周りの人から

「いつも楽しそう」

「文章が砕けていて面白い」

と言ってもらえることが多い。

 

 

外向けの役割をそつなくこなし、

平気な顔をして笑う技術だけが

プロレベルに上達してしまったせいで、

私が頭の中でこんなにも血を流しながら

ひとり相撲をしているなんて、

誰も思っていないだろう。

 

 

外側からは何の問題もない人物に見えているのに、

私の内側では、厳格な裁判官が

24時間体制で稼働している。

 

 

自分で作ったルールから

1ミリでも外れた私を見つけると、

即座に起訴し、誰もいない部屋で

有罪の判決を下し続けている。

 

 

この白黒思考と

厳しすぎる監視システムのせいで、

生きているだけでエネルギーが削られていくのだ。

 

 

なぜ私は、こんなにも自分に対して冷徹で、

グレーゾーンを許さない

不器用な生き方をしてしまうのだろうか。

 

 

その原因をじっと見つめていくと、

かつて過酷な環境を必死に生き延びるために、

私の心がやむを得ず構築した古い生存ルールが、

今も狂いなく作動し続けていることに気づく。

 

 

私の歴史には、

自分の本音や欲求をそのまま外に出すと、

状況が悪化するか、あるいは

大切な居場所を失うと学習せざるを得なかった

決定的なデータ(経験)がいくつもある。

 

 

幼い頃、母親が脳梗塞で倒れた際、

父親から

「母の前で絶対に泣かないように」と言われ、

自分の寂しさや悲しさという

一番吐き出したい本音を、

小さな胸の中にグッと押し込み続けた。

 

 

買い物をするときも、

自分が本当に欲しいものは

「そんなものいらない」と否定され、いつしか

「私の選択で母に認めてもらえるものはどれか、

どれを選んだら喜ぶか」を

最優先にして動くようになった。

 

 

さらに、テストで良い点数を取ってきても、

父親からはそれが「当たり前」だと言われ、

どれだけ頑張っても報われない虚しさを抱えていた。

 

 

忘れ物をすれば担任から

頭を強く押し付けられる物理的な恐怖があり、

授業参観の給食で自分だけ時間内に完食できず、

「ダメな子だ」と自分を激しく責めて

申し訳なさで泣いた記憶もある。

 

 

これらの経験によって、私の心には

「100%完璧な白でなければ、

私はここにいてはいけない。

少しでも予定を破るような黒いズレは、

周囲からの拒絶を意味する」という、

あまりにも過酷な公式が刷り込まれてしまったのだ。

 

 

大人になってからも、

その我慢の基準はさらに強化された。

 

 

苦痛で憂鬱でありながらも

結果を出すために耐え続けた

厳しい吹奏楽部時代。

 

 

朝から晩まで終わりのない労働を強いられる

過酷なケーキ屋の環境。

 

 

何より、上司と部下の板挟みになりながら、

決められた計画を狂いなく遂行することでしか

自分の価値を証明できなかった、

携帯ショップの販売員時代。

 

 

役割の仮面を完璧に被り続け、

数字を追いかけ続けた結果、

限界を超えた私の体は、

過食嘔吐を繰り返すという

最悪の悪循環で

ボロ雑巾のようになるまで崩壊した。

 

 

私の頭の中にあるシステムは、

あの地獄のような苦痛の時代への逆戻りを、

何としてでも防ごうとしている。

 

 

だからこそ、誰も困らないはずの

ちょっとした予定変更であっても、

「ルールを曲げるな!」

「楽な方に逃げるな!」と、

命の危険を察知したかのような強烈なアラートを、

罪悪感という形で鳴らし続けているのだ。

 

 

自分を責めてしまうあの厳しい声は、

自分を苦しめるために響いているのではない。

 

 

過去のとても辛かった環境を

必死に生き延びるために、

これ以上傷つかないようにと

自分を守ってくれた、

当時の心の仕組みが今もそのまま癖として

残っているだけなのだ。

 

 

私たちは普段、

目の前にある結果や事実という、

全体のわずか1割にも満たない

「見えている部分」だけで物事を判断しがちだ。

 

 

たとえば、毎日何気なく飲んでいる牛乳や

普段から使っているペンがある。

 

 

それは目の前では単なる白い液体であり、

ペンはただの文房具だ。

 

 

しかし、その白い液体が製品になって

私たちの口に届くまでには、

酪農家の朝の早さや、

牛の体調を気遣う日々の営み、

工場のラインを動かす人たちの人生など、

目に見えない途方もないプロセスと

思いが積み重なっている。

 

 

目の前にいる大切なパートナーや

友人の姿だって同じだ。

 

 

私は自分だけのフィルターを通して

相手を見ているけれど、

本当はその人が背負ってきた歴史や、

言葉の裏にある思いなど、

知らないことの方が9割以上ある。

 

 

そして、この、

見えない9割の背景に

光を当てることこそが、

私がこれから出会うお客さんたちに対して、

何よりもやっていきたいアプローチなのだ。

 

 

世の中には、今目の前で

その人がどんな結果を出しているのか、

どんな仕事をして何を達成したのかという

表面上の事実ばかりを評価する仕組みが溢れている。

 

 

けれど、私はそんな1割の見えている事実だけで、

その人の価値を判断したくはない。

 

 

その人が今、その場所にたどり着くまでに

どれだけの葛藤があり、どんな涙を流し、

どんな思いでその選択をしてきたのか。

 

 

目の前にある単なる行動の結果ではなく、

その人の奥底にある人間性や、

目には見えない美しい背景を、

言葉という形にして表現していきたい。

 

 

だからこそ、私はこれから出会う

お客さん一人ひとりの内側と、

誰よりも深くつながりたいと思っているのだ。

 

 

1割の事実を綺麗に並べただけの紹介文ではなく、

その人の9割の背景を言語化することで、

その人自身の存在を丸ごと肯定していきたい。

 

 

それは、自分自身の内側に対しても、

全く同じことが言える。

 

 

今、私が感じている

この異常なまでの罪悪感や白黒思考も、

表面的な「性格の悪さ」や「未熟さ」のせいだけではない。

 

 

その奥には、忘れ物にお怯え、

居残りの給食に涙し、

ボロボロになりながらお店を管理し続けた、

目に見えない9割の必死な過去の背景が詰まっている。

 

 

私が自分自身の発信で本当に届けたいのは、

単なる出来事の報告ではない。

 

 

