現在、私はクライアントと深い対話を重ね、その人の生きてきた軌跡や、本人すら気づいていない価値を一冊の本や動画として形にする活動をしています。
クライアントの中には、ハンディキャップを持ちながら社会で力強く生きている方もいらっしゃいます。その方たちの心に深く寄り添い、言葉という形にしていく。相手の表情がパッと明るくなり、「これが私の言いたかったことです」と言っていただける瞬間に、私はこれ以上ないほどの喜びを感じます。
けれど、私が心からこの仕事に喜びを見出せるようになるまでには、途方もない遠回りと、多くの痛みがありました。何十年もの間、自分の声を飲み込み、誰かが作った「正解」を演じ続けてきた私が、なぜ今、他者の人生を言葉にする役割を選んだのか。私の歩んできた道をお話しさせてください。
安心がない家と、窺う子供
他人の感情の動きを瞬時に察知する私の性質は、幼少期の家庭環境で培われました。自営業で溶接職人をしていた父は、わが家における絶対的な支配者でした。職人気質特有の荒っぽさをそのまま家庭に持ち込む人でした。母もまたフルタイムで清掃の仕事をしており、朝から晩まで体を動かし、クタクタになって帰宅しても家事のすべてを担っていました。
ある日の夕食時。父は表情ひとつ変えずに瓶ビールを飲んでいました。母が急いで用意したおかずが並んだとき、父が厳しいトーンで言いました。
「醤油がないぞ」
足腰は限界だったはずの母は、文句ひとつ漏らさず財布を掴み、急いでスーパーへ走りました。パタンと玄関の扉が閉まる音をリビングで聞きながら、幼い私の胸に渦巻いていたのは、激しい苛立ちと深い悲しみでした。
「なぜ、お父さんは一歩も動かないの?」
「なぜ、お母さんは断らないの?」
けれど、私は唇を強く噛み締めて黙り込みました。口を開いて父の不機嫌に火をつければ、母をさらに困らせてしまうと分かっていたからです。父の顔色を窺い、足音で機嫌を測り、その場を丸く収めるための「正解」を演じる。私の空気を読む力は、大切な人を守り、自分がこの家で生き延びるための切実な手段として磨かれていきました。
リカちゃん人形の憧れよりも、母の正解
幼い頃、私は「自分がどうしたいか」という意志を持つこと自体を禁じていました。きっかけは保育園の頃、友達が持っていた「リカちゃん人形」に憧れ、勇気を出して母に「欲しい」と打ち明けたときのことです。
母から返ってきたのは、話し合いの余地すらない冷たい拒絶でした。
「そんなもの、いらないでしょ」
たったそれだけの出来事。けれど当時の私にとっては世界が反転するほどの衝撃でした。それ以来、私の心から純粋な欲求が消え去りました。何を選ぶにも、常に母の基準を通さなければ一歩も踏み出せなくなったのです。
スーパーでお菓子の棚の前に立っても、無意識のうちに母の横顔を見上げていました。「どれを選べば、お母さんは正解だと認めてくれるだろうか」と、微細な反応から逆算して答えを導き出す。母の過酷な日常を一番近くで見つめ、「これ以上困らせたくない」と願う同情心が、私を「母が認める正解」へと駆り立てました。自分が意志を無くし、手のかからない良い子でいることこそが、当時の精一杯の愛情表現だったのです。
ホーム・アローンと、守りたかった純粋さ
小学校3年生の春、家を建てたことで隣町へ転校した私を待っていたのは、同級生たちからの集団無視でした。毎朝、学校へ行く時間になると喉の奥に酸っぱい胃液がせり上がり、ランドセルが鉛のように重く沈みます。けれど、必死に働く母に負担をかけたくない一心で、何でもないふりをして無理やり笑顔を作って家を出るしかありませんでした。
存在価値を見失いかけていた時期、地域の公民館へ、近所の同級生とその保護者である私の母も一緒に、映画「ホーム・アローン」を観に行きました。スクリーンの中のドタバタ劇に、母は日頃の疲れも忘れたように大声で爆笑していました。私はその横顔を見てたまらなく嬉しくなりました。
しかし上映後、クラスメイトの一人から冷ややかに言われました。
「やっちゃんのお母さんの笑い声、うるさかった」
