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最近の本屋は、特殊な商品券でも使わない限り、容赦なくセルフレジの列へと誘導される。私はQUOカードを握りしめて数少ない有人レジに並んだのだ。

効率化のために導入されたはずのシステムが、店員、おじいさん、そして私の3人を完璧なストレスの渦に巻き込んでいった。

 

 

有人レジの私の前には、一冊の本を大切そうに持ったおじいさんが並んでいた。

支払い方法がどうやら現金だったらしく、スタッフの手によってすぐさま隣のセルフレジの画面の前へと通された。

店舗側の人件費削減、レジ誤差の防止、そして何より客の待ち時間の短縮。セルフレジが導入される目的は、どこまでも「効率化」のはずだ。しかし、私の目の前で繰り広げられた一連の出来事は、その目的とは真逆の、絵に描いたような「非効率化」の極みだった。

 

 

 

効率化という名の「非効率」が始まる場所

おじいさんは画面の前で、冷蔵庫の扉を勢いよく開けたものの、自分が一体何を取りに来たのかを秒で忘れて立ち尽くしている人のように、完全にフリーズしてしまった。有人レジのスタッフは一人しかいない。その唯一の店員が、有人レジのポジションを離れ、おじいさんのセルフレジつきっきりになって操作を案内し始めた。

 

 

ここからが、お年寄りあるあるのフルコースだ。

おじいさんは案の定、全ての操作に手こずる。

まず、タッチパネルの「押す速度」という概念が存在していない。

本来なら、画面を0.2秒くらい「ポン」と軽く叩けば済む話だ。

しかし、おじいさんは指が液晶画面の奥深くに埋もれるのではないかと思うほどの力強さで、グーッと長く押し続ける。

機械からすれば「長押しされすぎて、どの命令を実行すればいいか分かりません」という状態になり、画面には無情にもエラー表示が出る。

反応しない画面を見て、おじいさん自身も「押しているのに動かないぞ」と不思議そうな顔をしてフリーズし、おじいさん自体がエラーを起こす。

 

 

さらに、ポイントカードを機械に読み込ませるスライド操作。

軽やかに「スッ」と一瞬で通せば機械は認識してくれる。

だが、おじいさんは慎重になりすぎるあまり、カメが歩くような超スローモーションの速度でカードを溝に滑らせていく。

当然、機械は速度が遅すぎて磁気が読み取れなくて、再びエラーを吐き出す。

おじいさんは「こんなにしっかりと、心を込めてカードを読み込ませているのに、なぜだ」という顔をして、またしてもおじいさん自体がエラーを起こす。

 

 

結局、ボタンの押し間違いやエラーの連発により、レジの操作は最初からやり直しになってしまった。

その間、有人レジの列に取り残された私は、ただその戦いを見守るしかない。

店員がつきっきりで案内しているため、私のQUOカードの決済は一歩も前に進まない。

あなたが有人レジに戻って私の会計をパパッと済ませてくれれば、私は10秒で店を出られる。

店員が自分でレジを打てば、おじいさんの会計だって1分もかからずに終わるはずだ。

それなのに、おじいさんが慣れない手つきで機械と格闘し、店員がそれを後ろから指示するせいで、気づけば5分以上の時間が経過していた。

 

 

店員の顔を見れば、言葉には出さないものの、明らかに表情が引きつっていてイライラしているのが伝わってくる。おじいさんも、目の前の画面を構うことに精一杯で焦りと不安の状態。 shadow そして、ただ待ちぼうけを食らっている私も、じわじわとイライラが募っていく。誰も悪いことをしていないのに、そこにいる全員が、感じなくてもいい強烈なストレスをセルフサービスで味わっているという、この上なく理不尽な空間が完成していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

携帯ショップ店員時代に見た、テクノロジーと人間の衝突

画面の前でフリーズするおじいさんの姿を見て、世線の多くの人は「お年寄りは機械に疎くて気の毒だな」と同情するか、あるいは「早くしてくれよ」と心の中でイラつくかのどちらかだろう。

しかし、私の心の中に湧き上がったイライラは、もう少し複雑で、もっと深い場所にある根深いものだった。

なぜなら私が携帯ショップ店員をしていた頃、これと全く同じ「テクノロジーの進化と、人間の退化の衝突事故」を、それこそ毎日浴びるように目撃してきたからだ。

 

 

