日常の生活の中で、
映画の主人公のような
ドラマチックな大事件なんて
そうそう起きるわけがない。
私の毎日は、せいぜい
自動ドアの前に堂々と立ったのに、
センサーに完全に無視されて
ガラスの手前で一瞬だけ立ち尽くしたり。
サランラップの切り口が見つからず、
ようやく見つけたと思ったら
斜めに切れ目が永遠に入ってしまい、
鋭角のまま細長く引きちぎれ続ける
といった地味な出来事の積み重ねだ。
しかし、その何でもない平凡な景色を前にして、
自分の心が右に揺れるのか左に揺れるのかを
じっと見つめる瞬間にこそ、
人間としての面白さが詰まっている。
発信で伝えるべきなのは、
出来事の派手さではなく、
誰もが見過ごすような小さな物事に対する、
自分だけの
ちょっと面倒くさい捉え方のプロセスだ。
何かを発信しようと頑張っている人を見ていると、
物事や出来事そのものを正確に伝えることに
一生懸命になっている姿をよく見かける。
「今日、こういう場所に行って、
こういうことがありました」という報告だ。
もちろん、その行動力は素晴らしいし、
出来事の多さや行動の範囲が広いことも、
その人の魅力の一部を形作る大切な要素には違いない。
世の中には、パッと調べるだけで
一瞬で答えがわかる便利な情報や、
生活を豊かにしてくれる
お役立ち事実のデータが溢れている。
私自身、日々の生活の中で
そういった情報にはとてもお世話になっているし、
目的に合わせて頻繁に利用もしている。
見知らぬ誰かが丁寧にまとめてくれた
「おすすめの家電」や
「効率のいい掃除の手順」は本当に役に立つし、
ありがたい存在だ。
そのおかげで、引っ越してきた部屋は
どんどんピカピカに磨き上げられている。
ただ、そういった
「正解のデータ」ばかりをずっと眺めていると、
私はいつの間にか、
胸のあたりがじわじわとお腹いっぱいになって、
少しだけ息苦しさを感じてしまう瞬間があるのだ。
どれだけ有益な情報であっても、
それだけで心が満たされるわけではない。
発信を頑張ろうとすればするほど、多くの人は
「何か面白い出来事を体験して、
それを綺麗にわかりやすく
伝えなければいけない」と、
外側の事実を必死にかき集めることに
意識が向いてしまいがちだ。
だけど、どれだけ珍しい情報や
事実を並べられても、
それを発している本人の
「体温」が見えてこないと、
どこか寂しさを覚えてしまう。
私が本当に興味を惹かれるのは、
誰かが発する情報の正確さではなく、
その人がその物事を見て何を思い、
どう感じてその言葉を選んだのかという、
頭の内側の仕組みなのだ。
誰もが同じようなテンプレートに沿った
綺麗な正論ばかりを語る空間に浸っていると、
心のどこかがカラカラに
乾いていくような気がして、
他人の発信を見ることに疲れてきてしまう。
それは、情報そのものが悪いのではなく、
そこに人間としての生々しい感情や、
思考のねじれが置いてけぼりになっているからだ。
私たちは誰もが、
自分だけの偏った受け止め方の癖を
持って生きている。
自分らしさとは、
体験した出来事の多さや
派手さで決まるものではない。
それ以上にその人らしさが
くっきりと浮かび上がるのは、
目の前の出来事を「どう捉えているか」という、
その人の心の動きそのものだ。
例えば、
黄色は好きだけど、オレンジ色は嫌いだ。という、
他人からすればどうでもいい
好みのジャッジがあるとして。
黄色はただの黄色だし、
オレンジ色はただのオレンジ色だ。
そこに最初から良い悪いの評価などついていない。
それなのに、勝手に好き嫌いの判定を下して
世界を眺めているのは、他ならぬ自分自身だ。
じゃあ、なぜ黄色は好きなのに、
オレンジ色は嫌いなのか。
その「なぜ?」の引き出しを開けていくと、
そこにはその人が生きてきた背景や、
そう捉えるようになった
独自のプロセスが隠されている。
色そのものの問題ではなく、