その出来事のプロセスにおいて、

自分が一体何を感じて、どう心が動き、

どう行動したのかという、

目に見えない内側の真実のドキュメンタリーだ。

 

 

情報がどこにでも溢れている今の時代、

本当に人の心を動かすのは、

綺麗に整えられた実績や事実の羅列ではなく、

その裏側にある人間性だ。

 

 

その人がこれまでの人生で何を経験し、

そこでどう心が揺れ動いたのかという

プロセスを言葉にすること。

 

 

それによって初めて、その人の

唯一無二の魅力が画面の向こう側に真っ直ぐ伝わり、

本当に届いてほしい大切な人に

しっかりと届く文章になる。

 

 

私は、お客さん自身すら言葉にできずにいる、

その目に見えない大切な背景や

心の動きを誰よりも繊細にキャッチして、

代わりに言語化して届ける存在でありたい。

 

 

そうやって、表面的なやり取りを飛び越えて、

お互いの内側の深い部分で

カチッとつながれる人と

出会っていきたいとしみじみ思っている。

 

 

さて、今日もこれからノートを開いて、

頭の中の厳しい裁判官に

「まあまあ、

今日のところはこれで勘弁してくださいよ」と、

美味しいお茶でも差し出すような気持ちで、

自分を緩める時間を過ごそうと思う。

 

 

明日もし、予定していた買い物を

面倒くさがって後回しにし、

ソファーでゴロゴロする方を優先してしまったとしても、

私は私の優秀な監視カメラに向かって、

誇らしげにピースサインを出してやるつもりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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私はウォーキングが好きだが、

それは健康のためでも

ダイエットのためでもなく、

ただパンパンに膨れ上がった

頭の中の思考を

強制終了させるための手段の一つだ。

 

 

もし本当に運動が好きなら、

今頃部屋の中で狂ったように筋トレをして

ガリガリに痩せ、引き締まっているはずだ。

 

 

残念ながら現実の私は相変わらず

運動嫌いのままである。

 

 

流れる現実の景色を背景として

ぼーっと眺めながら歩くことで、

ようやく頭の整理ができるのだが、

このリフレッシュ時間には

「夜道の恐怖」という

大きな壁が立ちはだかっていた。

 

 

私の頭の中は、放っておくと

常に言葉や思考が

ぎゅうぎゅうに詰まって

破裂しそうになる。

 

 

だからこそ、定期的に外の空気を吸って

頭をすっきりさせたくなるのだが、

先日、しげちゃんお勧めの

ヘッドスパの専門店に行ってきた。

 

 

そのサロンの話は何度か

しげちゃんから聞いていた。

 

 

その度に毎回、

初めて話すかのような温度感で

どれだけ凄いのかを、感動しながら

しげちゃんは話してくれていた。

 

 

その勢いでしげちゃんは

私の分まで予約をしてくれて、

流れるまま指定された日に

行くことになった。

 

 

そこで、自分の体に起きている

恐ろしい事実に気がついた。

 

 

これまでも美容院のついでに

ヘッドマッサージを

してもらったことは何度かあった。

 

 

だが、そのたびに担当の美容師さんから

「冨田さん、頭の頭皮が固すぎて

指が全く入っていきません」と、

まるで石を触っているかのような

トーンで驚かれていた。

 

 

今回のサロンは

頭のケアを専門にやっている。

 

 

少しは違う見解をもらえるかと思いきや、

結果は全く同じだった。

 

 

それどころか、施術が始まった瞬間に

「これは……だいぶガチガチすぎますね」と、

深刻なレベルで心配されてしまった。

 

 

私はてっきり、

毎日色々なことを

考えすぎているせいで

脳の血管か何かが収縮し、

物理的に頭が

硬くなっているのだと思い込んでいた。

 

 

しかし、プロのセラピストの

分析は違った。

 

 

「考えすぎていること自体よりも、

考え込んでいるときに無意識に

奥歯をもの凄く強く食いしばっているのが

原因だと思いますよ」と言われた。

 

 

確かに、

考えすぎて頭皮がダイレクトに

硬くなるという体の構造は、

いまいちピンとこない。

 

 

それよりも、

何かを深く考えているときに、

顎に力が入り、その食いしばりによって

顔の側面から頭の筋肉までが引っ張られ、

結果として頭全体がガチガチに

凝り固まってしまうという流れのほうが、

圧倒的に納得がいく。

 

 

そう指摘されてから、

日常生活の中で自分の顎に

意識を向けてみると、

衝撃的なことに気がついた。

 

 

文章を書いているとき、

パソコンの前でぼーっと考えているとき、

何かに激しく集中しているとき、

私は面白いほど綺麗に

右の奥歯をグッと噛み締めていたのだ。

 

 

誰と戦っているわけでもないのに、

ビンタが来るのを

構えているわけでもないのに、

私の口内は常に緊迫した状態だった。

 

 

サロンの方から

「気がついたときには、

ふっと力を抜いて

緩めてあげてくださいね」

と優しい言葉をもらい、

私はようやく自分の顎の緊張を

意識的に解除するようになった。

 

 

そして話は戻るが、

私の頭の中を整理するための

ウォーキングについてだ。

 

 

頭がパンパンだから

歩きたい、というのは、

自分の意思で計画するというよりも、

「あ、今すぐ外の空気を

吸いながら歩きたいな」

という感覚になる。

 

 

そういう時は集中しすぎて

脳を休めたい時だ。

 

 

しかし、

私が好むウォーキングには、

非常にめんどくさい独自のルールがある。

 

 

私は、夜の薄暗くなった時間帯にしか、

外へ歩きに行きたくないのだ。

 

 

家の中にウォーキングマシンを置いて、

部屋の中で

足を動かせばいいという問題ではない。

 

 

外の景色を、ただぼーっと、

それを「物」として認識するのではなく、

流れる背景として眺めながら歩くからこそ、

脳がリラックスし、整理整頓ができ

アイデアだってふと湧いてきたりもする。

 

 

これが昼間だと、

視界が良すぎるせいで

余計な情報が大量に

目に飛び込んでくる。

 

 

すれ違う人の服装、表情。

目に入るだけで、

勝手に私の中でありもしない

物語を作り上げ

一人で笑ってしまう。

 

 

新しくできた看板の文字、

車のエンジン音、

すれ違いざまに聞こえる他人の雑談。

 

 

それらの情報が、休ませたいはずの脳内に

土足で侵入してきて、

逆にもの凄いストレスになってしまう。

 