当時の携帯ショップには、もはや「あなた、うちの従業員でしたっけ?」とタイムカードを切りたくなるレベルの出勤率で、ほぼ毎日客として来店する年寄りがいた。

何度スマートフォンの基本操作を伝えても、家に帰った途端、綺麗に忘れてしまう。

「お姉さん、これどうやるんだっけ」と申し訳なさそうに何度も聞いてくる可愛い人はまだ良い。

こちらが分かりやすいように、紙に大きく「ここを押す」と赤ペンで手順を書いて渡してあげる。おじいさんは宝物を見つけたかのように嬉しそうにそれを持って帰る。

だが、家に帰った瞬間、その紙に書かれた日本語が、エジプトの象形文字か何かに見えてしまうのか、書いた手順が分からなくなって、次の日にまた確認するためにお店に足を運ぶのだ。それはそれで、おじいさんの脳と体にとっては良い運動になっているのかもしれないが、教えるスタッフ側のエネルギーは確実にすり減っていく。

 

 

さらに厄介なのは、世の中の進化の仕組みについていけない自分自身の焦りとプライドを、そのままお店のスタッフへの怒りとしてぶつけてくる年寄りの存在だ。

むしろ、そっちの方が圧倒的に多かった。

「こんな訳の分からん、ややこしいもんを作りやがって!」カウンターを叩きながら怒鳴る彼らの言い分も、今なら少しだけ理解できるが、彼らが使いこなしてきたガラケーも、家の固定電話しか知らなかった時代から見れば、手のひらサイズの中に宇宙が広がっているような、訳の分からんややこしいものなはずだ。

社会はどんどん効率を求めて、新しいシステムを導入していく。

お年寄りにとってはついていきたいのは山々かもしれない。

けど、覚えたくても脳の仕様が追いつかない。

見れば分かると言われる画面の案内が、視界に入ってくる情報量が多すぎて処理できない。お年寄りに厳しい世の中だと言われれば確かにその通りだ。

 

 

誰も悪くない空間で、イライラが向かう先

本屋の店員が、おじいさんにイライラしてしまう気持ちは痛いほどよく分かる。

毎日毎日、同じような説明を繰り返し、自分の本来の業務が進まないもどかしさは、業務が終わった瞬間、毎日リセットされているようで、ちりつもで精神を削っていっている。

そして同時に、画面の前でエラーを起こしているおじいさんの、あの焦りと情けなさの混ざった気持ちも分かってしまう。

 

 

だからこそ、私のイライラは、一生懸命に生きているおじいさんにも、必死にマニュアルをこなしている店員にもぶつけることができず、完全に行き場をなくしていた。

誰のことも嫌いになれないのに、非常にイライラする。この感情のやり場を探した結果たどり着いたこと。私が本当に怒りを爆発させていたのは、目の前の二人ではなく、現場にそんな融通の利かないルールを強いる、どこかの誰かが作ったマニュアルに対してだったのだ。

 

 

おそらくあの本屋には、セルフレジで対応できる決済は、お客様がどれだけ手こずろうとも、必ずお客様自身の手にやらせること。

有人レジは、セルフレジが使えない特殊な決済のみ対応せよ。

という、鉄のルールが存在していたのだろう。

そうとしか考えられないし、そうであって欲しい。

 

 

私もこれまで、なんでこんな無駄なことをしなければいけないの?と思うような、理不尽な社内ルールに、歯を食いしばって従って働いてきたからよく分かる。

組織という大きな乗り物になると、たった一人の店員が、親切心でルールを崩して代わりにレジを打ってしまった瞬間、全体の統制が取れなくなったり、別の客から「前、あの店員さんはやってくれたのに、なぜあなたはやってくれないんだ」とクレームが入ったりするリスクがある。

だから、融通が利かないと分かっていても、現場はマニュアルのロボットになるしかないのだ。

 

 

 

 

 

「手段の目的化」という、SNS発信にも潜む罠

しかし、ここで一度、大きな声を出して本来の目的を思い出す必要がある。

セルフレジの目的は、何度も言うが「効率化」だ。

手段であるはずの、セルフレジを使わせることが、目的になってしまい、結果として店全体の時間がストップし、全員がストレスを抱える、とんでもない非効率化が起きているのだとしたら、そのルールは本末転倒の極みである。

 

 

そしてこの、いつの間にか手段がゴールにすり替わってしまう現象は、何も本屋の融通の利かないマニュアルに限った話ではない。

実は、私たちが日々スマートフォンを握りしめて向き合っている、SNSの発信なんかでも全く同じ罠が仕掛けられている。

 