その色にこびりついているその人の記憶や、
大切にしている価値観が
透けて見えるからこそ、
その人の性質が立体的に浮かび上がってきて
面白くなる。
私自身、この偏った受け止め方の癖を
強烈に持っている。
具体的な例を挙げるなら、
私はニンジンが昔から嫌いだ。
大人になった今は、
年齢を重ねたこともあって
出されれば普通に食べられるようにはなった。
けど、頭で栄養があるから食べようと、
理解して口に運んではいても、
内側の深い部分では、今でも
体が「私はこれが苦手です」と
はっきりと拒絶のサインを出しているのを感じる。
なぜ、そこまでニンジンに対して
頑固な苦手意識を持ってしまったのか。
時計の針を大きく巻き戻してみると、
私が小学1年生だった頃のある日の給食の時間に、
すべての原因が転がっている。
当時の給食に出てきた、
ゴロゴロと大きく切られたニンジンの塊。
それを口に入れた瞬間、
どうしても受け付けることができなくて、
気持ち悪くなってその場に
吐き出してしまったことがあった。
それが、私のニンジン嫌いの
決定的な引き金だった。
ただ、これも味が悪かったとか、
調理法がどうこうという
表面的な問題ではなかった。
当時、私はひどく内弁慶な子供で、
学校という場所へ行くこと自体が
毎日たまらなく嫌だった。
家でお腹いっぱい
ご飯を食べることは大好きだったのに、
学校の給食の時間だけは、
どうしても好きになれなかったのだ。
今になって冷静に振り返ってみると、
給食の味が合わなかったわけでは決してない。
当時の私にとって、
学校の教室という空間は
常に張り詰めた緊張感に満ちていて、
一瞬たりとも心が休まらない場所だった。
周りのクラスメイトに
上手に心を開くこともできない。
とにかく自分の家が好きで、
家族と一緒にいるときが
一番安心して息ができたし、
近所に住んでいた仲の良い親友と
一緒に過ごす時間が、何よりも楽しかった。
そんな子供にとって、
学校という大勢の人間が
ひしめき合うクラスの中に
ぽつんと置かれることは、
不安で仕方がなかったのだ。
その胸の奥のモヤモヤとした不安が、
毎日の食欲を綺麗に消し去ってしまっていた。
だから、みんなが楽しそうに食べている給食が、
どうしても喉を通らない。
結果として、食べるのが遅い私は、
昼休みになっても、
その後の掃除の時間になっても、
教室の片隅で一人、
いつまでも給食を食べ終わらない生徒として
取り残されることになった。
周りからは机を片付ける音が聞こえ、
ほうきの先が床を掃くカサカサという音が響く。
「早く食べなきゃ、
また一人ぼっちになってしまう」
そんな焦りと恐怖が頭の中をぐるぐると駆け巡る。
けれど、焦れば焦るほど、
口の中のものは飲み込めなくなる。
あの冷たい空気の中で、
必死になって口に押し込んだのが、
たまたま大きく切られたニンジンだったのだ。
この経験によって、
私の脳は「ニンジン」と
「学校での孤独な恐怖と焦り」
を完全にひとまとめにして記憶してしまった。
食べ物そのものが嫌いだったのではなく、
あの時に感じていた
どうしようもない不安な感情の置き場所が、
ニンジンという物体になって
今も私の体に残っているだけなのだ。
クソまずくて食べられない
食べ物ももちろんあるけど、
苦手なものは何かしらの思い込みがあったりする。
この、他人からすれば
「ただの好き嫌い」で
片付けられるエピソードの中にこそ、
私の性格、当時何を大事にしていて、
何に傷ついていたのかという、
冨田恭代という人間の輪郭がすべて見えてくる。
このプロセスを伝えるからこそ、
読んでいる人も
「あぁ、この人は
こういう風に世界を見てきたんだな」と、
共感するかしないかも含めて、
生身の人間として私を認識できるようになる。
出来事そのものは地味でも、
その捉え方の裏側を丁寧にめくることにこそ、
表現の本当の楽しさがある。
だからこそ、私は