 

そうなると、

ウォーキングに出かけること自体が

億劫になってしまうのだ。

 

 

だからこそ、

視界に入る情報量が適度に間引かれる、

薄暗い時間帯がベストなのだが、

ここにも罠がある。

 

 

夕方の薄暗い時間だと、

今度は駅へ向かう人や

帰宅ラッシュの波に巻き込まれ、

人が多すぎて別のストレスが溜まる。

 

 

消去法で考えていくと、

みんなが家に帰って

街が落ち着きを取り戻した、

夜9時過ぎが私にとって

一番安心して歩ける時間帯

ということになる。

 

 

だが、夜の9時過ぎに、

女性が1人で外を歩くというのは、

正直に言って普通に怖い。

 

 

街灯があるとはいえ、

暗闇の夜道には、

昼間には存在しない

独特のスリルと不気味さが

漂っているからだ。

 

 

この前、しげちゃんと一緒に

夜の散歩をしていたとき、

前方から一人のおじいさんが

フラフラと歩いてきた。

 

 

その歩き方が、なんというか、

お世辞にも健全とは言えない足取りで、

まるで懐に刃物でも

隠し持っているのではないかと

思わせるような、

精神的にちょっと

異常な雰囲気をまとっていた。

 

 

緊張しながらすれ違いざまに

その人をチラッと観察してみたら、

どうやら不審者ではなく、

認知症を患っている

お年寄りのようだった。

 

 

あのおじいさんは、

自分の意思で外に出たくて出てきたのか、

それとも本人すら状況が分からず、

夜の街に迷い込んでしまったのだろうか、

と切ない気持ちになった。

 

 

しかし、同情はできても、

夜の暗闇の中で

「向こうからやってくる人が、

一体どういう状態の人間なのか」が

こちらで瞬時に判断できないというのは、

恐怖以外の何物でもない。

 

 

夜の散歩は脳をスッキリさせてくれる

最高の時間だが、

常に背後に得体の知れない恐怖が

張り付いているという、

非常に悩ましい課題を抱えていた。

 

 

この「頭を整理するために歩きたいけれど、

外に出るのが色々な理由で怖い、

あるいは億劫になる」

という葛藤は、

日々頭をフル回転させて生きている人なら、

きっと深く共感してもらえるのでは

ないかと思う。

 

 

私たちは、

何か特別なことをしていなくても、

普通に生活しているだけで

脳をめちゃくちゃ働かせている。

 

 

特に現代社会は、

普通に道を歩いているだけで、

あらゆる広告や音の暴力が

襲いかかってくる。

 

 

昼間の散歩が

リフレッシュになるどころか、

脳の疲労を加速させる原因に

なってしまうあの感覚。

 

 

今は誰の顔も目に入らない、

静かで薄暗い空間に身を置きたい

と本能が叫ぶ気持ちは、本当によく分かる。

 

 

それなのに、

いざ夜の静かな時間を狙って

外に出ようとすると、

今度はリアルな治安の悪さや、

予測不可能な歩行者との遭遇という、

別ベクトルの緊張感が襲ってくる。

 

 

逆に不審者と

思われてしまう可能性もあるので

私は不審者ではない。

というアピールをすることにも

気を張っていなければならない。

 

 

せっかく頭を

空っぽにするために歩いているのに、

向こうからやってくる人影を見るたびに

「あの人は安全な人だろうか」と身構え、

奥歯をグッと食いしばってしまっては、

ヘッドスパの専門店で

心配されたガチガチの頭皮を

さらに強化しているようなものだ。

 

 

リフレッシュしに行っているのか、

それとも新しいコリを生産しに行っているのか、

自分でも時々分からなくなってしまう。

 

 

この夜道の恐怖を完全に解消し、

なおかつ誰も傷つけることなく

自分の身を守るための最高のアイテムを、

私はついに手に入れることに成功した。

 

 

ことの始まりは、しげちゃんが

仕事の事業所を持っている、

愛媛県の西予市(せいよし)

という場所にある。

 

 

西予市というと、聞こえは良いが、

しげちゃんの事業所があるエリアは

本当に、言葉を選ばずに表現して、

凄まじいレベルのクソ田舎である。

 

 

山の中にポツンと建物がある感じで、

何か買い物をしようと思って、

ちょっとコンビニまでと

軽い気持ちで出かけようとすると、

車で10分。

 

 

もし徒歩で行こうものなら

1時間以上かかるという、

車がなければ完全に

干からびる仕様になっている。

 

 

地元の人は一体どこで

日々の買い物を済ませているのだろうと、

不思議で仕方がない。

 

 

それほどの田舎だからこそ、

夜になると遮るものが何もないため、

空に見える星が

信じられないくらい綺麗に輝く。

 

 

しかし、星が綺麗に見えるということは、

つまり街灯が1ミリも存在しない、

完全なる漆黒の闇が

広がっているということだ。

 

 

そんな過酷な暗闇の環境だから、

そこら辺のホームセンターで

売っているような、

ぼんやりとした黄色い光を放つ

普通の懐中電灯では、

まったく歯が立たない。

 

 

光が薄すぎて、

足元の凸凹すら見えないのだ。

 

 

そのため、その事業所には、

工事現場の夜間作業で

高々と周囲を照らし出すために

使われるような、

コンパクトでありながら

もの凄い光量を放つ、

特殊な懐中電灯が置いてあった。

 

 

もうその事業所では

使わないからということで、

しげちゃんがわざわざ私のために、

自宅へ持って帰ってきてくれたのだ。

 

 

この懐中電灯が、本当にすごい。

 

 

スイッチを入れた瞬間、

夜の闇を鋭く切り裂くような、

目が痛くなるほどの圧倒的な白い光線が

真っ直ぐに伸びていく。

 

 

本来の目的は、車椅子ユーザーである

しげちゃんと一緒に夜道を歩く際、

道路の状態が暗くて分からないと、

車椅子が小さな段差に引っかかって

転倒してしまう恐れがあるため、

その足元を確実に明るく

照らし出すことだ。

 

 

その意味でも、

この強力なライトは

私たちの散歩に絶対に

欠かせない必須アイテムである。

 

 

しかし、私の頭の中では、

この頼もしい相棒に対して、

もう一つの極めて実戦的な

使い道が確立されていた。

 

 

もし、夜道を歩いていて、

前方から明らかに様子のおかしい、

やべえ奴が

こちらに向かって突進してきたとする。

 