 

発信側の視点の話になるが、最初は誰だって、「この伝えたい思いを届けたい」「画面の向こうにいるあの人を救いたい、幸せにしたい」という、純粋な目的を持って発信を始めるはずだ。

なのに、毎日画面を見つめているうちに、いつの間にかフォロワーの数や再生回数という「数字」ばかりを血眼になって追いかけるようになってしまう。

数字はただの目安や、自分の現在地を知るための道具に過ぎない。

それなのに、いつの間にか数字を稼ぐこと自体がゴールになってしまうのだ。

どうして今これを発信しているのか、自分は一体何を伝えるべきなのかという原点を、人間は驚くほど簡単に忘れてしまう生き物だ。

 

 

もちろん、多くの人に自分の言葉を届けることは大事だ。

けれど、自分が本当に伝えたいこと、本当に自分の言葉を必要としてくれている人に伝わらなければ、どれだけ大きな数字を出せたとしても、それは中身がスカスカの、ただの空っぽな数字でしかない。

世間に「ウケるため」だけを狙って、自分の本音を曲げて作ったコンテンツが奇跡的にバズったとしても、今度はそのウケる自分をずっと演じ続けなければならなくなる。

それは自分で自分の首を絞め、自由になるために始めた発信で、自分自身を不自由な場所に閉じ込めるようなものだ。

 

 

 

 

 

誰かのためではなく、まずは自分の心を救うために

そもそも、私がこうして文章を書いている目的の一つは、自分の内側の言葉にならなかった感情を、整理するためでもある。

その瞬間、その時にしか感じられなかった生々しい感覚を、消えて忘れてしまう前に残しておきたいのだ。

そして、あの本屋のセルフレジのように、どうしてもその場で消化しきれなかった理不尽な出来事も、こうやって面白おかしく書いて文章として世の中に放り投げておくと、不思議と自分の心がすっきりと癒やされていく。未来の自分が読み返した時、過去の自分の発信内容に救われたことは何度もあった。

私にとってこの発信は、一種の心のセラピーのようなものなのかもしれない。

 

 

ありがたいことに、そんな私の極私的なセラピーを読んだ人たちから、「恭代さんが私の言いたかったことを全部代弁して言語化してくれたから、胸がすっと軽くなりました」と言ってもらえることがある。

あるいは、私の見苦しいほどの醜い感情を隠さずに曝け出すことによって、「あ、私もこんなに酷いと思っていたことを、感じていてもいいんだ」と、自分を責めるのをやめて許せるようになったと言ってくれる人たちまでいる。

それなのに、もしここで私が色気を出して、「これだけ多くの人に読まれているんだから、これからは世間にとって良いことや、みんなの見本になるような立派な正論を発信しなきゃいけない」なんて思い始めたら、私の世界は途端に窮屈で息苦しいものになるだろう。

自分のために、自分の心を救うために始めたはずの表現が、いつの間にか自分を苦しめる新しい縛りになってしまっては、それこそ本末転倒だ。

 

 

 

 

 

綺麗事では片付けない、私なりの表現の歩み

もし私があの書店の店長であれば、そんな融通の利かないルールを作った本部の人間に対して、怒りの往復ビンタを食らわせたくなるくらい会社を恨んでいただろう。

じいさんの気持ちも、店員の気持ちも、組織のジレンマも全部分かる。

だけど、だからといって「仕方のないことだよね、みんな頑張っている良いお店だ」なんて、物分かりの良い綺麗事で片付ける気は一切起きない。

ただただ、あの空間は不快だった。

だから私はレジで並んでいる時、「もうこの本屋には二度と来ないだろうな」と思った。

冷たい人間だと思われるかもしれないが、自分の平穏な心を守るためには、システムエラーを起こしている理不尽な環境から、自分の意思でそっと距離を置くことが、一番手っ取り早い解決策なのだ。

 

 

人間が作ったシステムに、人間が振り回されて窒息していく。

そんな、少しだけやるせない社会を、私は本屋の有人レジという場所でじっくりと観察した。

次に本屋へ行くときは、おじいさんの指が画面にめり込む瞬間を目撃する前に、並ばなくてもいい状況を伺って、スマートに買い物を終わらせようと思う。

進化し続ける社会の波にのまれず、乗りこなしていきたい。私は私のやり方で、目の前のイライラした出来事や、言葉にできない感情を面白がりながら、表現を楽しんでいく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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親戚の集まりで小さな子供が近づいてきた瞬間、