人間の内側を表現することが好きだし、
他人の心を細かく深掘りしていく
作業がやめられない。
最近、私は毎朝、
目が覚めるとノートを開いて
頭の中にある言葉を
そのまま書き出す時間を取っている。
ただ思ったことを
ペンで紙に書き殴っていく、
それだけの時間だ。
このただ書くだけの
シンプルな行為を続けていると、
自分が普段、無意識のうちに何を考えていて、
どんな出来事に心を揺さぶられているのかが、
面白いほど客観的に見えてくる。
自分の行動や感情に対して、
「なんであの時、あんな風に思ったのだろう?」
「どうしてあの言葉にイラッとしたのだろう?」
という、自分自身への質問が
頭の中で止まらなくなる。
自分で自分の内側の
鍵を開けていくようなこの時間が、
私にとっては時間が溶けるほど、
夢中になってしまうことだ。
だから私は、日常生活の中で他人と関わるときも、
つい相手に対してたくさんの質問を
投げかけてしまう。
「最近、どんな仕事をしているの?」
という表面的な情報が欲しいのではない。
「その仕事をしてみて、
今どんなことを感じているの?」
という、相手の胸の奥にある
生身の声が聞きたいのだ。
相手の表面的な事実や情報ではなく、
その人の頭の内側の景色、
「なぜそう捉えたのか」のプロセスを
知りたいと思うからだ。
人が何を感じ、何を見て、世界のどこに反応して、
どういう言葉を選んで発信しているのか。
その人にしかできない
独自の捉え方の表現に触れるとき、
私は何よりもワクワクする。
だから私は、小説やエッセイという
表現の世界が大好きだ。
その中でも、人間の格好悪い部分や、
心の中のドロドロとした思考のねじれを、
引き込むように表現してくれている書き手に、
強烈に惹かれる。
私はこれまでも、自分が
「こういう文章が読みたい、
欲しい」と思ったものを、
そのまま自分で発信するようにしてきた。
自分が一番の読者であり、
自分がそれを一番求めているからだ。
世間のトレンドや、
大勢の人からの需要があるかどうかは、
正直に言ってよくわからない。
けれど、それでいいのだと思っている。
なぜなら私は、自分が書いた文章を
後から読み返したときに、
誰よりも大きな声で爆笑し、
誰よりもポロポロと号泣している
世界で最初の一人の熱狂的な読者なのだから。
自分が自分の
一番のファンでいたいと思っているし、
そうじゃなきゃ続けられない。
日常の中で起きる出来事は、
いつも地味で、何でもないことばかりだ。
今日、スーパーのレジの列で
前の人が財布を落としたとして、
それを単なる「よくある日常の一コマ」
として通り過ぎるか、
それとも「あの人が財布を落とした瞬間の、
あのハッとした表情の裏側」を
想像して面白がるか。
世界をどう色付けしていくかは、
いつだって自分の捉え方一つにかかっている。
明日もし、また何でもない
平凡な朝がやってきたとしたら、
私はいつものようにノートを開き、
自分の内側の小さなつぶやきに
耳を傾けることから始めてみようと思う。
まずは、ニンジンの入っていない
美味しいスープでもゆっくりと飲みながら、
今日という日を自分の目でどう捉えるか、
その作戦を練り始めることにする。
\メンバーシップを始めました/
ここは私が、飾らない言葉で記録する場所です。
ただ、私が「今、本当は何を考えているのか」を
自分自身で確かめるための、個人的な記録です。
https://note.com/webview/yasuyo_san/membership
■メルマガ「箸が転んでも」■
SNSの華やかな表面だけでは伝えきれない
「言葉の裏側」や、
私が日々クライアントの本質に潜り、
磨き上げている思考のプロセスや、
ちゃんとしていない私を曝け出している姿を
メルマガで赤裸々に綴っています。
https://fuka.email/page/12055.aspx