 

その時、私はこの工事現場仕様の

強力な懐中電灯のレンズを、

そいつの目に向けて

思いっきり照射するのだ。

 

 

これほどの光量を至近距離で、

しかも暗闇の中で

ダイレクトに目に浴びせられたら、

人間は間違いなく一瞬で視界が真っ白になり、

激しい眩しさでその場にうずくまるか、

視覚が完全にフリーズするはずだ。

 

 

相手の目が眩んで、

視界が正常な状態に戻るまでには、

確実に数十秒の時間がかかる。

 

 

その、相手が「何も見えない!」

とパニックを起こしている隙に、

こちらはしげちゃんの

電動車椅子のスピードを上げて、

悠々とその場から逃げ切ればいい。

 

 

相手を殴るわけでもなく、

武器を使って

怪我をさせるわけでもない。

 

 

ただ、圧倒的な光の力だけで

相手の行動を完全に無力化し、

こちらは無傷で避難することができる。

 

 

誰も傷つけることなく、

自分の身としげちゃんの安全を

100%守ることができる、

これ以上ない最高の防犯アイテムだと

私は確信している。

 

 

この最強の武器を

片手に持つようになってから、

私の夜のウォーキングは、

恐怖のサバイバルから、

一気に心の平穏を取り戻した

安心安全な時間へと生まれ変わった。

 

 

もちろん、

この作戦を成功させるためには、

向かってきた相手ではなく、

間違えて焦って

自分の目に光を

直撃させて自爆するという、

最高にマヌケな操作ミスだけは

絶対に犯さないように、

ボタンの位置と向きだけは

常に厳しく指先で確認している。

 

 

頭の中のパンパンな思考を

流れる景色の中にそっと溶かし、

サロンの人の言葉を思い出しては、

右の奥歯の力をふっと緩めてみる。

 

 

私はこれからも、誰も傷つけない

最強の光線を手のひらに握り締めながら、

愛媛の静かな夜の暗闇を、誰よりも軽やかに、

そして面白がりながら歩き続けていく。

 

 

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日常の生活の中で、

映画の主人公のような

ドラマチックな大事件なんて

そうそう起きるわけがない。

 

 

私の毎日は、せいぜい

自動ドアの前に堂々と立ったのに、

センサーに完全に無視されて

ガラスの手前で一瞬だけ立ち尽くしたり。

 

 

サランラップの切り口が見つからず、

ようやく見つけたと思ったら

斜めに切れ目が永遠に入ってしまい、

鋭角のまま細長く引きちぎれ続ける

といった地味な出来事の積み重ねだ。

 

 

しかし、その何でもない平凡な景色を前にして、

自分の心が右に揺れるのか左に揺れるのかを

じっと見つめる瞬間にこそ、

人間としての面白さが詰まっている。

 

 

 

 

 

発信で伝えるべきなのは、

出来事の派手さではなく、

誰もが見過ごすような小さな物事に対する、

自分だけの

ちょっと面倒くさい捉え方のプロセスだ。

 

 

何かを発信しようと頑張っている人を見ていると、

物事や出来事そのものを正確に伝えることに

一生懸命になっている姿をよく見かける。

 

 

「今日、こういう場所に行って、

こういうことがありました」という報告だ。

 

 

もちろん、その行動力は素晴らしいし、

出来事の多さや行動の範囲が広いことも、

その人の魅力の一部を形作る大切な要素には違いない。

 

世の中には、パッと調べるだけで

一瞬で答えがわかる便利な情報や、

生活を豊かにしてくれる

お役立ち事実のデータが溢れている。

 

 

私自身、日々の生活の中で

そういった情報にはとてもお世話になっているし、

目的に合わせて頻繁に利用もしている。

 

 

見知らぬ誰かが丁寧にまとめてくれた

「おすすめの家電」や

「効率のいい掃除の手順」は本当に役に立つし、

ありがたい存在だ。

 

 

そのおかげで、引っ越してきた部屋は

どんどんピカピカに磨き上げられている。

 

 

 

 

 

ただ、そういった

「正解のデータ」ばかりをずっと眺めていると、

私はいつの間にか、

胸のあたりがじわじわとお腹いっぱいになって、

少しだけ息苦しさを感じてしまう瞬間があるのだ。

 

 

どれだけ有益な情報であっても、

それだけで心が満たされるわけではない。

 

 

発信を頑張ろうとすればするほど、多くの人は

「何か面白い出来事を体験して、

それを綺麗にわかりやすく

伝えなければいけない」と、

外側の事実を必死にかき集めることに

意識が向いてしまいがちだ。

 

 

だけど、どれだけ珍しい情報や

事実を並べられても、

それを発している本人の

「体温」が見えてこないと、

どこか寂しさを覚えてしまう。

 

 

私が本当に興味を惹かれるのは、

誰かが発する情報の正確さではなく、

その人がその物事を見て何を思い、

どう感じてその言葉を選んだのかという、

頭の内側の仕組みなのだ。

 

 

誰もが同じようなテンプレートに沿った

綺麗な正論ばかりを語る空間に浸っていると、

心のどこかがカラカラに

乾いていくような気がして、

他人の発信を見ることに疲れてきてしまう。

 

 

それは、情報そのものが悪いのではなく、

そこに人間としての生々しい感情や、

思考のねじれが置いてけぼりになっているからだ。

 

 

 

 

 

私たちは誰もが、

自分だけの偏った受け止め方の癖を

持って生きている。

 

 

自分らしさとは、

体験した出来事の多さや

派手さで決まるものではない。

 

 

それ以上にその人らしさが

くっきりと浮かび上がるのは、

目の前の出来事を「どう捉えているか」という、

その人の心の動きそのものだ。

 

 

例えば、

黄色は好きだけど、オレンジ色は嫌いだ。という、

他人からすればどうでもいい

好みのジャッジがあるとして。

 

 

黄色はただの黄色だし、

オレンジ色はただのオレンジ色だ。

 

 

そこに最初から良い悪いの評価などついていない。

 

 

それなのに、勝手に好き嫌いの判定を下して

世界を眺めているのは、他ならぬ自分自身だ。

 

 

じゃあ、なぜ黄色は好きなのに、

オレンジ色は嫌いなのか。

 

 

その「なぜ?」の引き出しを開けていくと、

そこにはその人が生きてきた背景や、

そう捉えるようになった

独自のプロセスが隠されている。

 

 