私の全身の細胞は「どうしよう、敵が来た」と

不自然極まりない

引きつった笑顔を浮かべてしまう。

 

 

世間には「子供はみんな可愛い天使」と

言わなければ冷酷な人間だと思われるような、

目に見えない無言の圧力が満ちていますが、

私にとって彼らは、行動予測が一切不可能な、

最も取り扱いの難しい

未知の宇宙人のような存在だ。

 

 

その苦手意識の輪郭をじっと見つめていくと、

それは子供だからという理由ではなく、

私が他人のことを「よく知らないまま、勝手な想像」で

作り上げては一人で勝手に怯えていたという、

思考の思い込みの癖だということがわかった。

 

 



 

恐怖の正体

私は昔から、子供が苦手で、いや、

正直に言えば嫌いに近い感情を抱いて生きてきた。

 

 

そんな自分が薄情で冷たい人間のように思えて

ずっと嫌だったけど、ある日、

子供に露骨につまらなさそうな顔をされた瞬間に、

私は「これは子供が嫌いなのではなく、

相手のことが分からないから怖いだけだ」という

人間関係の本質に気がついた。

 

 

世の中の「子供好き」な人々は、

一体どんな特殊能力を使って

彼らと交信しているのでしょうか。

 

 

私から見れば、子供という生き物は

完全に別の惑星からやってきた

未知の生命体だ。

 

 

とにかく、行動の予測が全くつかない。

 

 

さっきまでミニカーを握りしめて

ブーブー言っていたかと思えば、

次の瞬間には突然叫びながら

壁に頭を打ち付け始めたりする。

 

 

何を考えているのか、どこに地雷があるのか、

宇宙人の言語を解読するくらい難解なのだ。

 

 

何をしたら喜ぶのかも分からないから、

こちらは接客業で培った

お世辞スキルを総動員して、

「わあ、すごいね! カッコいいね!」と

引きつった笑顔で

必死にご機嫌を取ることになる。

 

 



 

通じない大人のルール

しかし、彼らは大人と違って、

社会的なお世辞や建前という

便利な包み紙を持っていない。

 

 

大人の世界であれば、どれだけ初対面で

気まずい空気が流れていようとも、

「最近、雨が多いですね」とか

「そのお洋服、素敵ですね」といった、

中身は空っぽだけど場を調和させるための

便利な言葉のラリーが存在する。

 

 

お互いに対人関係の仮面を被りながら、

適度な距離感を保って

大人の立ち回りができる。

 

 

しかし、子供の世界には

そんな生ぬるいルールは

1ミリも通用しない。

 

 

そして何より恐ろしいのは、

彼らが「残酷なまでに素真面目すぎる」

ということだ。

 

 

良かれと思って、引きつった笑顔で

「何して遊んでるのー?」と

精一杯のテンション

を絞り出して声をかけてみたとする。

 

 

大人の人間関係なら、どんなに退屈でも

「あ、これです」と話を合わせてくれる。

 

 

だが、彼らは違う。

 

 

私の全力の歩み寄りに対して、

一瞬だけ無表情でこちらを見た後、

何も言わずに回れ右をして

別の部屋へ去っていったりする。

 

 

あるいは、あからさまにつまらなさそうな、

退屈極まりない態度を露骨に取ってくる。

 

 

その瞬間、私の心には鋭いナイフが突き刺さる。

 

 

大人げないと言われようが、普通に傷つくのだ。

 

 

「わざわざ気を遣って、私のキャラクターじゃない

ご機嫌取りまでしてあげたのに、その仕打ちは何?」と、

めんどくさい感情が渦巻く。

 

 

もちろん、勝手に気を遣って、勝手に空回りして、

勝手に自滅しているのは他でもない私自身なのだが、

その一連のエネルギー消費がただただ疲れるのだ。

 

 



 

苦手な大人の縮図

けれど、すべての子供が

同じように苦手なのかというと、

実はそうではないことにも気づいた。

 

 

たまに、こちらの目をじっと見て、

「これはね、こうやって遊んだよ」と、

ちゃんと言葉で対話をしてくれる子がいる。

 

 

そういう子に出会うと、「あれ、可愛いな」と

素直に思えたりするのだ。

 

 

この違いは一体何なのだろう。

 

 

そう深く掘り下げて考えてみたとき、

頭の中にパッと一つの光景が浮かび上がった。

 

 

「これ、子供だから苦手なんじゃない。

 