その瞬間、私の中に腹の底から焼け付くような怒りが突き上げてきました。無視されても自分が否定される痛みには耐えられた。だけど、母が心から楽しんでいる純粋な喜びが、他人の冷たい基準で汚されることだけは許せませんでした。「人の純粋な気持ちだけは守り抜きたい」という意志が、私の中に力強く根を下ろした瞬間でした。
脳梗塞と、正しい役割
12歳の冬、母が突然、脳梗塞で倒れました。深刻なダメージで自分の名前すら思い出せなくなった母は、医師から「あなたの名前を教えてください」と尋ねられても、混乱しながら私の名前を呼び続けていました。
「とみたやすよ、違う……とみたやすよ……違う、違う」
その姿に私は息ができなくなるほどのショックを受けました。医師からは最悪の事態も覚悟するように告げられた夜、亭主関白だった父がキッチンの椅子で完全に打ちのめされて下を向いていました。そして一言、私たちに言いました。
「お母さんの前で、絶対に泣くなよ」
父の命令は絶対でした。私は一人で電車を乗り換えて病院へ通い、母の前ではとびきりの笑顔で振る舞いました。しかし、面会時間が終わり、母の視界から外れた角を曲がった瞬間、張り詰めていた糸が切れました。声を殺して泣き続ける、誰にも知られてはいけない孤独な涙でした。
ぶつけられた車と、不条理な謝罪
高校卒業時、私に進路の選択肢はなく、卒業してすぐに働くことが当たり前でした。社会人になると同時に、父の支配から逃れるために一人暮らしを計画しましたが、力ずくで阻止されました。「出ていけ」と日頃から怒鳴るくせに、本当に出ようとすると許さない。そんな理不尽なルールに閉じ込められていました。
そんな中、自分で働いてようやく手に入れた一台の車は、私を家から連れ出してくれる自由の象徴でした。ある日の夕方、自宅駐車場の壁際に丁寧に停めていた私の車に、後から帰宅した父が勢いよくバックして突っ込んできました。100%父の過失でした。
しかし直後、母が血相を変えて私の部屋に飛び込んできました。
「やすよ、お願い……。お父さんに謝ってきて」
全身から血の気が引きました。父は自分の非を認めるどころか逆上しており、母はその怒りを鎮めるために、被害者である私に頭を下げるよう求めたのです。
「分かった。謝るよ。でも私は一ミリも悪いと思ってないからね」
私は感情を消し去り、屈辱の中で頭を下げました。その瞬間、私の中で何かが決定的に壊れ、同時に一つの強固な決意が固まりました。
「間違っている側の気分を良くするために、正しい人間が折れる。そんな不条理な正解を、私はもう二度と認めない」
この時の圧倒的な屈辱と怒りこそが、今の私がクライアントの「真実」を守り抜きたいと願う原動力になっています。
セクハラ退職と、握ったハンドル
高校卒業後に入社した会社での毎日は、ただお金のために耐える時間でした。「これが社会だ」と言い聞かせていましたが、ある日、職場の慰任旅行で寝込みを襲われそうになるセクハラ被害に遭いました。
恐怖と混乱の中で私が怒りをぶつけると、事情を知った父は会社に乗り込み相手を怒鳴り散らしました。一方で、母が口にしたのは「復讐のために、嫌でもこの会社に居続けてやればいいのよ」という言葉でした。辞めて逃げるのではなく堂々と居座れという、母なりの強さの示し方だったのかもしれません。
けれど、その時の私の心に芽生えたのは、明確で強固な「嫌だ」という意志でした。なぜ不誠実な人間のために、私の大切な時間を差し出さなければならないのか。私は初めて母の助言を無視し、自分の手で退職願を会社に叩きつけました。
辞めた一ヶ月後、私は求人も出ていない近所のケーキ屋に自ら電話をかけ、働く場所を掴み取りました。本音を押し込み、誰かが望む「正しい役割」を生き続けてきた私が、初めて人生のハンドルを力強く握り締めた自立の第一歩でした。
父の死と、サプライズケーキ
ケーキ屋の後に私が選んだ場所は、大手携帯ショップでした。長年培ってきた空気を読む力と誠実さを武器にがむしゃらに働き、入社からわずか一年後には店長に就任しました。しかし、部下の管理や理不尽なクレーム処理に追われる日々は苦しく、またしても会社が望む「正しい役割」を演じる毎日に戻っていました。