色そのものの問題ではなく、

その色にこびりついているその人の記憶や、

大切にしている価値観が

透けて見えるからこそ、

その人の性質が立体的に浮かび上がってきて

面白くなる。

 

 

 

 

 

私自身、この偏った受け止め方の癖を

強烈に持っている。

 

 

具体的な例を挙げるなら、

私はニンジンが昔から嫌いだ。

 

 

大人になった今は、

年齢を重ねたこともあって

出されれば普通に食べられるようにはなった。

 

 

けど、頭で栄養があるから食べようと、

理解して口に運んではいても、

内側の深い部分では、今でも

体が「私はこれが苦手です」と

はっきりと拒絶のサインを出しているのを感じる。

 

 

なぜ、そこまでニンジンに対して

頑固な苦手意識を持ってしまったのか。

 

 

時計の針を大きく巻き戻してみると、

私が小学1年生だった頃のある日の給食の時間に、

すべての原因が転がっている。

 

 

当時の給食に出てきた、

ゴロゴロと大きく切られたニンジンの塊。

 

 

それを口に入れた瞬間、

どうしても受け付けることができなくて、

気持ち悪くなってその場に

吐き出してしまったことがあった。

 

 

それが、私のニンジン嫌いの

決定的な引き金だった。

 

 

 

ただ、これも味が悪かったとか、

調理法がどうこうという

表面的な問題ではなかった。

 

 

当時、私はひどく内弁慶な子供で、

学校という場所へ行くこと自体が

毎日たまらなく嫌だった。

 

 

家でお腹いっぱい

ご飯を食べることは大好きだったのに、

学校の給食の時間だけは、

どうしても好きになれなかったのだ。

 

 

今になって冷静に振り返ってみると、

給食の味が合わなかったわけでは決してない。

 

 

当時の私にとって、

学校の教室という空間は

常に張り詰めた緊張感に満ちていて、

一瞬たりとも心が休まらない場所だった。

 

 

周りのクラスメイトに

上手に心を開くこともできない。

 

 

とにかく自分の家が好きで、

家族と一緒にいるときが

一番安心して息ができたし、

近所に住んでいた仲の良い親友と

一緒に過ごす時間が、何よりも楽しかった。

 

 

そんな子供にとって、

学校という大勢の人間が

ひしめき合うクラスの中に

ぽつんと置かれることは、

不安で仕方がなかったのだ。

 

 

その胸の奥のモヤモヤとした不安が、

毎日の食欲を綺麗に消し去ってしまっていた。

 

 

だから、みんなが楽しそうに食べている給食が、

どうしても喉を通らない。

 

 

結果として、食べるのが遅い私は、

昼休みになっても、

その後の掃除の時間になっても、

教室の片隅で一人、

いつまでも給食を食べ終わらない生徒として

取り残されることになった。

 

 

周りからは机を片付ける音が聞こえ、

ほうきの先が床を掃くカサカサという音が響く。

 

 

「早く食べなきゃ、

また一人ぼっちになってしまう」

そんな焦りと恐怖が頭の中をぐるぐると駆け巡る。

 

 

けれど、焦れば焦るほど、

口の中のものは飲み込めなくなる。

 

 

あの冷たい空気の中で、

必死になって口に押し込んだのが、

たまたま大きく切られたニンジンだったのだ。

 

 

この経験によって、

私の脳は「ニンジン」と

「学校での孤独な恐怖と焦り」

を完全にひとまとめにして記憶してしまった。

 

 

 

 

 

食べ物そのものが嫌いだったのではなく、

あの時に感じていた

どうしようもない不安な感情の置き場所が、

ニンジンという物体になって

今も私の体に残っているだけなのだ。

 

 

クソまずくて食べられない

食べ物ももちろんあるけど、

苦手なものは何かしらの思い込みがあったりする。

 

 

この、他人からすれば

「ただの好き嫌い」で

片付けられるエピソードの中にこそ、

私の性格、当時何を大事にしていて、

何に傷ついていたのかという、

冨田恭代という人間の輪郭がすべて見えてくる。

 

 

このプロセスを伝えるからこそ、

読んでいる人も

「あぁ、この人は

こういう風に世界を見てきたんだな」と、

共感するかしないかも含めて、

生身の人間として私を認識できるようになる。

 

 

出来事そのものは地味でも、

その捉え方の裏側を丁寧にめくることにこそ、

表現の本当の楽しさがある。

 

 

だからこそ、私は

人間の内側を表現することが好きだし、

他人の心を細かく深掘りしていく

作業がやめられない。

 

 

最近、私は毎朝、

目が覚めるとノートを開いて

頭の中にある言葉を

そのまま書き出す時間を取っている。

 

 

ただ思ったことを

ペンで紙に書き殴っていく、

それだけの時間だ。

 

 

 

このただ書くだけの

シンプルな行為を続けていると、

自分が普段、無意識のうちに何を考えていて、

どんな出来事に心を揺さぶられているのかが、

面白いほど客観的に見えてくる。

 

 

自分の行動や感情に対して、

「なんであの時、あんな風に思ったのだろう?」

「どうしてあの言葉にイラッとしたのだろう?」

という、自分自身への質問が

頭の中で止まらなくなる。

 

 

自分で自分の内側の

鍵を開けていくようなこの時間が、

私にとっては時間が溶けるほど、

夢中になってしまうことだ。

 

 

だから私は、日常生活の中で他人と関わるときも、

つい相手に対してたくさんの質問を

投げかけてしまう。

 

 

「最近、どんな仕事をしているの?」

という表面的な情報が欲しいのではない。

 

 

「その仕事をしてみて、

今どんなことを感じているの?」

という、相手の胸の奥にある

生身の声が聞きたいのだ。

 

 

相手の表面的な事実や情報ではなく、

その人の頭の内側の景色、

「なぜそう捉えたのか」のプロセスを

知りたいと思うからだ。

 

 

人が何を感じ、何を見て、世界のどこに反応して、

どういう言葉を選んで発信しているのか。

 

 

その人にしかできない

独自の捉え方の表現に触れるとき、

私は何よりもワクワクする。

 

 

 

だから私は、小説やエッセイという

表現の世界が大好きだ。

 

 

その中でも、人間の格好悪い部分や、

心の中のドロドロとした思考のねじれを、

引き込むように表現してくれている書き手に、

強烈に惹かれる。

 

 

私はこれまでも、自分が

「こういう文章が読みたい、

欲しい」と思ったものを、

そのまま自分で発信するようにしてきた。

 