 

大人の人間関係で大人に対して抱いている

『あの人、苦手だな』という感覚と、

全く同じ縮図ではないか」と。

 

 

私は、昔から「苦手な人」が

死ぬほど多い人間だと思う。

 

 

人混みに行けばすぐに

他人の顔色を窺って疲れてしまう。

 

 

初対面の人が集まる場所では、

なるべく人と関わらずに、静かにしていたくて、

とにかく気配を隠して「誰も私に触れないでくれ、

会話に巻き込まないでくれ」と心の中で祈っている。

 

 

私がポツンと一人にさせている時、

周囲の「お気遣い」すら未然にブロックしたい。

だから私は、周囲の優しさを先回りして防ぐために、

いつでも「私、やることがあるのでお構いなく!」

という顔をキープしている。

 

 

というか、目を合わせないように心がけている。

そして別に見たくもない

スマホの画面をただ意味深に眺め、

指でタイムラインをスクロールし続ける。

 

 

お互いの平穏を守るための、

必死の一人芝居だ。

 

 



 

幻影との一人相撲

なぜ、そんなにも周りの人が

苦手になってしまうのか。

 

 

その原因も、子供が苦手な理由と

完全に一致していた。

 

 

それは、相手の情報を

「ちゃんと知らない」ということだ。

 

 

表面上のちょっとした

トゲのある雰囲気とか、

他人から聞いた

「あの人、怒ると怖いらしいよ」という

噂話の断片だけを拾い集めて、

私は勝手に心のシャッターを下ろす天才だ。

 

 

「きっとあの人は、

私のことを見下しているに違いない」

 

 

「絶対に話が通じない、冷徹な人なんだろう」

 

 

そうやって、相手を深く知りもしないで、

自分の偏った想像力だけで

相手をネガティブにデコレーションし、

私の中で、

恐ろしい化け物を勝手に作り出してしまう。

 

 

本当の相手の姿ではなく、

自分がネガティブに捉えた

データだけで合成した

「偽物の人間」を目の前に配置し、

その幻影に向かって私は

「怖い、苦手だ、関わりたくない」と、

一人で勝手にシャッターを下ろして

怯えていたのだ。

 

 

子供の突拍子もない行動が分からないから

恐怖を感じるのと同じように、

大人の本音が見えないから、

防衛反応として「苦手」という

ラベルを貼って逃げ出していただけだった。

 

 

人間は、分からないものに対して自動的に

恐怖や不快感を抱く。

 

 

子供だろうが大人だろうが、

年齢なんて関係ない。

 

 

対話のラリーがなく、

相手の文脈が見えない状態のまま

関わろうとするから、

お互いの歯車がガチガチとぶつかり合って、

ただ疲れるだけの時間が過ぎていくのだ。

 

 

だからこそ、

お互いの背景を知るためのコミュニケーションは、

生きる上で絶対にサボってはいけない

最重要事項なのだと私は思っている。

 

 

子供だから苦手なのではない。

大人だから苦手なのではない。

相手を一人の人間として見つめ、

対話をするための

「コミュニケーション」から、

私が勝手に逃げ出して

一人相撲をしていただけだった。

 

 



 

車椅子のしげちゃんが教えてくれたこと

この「分からないから苦手」

という人間の心理は、

私が今、愛媛で一緒に暮らしている

しげちゃんのような、

体の動かない人たちに対する世間の目線にも、

そっくりそのまま

当てはまるような気がしている。

 

 

しげちゃんは

肩から下が動かない車椅子ユーザーだ。

 

 

正直に言うと、しげちゃんと出会う前の私は、

街で車椅子に乗っている人や、障害を持っている人を

見かけたとき、どう立ち回ればいいのかが

全く分からなかった。

 

 

「何か手伝った方がいいのだろうか」

 

 

「でも、下手に声をかけたら

失礼にあたるかもしれない」

 

 

「どうしてあげるのが、

この人にとっての正解なのだろう」

 

 

頭の中で、誰も教えてくれないマニュアルを

必死にめくりながら、

一人で勝手にパニックになっていた。

 

 

何かをしてあげたいという気持ちはあるのに、

どう動けばいいのかが分からないから、

結局は「見なかったこと」にして通り過ぎてしまう。

 

 

そして後から、

「私はなんて冷たい人間なんだろう」と、

激しい自己嫌悪に陥る。

 

 

あの子供を前にして

引きつった笑顔を浮かべていた時の、

あの居心地の悪さと

全く同じ感覚が、そこにはあった。

 