心身ともに限界を迎えていた時期、絶対的な支配者であった父が突然、この世を去りました。あまりに急すぎる別れの翌日、自宅の冷蔵庫の中に、父が母の誕生日のために密かに用意していたホールケーキを見つけました。
これまで一度もプレゼントを贈ったことのなかった父が遺した、最初で最後の贈り物。私は母と一緒に、そのケーキを泣きながら食べました。父の死とケーキの甘く切ない味は、私に鋭い問いを突きつけました。
(私だって、明日死ぬかもしれない。それなのにいつまで自分を殺して生き続けるんだろう……)
残業代が支払われない環境も「仕方ない」と思い込もうとしていましたが、優秀な社員たちが組織の歪みに耐えかねて目の輝きを失っていく光景は、かつて自分を殺していた母の姿や、いじめに耐えていた私の記憶と重なりました。会社側から「うちの会社に有給休暇なんて存在しない」と言い放たれたとき、もうこれ以上、不誠実な場所で大切な時間を浪費しないと決め、すべてを手放して退職しました。
縛られた結婚と、息をするための離婚
27歳の時、派遣社員として別の携帯ショップに勤め、そこから異例の速さで正社員、そして役職へと就きました。仕事での手応えを感じる一方で、「30歳までに結婚しなきゃ」という世間の言葉に追い立てられるように29歳で結婚しました。
しかし、待っていたのは義両親との二世帯住宅での、プライバシーのない生活でした。善意という名の干渉が私の心を蝕み、さらに自由のない不妊治療が私を追い詰めました。夫は非常に理性的で、私が新しいことに挑戦したいと漏らしても、「正社員を捨てるのは合理的ではない」という正論で私の想いを完全に封じ込めました。
「幸せな奥さん」を演じながらも、誰にも言えない苦しみを飲み込み、過食嘔吐を繰り返す日々。トイレで吐きながら鏡に映る自分の顔を見るたび、限界を感じていました。
そんな絶望の淵から救い出してくれたのは、母の言葉でした。
「やすよ、私のことはいいから。自分の幸せだけを考えなさい」
その瞬間、ハッとしました。母を喜ばせるために孫を見せなければ、安心させるためにこの生活を守らなければと、勝手に自分を「良い娘」「良い妻」という役割で縛り付けていたのです。私は自分の人生を取り戻すために、あえて自分を悪者にする理由を作り、高額な慰謝料を支払うことで自由を買い取りました。一文無しになってもいいから自分の呼吸ができる場所へ行きたい。その一心で起業という道を選びました。
「起業」という自由と、「数字」という評価
手に入れた自由の前に言いようのない不安に襲われ、焦るように資格を求めました。ホットヨガのインストラクターやダイエットコーチングの門を叩きましたが、運営側の利益優先の姿勢や不誠実な対応を目の当たりにし、個人の尊厳が軽んじられることへの激しい幻滅からその場を去りました。
次に女性起業家の世界、そして「月商7桁」を掲げる起業塾へと飛び込みました。そこで教えられたのは、徹底した数字至上主義でした。
「一日3記事ブログを更新しなさい」
「毎日100人にフォローといいねを送りなさい」
自分の内側から湧き出る想いよりも目立つことが優先される日々。教えられた通りに振る舞い、「キラキラした起業家」を演じる構図は、かつて母の顔色を窺い、夫の正論に従っていた頃の私と何一つ変わっていませんでした。自由になったはずなのに、無意識のうちにまた新しい窮屈な箱の中に閉じこもろうとしていたのです。
700万回再生と、苦しい関係性
2024年6月、ある一人の障がいを持つ男性との出会いが、私の人生を大きく変えました。過去の経験を乗り越えて前を向こうとする彼の志に触れ、「この人の本当の思いを私が表現したい」と心から願ったのです。彼の人生に深く潜り、その真実を丁寧に言葉にして作ったショート動画は、700万回再生という驚異的な数字を叩き出しました。
彼は一瞬にしてインフルエンサーとなり、私の表現が誰かの人生を変えている実感に喜びを感じていました。しかし、その裏側で、彼をサポートするために私の自由時間はすべて飲み込まれていきました。