 

自分が一番の読者であり、

自分がそれを一番求めているからだ。

 

 

世間のトレンドや、

大勢の人からの需要があるかどうかは、

正直に言ってよくわからない。

 

 

けれど、それでいいのだと思っている。

 

 

なぜなら私は、自分が書いた文章を

後から読み返したときに、

誰よりも大きな声で爆笑し、

誰よりもポロポロと号泣している

世界で最初の一人の熱狂的な読者なのだから。

 

 

自分が自分の

一番のファンでいたいと思っているし、

そうじゃなきゃ続けられない。

 

 

日常の中で起きる出来事は、

いつも地味で、何でもないことばかりだ。

 

 

今日、スーパーのレジの列で

前の人が財布を落としたとして、

それを単なる「よくある日常の一コマ」

として通り過ぎるか、

それとも「あの人が財布を落とした瞬間の、

あのハッとした表情の裏側」を

想像して面白がるか。

 

 

世界をどう色付けしていくかは、

いつだって自分の捉え方一つにかかっている。

 

 

明日もし、また何でもない

平凡な朝がやってきたとしたら、

私はいつものようにノートを開き、

自分の内側の小さなつぶやきに

耳を傾けることから始めてみようと思う。

 

 

まずは、ニンジンの入っていない

美味しいスープでもゆっくりと飲みながら、

今日という日を自分の目でどう捉えるか、

その作戦を練り始めることにする。

 

 

 

 

 

 

 

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インスタグラムを開くと、

画面の向こうから

見知らぬ人たちがものすごい熱量で、

身振り手振りをして語りかけてくる。

 

 

その人たちが一人きりの部屋で、

三脚に固定したスマホに向かって

必死にポーズを取ったり

喋ったりしている撮影風景の

裏側をふと想像した瞬間、

なんだか無性に笑えてきてしまう。

 

 

こんなことを言い出したら元も子もないのだが、

その小さな画面に人生の貴重な時間を

しっかりと吸い取られ、

夢中で指をスクロールし続けているのも、

他ならぬ自分自身である。

 

 

世界はものすごく広くて、

自分の知らないことの方が圧倒的に多い。

 

 

そこにはものすごい可能性が広がっている。

 

 

それは頭ではよく分かっているし、

決して否定するつもりはない。

 

 

ただ、ふとした瞬間に、

私たちはこの小さな四角い画面の中に

全員で押し合い、ぎゅうぎゅうになりながら

閉じこもっているのではないか、

と感じることがある。

 

 

 

 

 

例えば、インスタグラムの

検索ページを開いたときに

ずらっと並ぶ、おすすめ動画の数々。

 

 

そこには、ありとあらゆる

ジャンルの発信者たちが、

こちら側に向かって身振り手振りを使って、

ものすごい熱量で必死に語りかけている。

 

 

「これを知らないと人生損します!」

「今すぐこれをやってください!」

 

 

馬鹿にしているわけでは決してない。

 

 

本当に素晴らしい情報を届けてくれていることも、

これによって繋がれるはずのなかった

遠くの人と深く繋がれるメリットがあることも、

百も承知だ。

 

 

内容が良いとか悪いとかそういうことではなく、

その雰囲気を一歩引いて見てみると、

なんだかおかしくてたまらなくなる。

 

 

彼らはきっと、自宅の部屋の片隅や、

生活感がなるべく映らないように片付けた壁際で、

一人きりでスマホに向かって語りかけている。

 

 

あるいは、カメラの位置を何度も調整しながら、

何度も録り直しをして、

一人で満足したり悩んだりしている。

 

 

その、切り取られた画面の

すぐ外側にあるであろう、

誰の目にも触れない

孤独な撮影現場の日常を想像すると、

なんだか急に冷静になってしまう。

 

 

何で大の大人がこんなことに

ここまで一生懸命になっているのだろう、

と冷めてきてしまうのだ。

 

 

 

 

 

もちろん、これをすることで、

普段の生活では絶対に繋がれるはずのない

遠くの人と繋がれる。

 

 

たくさんの幸せや

メリットがあることも理解できる。

 

 

誰かを馬鹿にしているわけでもない。

 

 

それでも、なんか笑えてきてしまう。

 

 

そして、その画面から目を離して

現実の街に目を向けてみると、

そこにはまた別の光景が広がっている。

 

 

駅のホームですれ違う人は、

ほぼ全員がスマホしか見ていない。

 

 

前なんか見ていない。

 

 

電車の車内に至っては、

スマホを見ていない人の方が

何か変なことをしているかのように

思われそうなくらい、

みんなが一斉に画面に夢中になっている。

 

 

通路でぶつかりそうになったとき、

避けて歩かなければならないのは、

決まってスマホを見ていない側の人間だ。

 

 

画面に夢中で一切前を見ていない歩行者を、

こちらが気を利かせて、

まるで透明人間にでもなったかのように

避けて歩く。

 

 

彼らは一体、その画面の中に

何を見ているのだろうか。

何を見たいのだろうか。

 

 

 

 

 

以前、カフェで働いていたとき、

女子たち四人のグループが来店した。

 

 

せっかくおしゃれをして集まったのだから、

さぞかし楽しいおしゃべりが

始まるのだろうと思いきや、

席に着いた途端に全員がほぼ無言になり、

それぞれのスマホに夢中になり始めた。

 

 

誰一人として喋らない。

でも、一緒の空間にはいる。

 

 

一体何のために時間とお金を使って

ここに集まっているのだろうか。

 

 

私の中の人間データにはない出来事だったから、

不思議で仕方がなかった。

 

 

一人は好きだけど、

家で一人きりでいる孤独は嫌だ、

という複雑な現代人の

心理のあらわれなのかもしれない。

 

 

スマホ一台で何でもできてしまう

便利な世の中になったからこそ、

私たちは街の景色を楽しむことも、

その場の空気を肌で感じることも忘れ、

すべてをスマホの画面越しに

処理しようとしている。

 

 

その視野の狭さに、

何だか少しだけ寂しい気持ちになる。

 

 

 

 

 

ここまで偉そうに

世間のスマホ依存を観察しておきながら、

私自身がその仕組みのど真ん中に

どっぷりと浸かって生きている。

 

 

その焦りや、

やめたいのにやめられない気持ちは、

誰よりもよく分かっている。

 

 

私には、生産性が何一つない、

ただただ無駄だと分かっていながらやめられない

夜のルーティンがある。

 