 



 

「正解」よりも大切なもの

そうなると、今度は

「気遣い」と「おせっかい」の境界線という、

非常に難しい問題が浮上してくる。

 

 

相手が求めてもいないのに、

良かれと思って

勝手に先回りして手を差し伸べるのは、

ただの自己満足であり、

押し付けがましいおせっかいに

なってしまうことがあります。

 

 

相手の尊厳を傷つけてしまうかもしれない。

 

 

だけど、冷たく突き放すのは絶対に違う。

 

 

この境界線を見極めるのは、

本当に至難の業。

 

 

けれど、しげちゃんや

周囲のヘルパーさんたちのやり取りを

毎日特等席で見守っているうちに、

私の中に一つの明確な答えが浮かんできた。

 

 

大事なのは、

その行動が「正解かどうか」という

外側の結果ではない、ということ。

 

 

たとえ差し伸べた手が

少しお節介だったとしても、

あるいは少し

タイミングがズレて不器用だったとしても、

その行動の根っこに

「あなたを想う気持ち」がちゃんとあるかどうか。

 

 

そこが一番大切なのだと思う。

 

 

人間は、どんなに言葉を美化しても、

相手の行動の奥にある「本音の温度」を

直感的に察知してしまう生き物だ。

 

 

会社のノルマを達成するために

親切なフリをして

近づいてくる人の言葉は

素通りしていくのに、

不器用だけど一生懸命に

自分のことを考えてくれている人の言葉には、

胸がじわーっと温かくなる。

 

 

だからこそ、手助けのやり方を

間違えてしまうことを恐れて

動けなくなる必要はないのだと思った。

 

 

その行動を見るのではなく、

その奥にある「あなたを想う気持ち」を

お互いに受け取り合える関係性を作ること。

 

 

それこそが、障害があるかないか、

大人か子供かに関わらず、

すべてのコミュニケーションの

土台にある本質なのだ。

 

 



 

質問を止めない理由

相手のことが分からないから、

勝手に苦手になってシャッターを下ろす。

 

 

そんな不毛な人生の繰り返しは、もうしたくない。

 

 

だからこそ、今の私は、

自分が関わる大切な人たちに対して、

引かれるくらいの勢いで

めちゃくちゃ質問をしてしまう人間に

なってしまった。

 

 

ハワイのスタバで

しげちゃんを尋問したあの時のように、

「何がどうしてそうなったの?」と、

相手の心の奥底まで手を突っ込んで、

しつこいくらいに問い詰めてしまう。

 

 

客観的に見れば、

相当「鬱陶しい女」と

思われているかもしれない。

 

 

それでも私が質問をやめないのは、

相手のことを深く知らないまま、

自分の身勝手な勘違いや想像だけで

「あの人、苦手だな」と

嫌いになってしまうことが、

人生においてあまりにも勿体無いと

知っているからだ。

 

 

世の中の人は、根本的にはみんな、

誰かにとっての良い人だと思っている。

 

 

私から見れば

「ちょっと態度が冷たいな」と思える人でも、

家に帰れば子供を溺愛する

優しいお父さんかもしれないし、

誰かの大切なパートナーであり、

かけがえのない大親友なはずだ。

 

 

ただ私と価値観や仕様が一時的に

「合わない」というだけで、

根っからの悪人なんて滅多にいない。

 

 

相手が何を大切にしていて、

どんな背景を背負って

その言葉を発しているのか。

 

 

それを質問して、聞いて、深く知ることで、

心の中の化け物はスッと消え去り、

目の前にいる生身の「あなた」と、

本当の意味で繋がることができるのだ。

 

 

子供が苦手なのも、大人が苦手なのも、

その先にいる人間の本質をまだ見ていないから。

 

 

相手が何を大切にしていて、

どんな背景を背負っているのか。

 

 

それを知ることでしか、

本当の安心は生まれないと思っている。

 

 

次に初対面の場に放り込まれたら、

気まずさのあまり、

見たくもないスマホの画面を

スクロールする指の速度が

過去最高速を叩き出すかもしれない。

 

 

それでも私は、生身の誰かと

深く繋がるための「最初の1行」を、

今日も愛媛の静かな部屋で、

こうしてしぶとく書き続けていく。

 

 



 

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トイレットペーパーを買うという強固なミッションがないと靴を履く気が起きないほど引きこもりが好きなのに、いざお洒落なカフェに行くと隣の席の人間観察に全エネルギーを注いでしまう。