「もっと出さないと困る」
「やらなくなったら、待っている人たちを見放すことになる」
派遣の仕事を終えたクタクタの体で、無償で彼の動画を作り、原稿を書き続けました。実績を出すほどに対等なパートナーではなく、彼の名声を守るための「便利な存在」へとなり下がり、イベントではただの付き人として扱われました。
私が強く言えなかった最大の理由は、「障がい者である彼を、健常者である私が支えなければならない」という思い込みからでした。高次脳機能障害による暴言も「自分が我慢すればいい」と、再び自分を押し殺してしまいました。
そんな私の目を覚ましてくれたのは、2025年12月のホノルルマラソンで出会った、ある車椅子ユーザーの経営者の方でした。彼は私を一人の人間として敬意を持って接し、私のSNSを熟読した上で「僕の人生を言葉にしてほしい」と執筆を依頼してくれました。
尊重される感覚を深く味わったおかげで、私は1年半続けてきた搾取的な関係を断ち切る決意ができました。別れを告げた私に、彼が最後に放ったのは「動画は誰が作るの?」という言葉でした。最後まで私の心など見ていなかったことを知り、他者のために自分を殺すという役割を、ようやく手放すことができました。
窺う大人から、価値を言葉にするプロへ
車椅子ユーザーの経営者の方との仕事は、衝撃的な体験でした。彼はプロのライターが書いた原稿に納得がいかず、私の感性と知性を求めて、適正な対価を支払いプロとして迎え入れてくれたのです。
最初のヒアリングは、気づけば4時間が経過していました。かつての環境では質問を重ねると不機嫌になられ、常に顔色を窺っていましたが、今回は違いました。「もっと深く掘り下げてほしい」と、私の問いかけを全力で歓迎してくれたのです。
「それは、こういう感情だったということですか?」
私が本質をたぐり寄せる質問を投げるたび、彼は「それが言いたかった!」とはじけるような笑顔を見せてくれました。
数日後、書き上げた原稿を送ると、「言葉が出ません」と、自分の人生がようやく自分の中に落とし込めたと言ってくれました。相手の人生を言語化することが、これほどまでに幸せなものだとは知りませんでした。
父の顔色を窺い、母の正解をなぞり、自分の声を押し殺してきた息苦しい日々。しかし、相手を観察し本音を察知するという、生き延びるために必死で磨いた能力が、今、目の前の一人の人生を輝かせるための才能に変わったのです。私はもう、自分の尊厳を削って誰かを支えることはしません。お互いに信頼し、尊重し合える人たちと共に、相手の人生の「真実」を表現していくと心に誓いました。
最後にと、これからと
私の仕事は、ただ綺麗な文章を書くことではありません。「誰かのため」や「正解のため」に何十年も押し殺してきた純粋な想いを、心の奥底から一滴ずつ大切に掬い上げる作業です。あなたが自分を後回しにしてまで守り続けてきた優しい心を、決して汚されることのない「尊厳」を、確かな言葉にしてこの世界に存在させること。それが、ようやく自分の呼吸を取り戻した私にできる精いっぱいの恩返しです。
あなた自身のために、そして大切な人と優しい世界を分かち合うために。これまでのあなたを一人ぼっちにせず、一緒に温かく迎えさせていただければ、これ以上ないほど幸せです。
◾️メンバーシップを始めました
ここは私が、飾らない言葉で記録する場所です。ただ、私が「今、本当は何を考えているのか」を自分自身で確かめるための、個人的な記録です。
https://note.com/webview/yasuyo_san/membership
■メルマガ「箸が転んでも」
SNSの華やかな表面だけでは伝えきれない「言葉の裏側」や、私が日々クライアントの本質に潜り、磨き上げている思考のプロセス、ちゃんとしていない私の姿をメルマガで赤裸々に綴っています。
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