 

夜、ベッドに入って、

インスタグラムやYouTubeを開き、

迷わず見てしまうのは、

何の役立つ情報も得られるわけではない、

見知らぬ人がただひたすら

ご飯を食べるだけの動画だ。

 

 

私はもともと少食なので、

たくさんの量の食べ物を、

キレイに美味しそうに

次々と平らげていく人を見るのが

純粋に好きだ。

 

 

こんな深夜に他人がおにぎりを

10個大食いするだけの

動画を見ていても、

何の情報も得られないし、

私の人生における生産性なんて

これっぽっちもない。

 

 

けど、画面の中の人が、

大きな山盛りの唐揚げや

ラーメンを美味しそうに

口に運んでいる姿を、

ただぼーっと眺めている時間が

楽しくてたまらない。

 

 

もっと好きなのは、ビールを片手に

たくさん豪快に、

しかもキレイに食べる人。

 

 

見ていて気分が良くなる。

私もこれくらいいけるんじゃないかと

錯覚させられる。

 

 

 

 

 

以前、あまりにもその動画が好きすぎて、

一度ショート動画を見出すと

止まらなくなることに

危機感を覚えたことがある。

 

 

本当はこんなことをしている時間は勿体無いし、

早く寝た方が健康にいいから、

もう見るのを本当はやめたい。

 

 

そう思って、友人に真剣に相談してみた。

 

 

するとその友人は、

私の悩みをじっと聞いた後、

こう言った。

 

 

「鏡を自分の目の前に持ってきて、

自分が食べているところを

見たらどうですか?」

 

 

とてつもなく雑な提案だった。

 

 

他人が美味しそうに

大量に食べているから面白いのであって、

少食の私が真夜中に一人で、

鏡に映る自分の地味な食事風景を見つめて

一体何が楽しいというのだろうか。

 

 

もちろん実行することもなく数ヶ月が経ったが、

今でも思い出すたびに、

その提案の雑さに笑えてきてしまう。

 

 

 

 

 

そうやって、やめたいと言いながら

毎晩指を動かして動画を見続けているし、

さらに言えば、私自身も

「画面に向かって一生懸命に話して

伝えている一人」なのだ。

 

 

さっきまで、これからどうやって

このSNSの画面を使って、

私らしく文章や動画を届けていくかを、

机の前で真剣に考えていた。

 

 

どうすればもっと伝わるか、

どうすれば必要としてくれる人に届くか、

そればかりを考えていたのだ。

 

 

私は時々、意識のカメラを

ぐーっと上空へと

引っ張り上げることにしている。

 

 

宇宙の果てから地球を眺めて、

その中のアジアという大陸の、

さらに日本という国の、

さらに愛媛県の松山市にある

マンションの一室。

 

 

そこにポツンと座って、

小さなスマホの画面を必死に見つめたり、

あるいは画面に向かって

熱弁を振るったりしている

「冨田恭代」という一人の人間を、

はるか高い視点から客観的に見つめてみる。

 

 

すると、やっぱり猛烈に笑えてくるのだ。

 

 

世界を広げるために、世界と繋がるために、

この何センチかしかない小さな画面に向かって、

必死になって文字を打ち込んだり、

声を吹き込んだりしている私の姿は、

客観的に見れば、

さっき私がインスタのおすすめ欄を見て

冷めてしまったあの人たちと、

何一つ変わらない。

 

 

必死になればなるほど視野が狭くなり、

すぐ目の前にあるリアルな生活や、

肌で感じられる心地よさを

そっちのけにしてはいないだろうかと、

自分に対して滑稽になる。

 

 

 

 

 

私の視野は、世界を広げるために

この小さな画面を使っているのだろうか。

 

 

それとも、この画面のせいで、

逆に世界をものすごく

狭くしてしまっているのだろうか。

 

 

私たちはもう、

スマホやSNSのない時代に

戻ることはできない。

 

 

これだけ便利な道具を

完全に手放して生きることは、

現実的ではないし、

その必要もないと思う。

 

 

大切なのは、画面の向こう側の世界に

自分の意識を

すべて支配されてしまうのではなく、

現実の感覚と、画面の中の世界を、

上手に行き来しながら

使いこなすことだ。

 

 

 

 

 

私は、友達や大切な人と会っているときは、

スマホを見ないようにしている。

 

 

なぜなら、その場の空気、

目の前にいるその人の表情、

その時にしか生まれない会話のテンポを、

五感のすべてを使って

その場でしか味わえないものとして

感じたいからだ。

 

 

画面の中には、

後からでもアクセスできる。

 

 

けど、目の前の人と過ごす

「今」という時間は、

巻き戻しがきかない。

 

 

SNSを使って文章を届けたり、

動画やラジオで発信したりすることは、

私にとって大切な表現活動だ。

 

 

だからこそ、画面の中の数字や、

他人の派手な発信に振り回されて、

自分が支配されていることにすら

気づかない状態にだけはなりたくない。

 

 

画面の向こうで

一生懸命になっている人たちの姿を、

ちょっと離れた高い視点から

「みんな必死で可愛いな」

と面白がれるくらいの

心の余白を持っていたい。

 

 

そして、自分自身の必死さも含めて、

全部を笑い飛ばせる軽やかさを

持っていたいと思う。

 

 

スマホの画面をスクロールする指を

たまにはピタッと止めて、

窓を開けて

愛媛の美味しい空気を吸ってみる。

 

 

便利さに振り回されず、

自分の足元にあるリアルな心地よさを

一番に大切にしながら、私はこれからも、

私にしか書けない言葉をこの小さな画面から、

世界へと届けていくつもりだ。

 

 

今夜もベッドに入ったら、

まずはスマホを置いて

目をつむる努力をしてみようと思う。

 

 

まあ、気づけばまた、

見知らぬ人がおにぎりを大食いする動画を、

指一本でスクロールしながら

朝を迎えているかもしれないけれど。

 

 

 

 

 

 

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お風呂上がりにバスタオルで体を拭き、

そのまま服を1枚も着ずに冷蔵庫を開けて

冷たい飲み物を喉に流し込む。

 

 

そのまま意味もなく、

生まれたての姿のままでリビングから廊下、

キッチンへと家中を無駄にウロウロと歩き回る。

 

 

実家にいた頃でさえ

そんな破天荒な徘徊はしたことがなかったのだが、

同居している恋人が出張に出かけ、

家の中が「完全なる1人きり」になった瞬間、

私の体はこの全裸徘徊の

フェスティバルを開催してしまう。

 