 

 

例えばカフェで、会社の同僚でもなければ上司と部下でもない、絶妙な距離感で「ここまで来るのにどのくらいかかりました?」とお互いを褒め合うマッチングアプリ初対面カップルの、よそよそしさを耳をダンボにして聞き入っているうちに、自分の仕事は1文字も進まない。

 

 

そんな極度の人間観察中毒であり、重度の他人の気配に敏感すぎる私が、気づけば今、愛媛県松山市で24時間毎日違うヘルパーさんが常に出入りするプライバシーゼロの特殊な環境で、車椅子ユーザーのしげちゃんと暮らしている。

 

 

平穏と孤独を何よりも愛していたはずの私が、なぜこのような「常に誰かが家にいる空間」で、ストレスに白目を剥くこともなく笑って過ごせているのか。これまでの私を知る人が見たら、間違いなく「正気か?」と驚くと思います。

 

 



「優秀な店長」という仮面と、全部自分でやろうとする病

もともと私は、人に甘えたり頼ったりすることが絶望的に苦手な人間でした。23歳という若さで携帯ショップの店長を任されて以来、私の頭の中には「誰にも迷惑をかけず、すべての責任を一人で背負い、完璧な成果を出すことこそが正しい大人の自立だ」という、今思えばかなり極端なルールが居座っていました。

 

 

上司から降ってくる理不尽な売上ノルマも、部下たちの不満や愚痴も、全部自分の頭の中に抱え込みました。周りから失望されたくない、嫌われたくない、仕事ができる優秀な人間だと思われたい。そんな思いが強すぎて、他人が用意した「正解の店長」を演じるために、毎日役割の仮面を被り続けていたのです。

 

 

その結果、何が起きたか。

心と体はとっくに限界を迎えていました。仕事が終わってからは、職場の同僚や後輩、部下と飲み歩く日々。お酒が唯一の気を紛らわしてくれて、現実のことを忘れさせてくれる、癒しの時間だったのです。

 

 

仕事や家庭、夫婦関係の、誰にも言えない悩みやストレスから、過食嘔吐を繰り返す日々。トイレの床に座り込みながら、「一生このままなんだろうか。幸せってなんなんだろう。幸せとは特別な人にしか味わえないんだろうな。」と自分の人生をほぼ諦めていました。

当時の私は、人に「助けて」と言う方法すら知らなかったのです。がんばればできることは、いくら苦手で心が悲鳴を上げていても、歯を食いしばって自分でやらなければならないと思い込んでいました。

 

 

そんな「全部自分でやろうとする病」を完璧に手放すことができず、こじらせながら生きてきた私の前に現れたのが、ハワイのホノルルマラソンで出会った、首の骨を折って肩から下が動かない男・しげちゃんでした。

 

 



自立の本当の意味:自分ですることではなく、自分で決めること

しげちゃんと出会い、彼の生活を一番近くで見つめるようになって、私は生まれて初めて「自立生活」という言葉の本当の意味を知ることになります。

 

 

世間一般で言われる「自立」って、なんでも一人でこなせることだと思われがちですよね。

実家を出て一人暮らしを始め、掃除も洗濯も料理も買い物も全部一人で完結させて、誰の手も借りずに生きていける状態。かつての私も、それこそが目指べきゴールだと信じて疑いませんでした。

 

 

しげちゃんは、愛媛で自立生活センター「CIL星空」という組織の代表を務めています。この「自立生活センター」という場所が発信し、支援している「自立生活」の定義は、その真逆でした。

 

 

障がいを持つ当事者自身が運営し、どんなに重い障がいがあっても地域の中で自分らしく暮らしていけるようにサポートをする場所です。そして、彼らが何よりも大切にしている中心的な考え方が、まさにこの「自立生活」という仕組みなのです。

 

 

手足が動かないしげちゃんは、物理的に自分一人でお風呂に入ることも、ご飯を作ることも、服を着替えることもできません。けれど、彼は自分の人生のすべての決定権を、100%自分で握っています。

 

 

彼らが出した答えは、「自立とは、自分ですることではなく、自分で決めること」だったのです。

 

 



人生のハンドルを誰にも渡さない生き方

一般的な介護のイメージだと、あらかじめ決められた組織のスケジュールに沿って、「何時にご飯」「何時にお風呂」と、管理する側の都合に合わせて生活することが多いかもしれません。

 

 