 

私は今、愛媛県松山市にあるマンションで、

首の骨を折って肩から下が動かない

車椅子ユーザーの

しげちゃんと一緒に暮らしている。

 

 

 

 

 

私たちの家には、24時間、

毎日違うヘルパーさんが

交代で常に出入りしている。

 

 

一般的に見れば

プライバシーなんてものは文字通りゼロ、

どこを向いても常に他人の視線が

存在する特異な環境だ。

 

 

そのため、普段の生活でお風呂に入るとき、

私はあることに異常なほど気を遣っている。

 

 

それは、お風呂から上がった後に

着る部屋着の準備だ。

 

 

脱衣所へ向かう前、

部屋着の上下を絶対に間違えず

にセットで持っていくこと。

 

 

これが私にとっての密かな

最重要ミッションとなっている。

 

 

もし、うっかり寝ぼけていて、

上着だけを2枚持って脱衣所に入ってしまったら、

その瞬間に私の日常は

一気に災難へと早変わりする。

 

 

部屋には常にヘルパーさんという他人がいるのだ。

 

 

 

 

 

いくらしげちゃんの手足となって

動いてくれているヘルパーさんとはいえ、

下半身を丸出しにした状態で

「あ、間違えちゃった」と

リビングを横切るわけにはいかない。

 

 

そんな事態に陥ったら、

私は脱衣所の中で服を着られないまま、

一人で途方に暮れることになる。

 

 

だからこそ、しげちゃんが出張で不在になり、

ヘルパーさんもいない

完全な一人きりの空間になったときは、

何の気遣いも要らない。

 

 

服を着ずに冷蔵庫を開けて冷たい水分を補給し、

無駄にリビングをウロウロしてみる。

 

 

実家にいた頃だって

そんな大胆なことはしていなかったのに、

なぜか今の環境になってから、

この「誰の目も気にしなくていい時間」が

私の、ちょっと特殊な日常の裏側だ。

 

 

でも、同じように

パートナーとの同居生活や、介護、

あるいは何らかの形で他人の目を気にしながら

暮らしている人がいるなら、

この「反動で極端な

解放感を求めてしまう気持ち」は、

きっと痛いほど分かってもらえると信じている。

 

 

しげちゃんの出張には、

基本的には私も一緒に同行することが多い。

 

 

色んな県へ仕事の名目でついていけるのは、

私にとっては半分旅行のような気分で、

美味しい地元の料理を食べたり、

新しい景色を見たりできる最高に楽しい時間だ。

 

 

 

 

 

 

ただ、しげちゃんのスケジュールが分刻みで、

私の自由な時間がほぼ作れないような

過酷な出張のときは、

私は大人しく自宅で

お留守番をすることにしている。

 

 

その瞬間、私の一人全裸徘徊フェスティバルの

幕が上がる。

 

 

普段から我慢を強いられているわけではない。

 

 

しげちゃんもヘルパーさんも、

私にそんな理不尽なルールを課してはいない。

 

 

ただ、一人の時にしか絶対にできないことを、

ここぞとばかりにやり尽くしたいのだ。

 

 

服を着るという、人類が数万年かけて身につけた

最低限の理性を脱ぎ捨てて、

リビングをウロウロしている時の

あの圧倒的な開放感。

 

 

私にとっての秘密の癒やし時間なのだ。

 

 

 

 

 

こんな風に書くと、まるで私にとって

ヘルパーさんという存在が、

普段の生活の邪魔になっているかのように

誤解されてしまうかもしれない。

 

 

だが、それは完全に真逆だ。

 

 

ヘルパーさんが24時間しげちゃんのそばにいて、

彼の体となって動いてくれているからこそ、

私はこうして自分の時間をこれまで通りに確保できている。

 

 

こうしてパソコンの前に座って、

誰にも邪魔されずに

文章を書き続けることができているのだ。

 

 

よく周りの人から、驚きと好奇心の混ざった目で、

こんな質問をされることがある。

 

 

「どうやって恋人としての時間を作っているの?」

「24時間他人が家にいて、

どうやって二人のオンとオフを

切り替えているのか知りたい」と。

 

 

世間一般のイメージにある

介護やヘルプの仕様だと、

四六時中、当事者の真後ろに

ぴったりとスタッフが張り付いているような光景を

想像するのだろう。

 

 

しかし、私たちの家で起きているチームプレイは、

そんな型にはまった退屈なものではない。

 

 

大事なのは、物理的に近くにいつでも

一緒にいることではない。

 

 

しげちゃんが「今、どうしたいのか」という

意思決定に基づいて、

ヘルパーさんの動きがその都度、

軽やかに変わることだ。

 

 

基本的には、食事の時も

ヘルパーさんと一緒に

ワイワイと居酒屋へ行くことが多い。

 

 

けれど、

「今日は二人きりで静かに話がしたいな」と

しげちゃんが決めれば、

二人だけで居酒屋の暖簾をくぐる。

 

 

その間、ヘルパーさんはお店の近くの車の中や、

いつでも動ける状態で待機してくれている。

 

 

そして、その二人きりでいる時間のご飯のサポートだけは、

私が彼のファーストクラスの

専属キャビンアテンダントになったつもりで、

楽しく対応しているのだ。

 

 

 

 

 

しげちゃんと出会わなければ、

私は障害を持つ人が送る

「自立生活」という世界の仕組みを、

一生知らないまま終わっていた。

 

 

介護といえば、あらかじめ決められた

マニュアル通りの

スケジュールに人間が体を合わせ、

許可をもらいながら静かに生きるものだと、

勝手に思い込んでいた。

 

 

しかし、ここで繰り広げられている日常は、

どんな状態であろうとも、

自分自身の決定権を握り締め、

自分らしく生きていける環境が

この世界には用意されているのだという、

生きる希望そのものだった。

 

 

その生き方に、私は日々感動している。

 

 

ここから先は、

こちらのnoteに綴っています。
https://note.com/yasuyo_san/n/nd0d071ded2ff

 

 

オブラートという名の

便利な包み紙をすべて破り捨てて、

私たちの日常の、さらに奥にある

生々しい本音を赤裸々に綴っています。

 

 

綺麗事だけでは決して終わらない、

排泄のリアルと愛情の質の話。

https://note.com/yasuyo_san/n/nd0d071ded2ff
 

 

 

 


 

 

 

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