施設や病院のような場所では、自分の意思よりも全体のルールやスケジュールが最優先になります。

いきたい場所があっても、やりたいゲームがあったとしても、周りの都合に合わせて、許可をもらいながら生きていく。それは、どれだけ安全で守られていたとしても、自分の人生のハンドルを誰かに渡してしまっている状態です。

 

 

しかし、自立生活センターが目指す「自立生活」は、他人の管理下ではなく、重い障がいがあっても一人の市民として社会に出て、自分の意思に基づいて日常生活を送ることを意味します。

 

 

朝、何時に起きるか。

今日の昼食に何を食べるか。

誰と会い、どこへ出かけるか。

どのようにお金を使い、どのような部屋で暮らすか。

 

 

障がいによって介助が必要な場合でも、それを「いつ、誰に、どのように手伝ってもらうか」を本人が判断して指示を出していれば、それは立派に自立した生活なのです。

彼らにとって「介助を受けて生きる」ことはゴールではありません。

 

 

介助によって移動や身の回りの動作を確保し、それによって得た時間や自由を使って、障がいのない人と同じように、本人が本当に望む活動に取り組んでいく。

一般企業で働いたり、趣味の旅行を楽しんだり、友人と交流したり、社会を良くするために活動をしたりする。

 

 

ヘルパーさんはあくまで「自分の手足」の代わりとして機能する存在であり、人生の主導権は、いつだって本人が100%握っているのです。

 

 

その様子を初めて目の当たりにしたとき、すごい!本当にすごい!と感動しました。学校でも教えてもらえない、人間が生きていくための本質を学べるのだから。もっと広がるべき活動だと、心底感じている毎日です。

 

 



人に頼ることは、強くてかっこいい行動

「人に頼るって、こんなに堂々と、クリエイティブにやっていいことなんだ」と。

これまでの私は、「人に迷惑をかけたくない」という綺麗事の裏で、本当は「できない自分を見せて失望されるのが怖い」という臆病なプライドを握りしめていただけでした。だから、どんなに苦手なことでも自分をすり減らしながら無理してやり続け、どこをどうやって他人に頼ればいいのかすら、分からなくなっていたのです。

 

 

しげちゃんを見ていると、もっと人に頼っていいし、むしろ素直に頼った方が、お互いの人生がうまく回り出すということが本当によく分かります。これこそが、本当の意味での「自立」なのだと思います。

 

 

そうやって周りを見渡してみると、世の中には本当の意味での「自立」ができていない人が、私を含めてめちゃくちゃ多いのではないか、と感じるようになりました。

外側の正解に合わせるのではなく、自分の意志を明確に持つこと。

自分の苦手なことや、できないことを「できない」と素直に認めること。

昔の私が、もしこの感覚を持っていれば、あんなに一人で抱え込んで自滅することはなかったはずです。

「これをお願いします」と相手に敬意を持って頼むこと。

これは、決して心が弱いからやるのではありません。自分が何が苦手で、何を必要としているかを正確に把握しているからこそできる、ものすごく強くてかっこいい行動だと思うのです。

 

 

素直に「助けて」と言える人の周りには、自然と人が集まり、お互いにできないところを補い合う優しいチームが出来上がっていきます。しげちゃんの日常生活は、まさにそのチームでした。

 

 



チームの境界線と、伝えなきゃ伝わらない価値観

もちろん、すべてをヘルパーさんに任せるからといって、しげちゃんが王様のように君臨しているわけではありません。

自分で決定した以上、もし何かがうまくいかなかったとしても、その結果の責任はすべて、そう決定した本人にあります。

 

 

どこからどこまでが自分の責任で、どこからがヘルパーさんの領域なのか。その境界線を曖昧にせず、毎日違うヘルパーさん一人ひとりと、言葉を交わしながらコミュニケーションを取り、信頼関係を築いていく。その姿は、一家庭の枠を超えて、ベンチャー企業の組織運営を見ているかのようにもみえます。

 

 

これまで色んな接客業を経験する中で、私は「自分の思い通りにいかない怒りを、目の前の店員のせいにして爆発させる人」にたくさん出会ってきました。これって、お店の中に限らず、私生活の人間関係でもよくあること。自分の中で何かが狂ったときに「私は悪くない、あの人のせいだ」と誰かを悪者にして自分の心を守り、外側に矢印を向け続ける人。

それをやり続えた先に待っているのは、大切な人との関係の崩壊と、自分自身の成長が止まってしまうという寂しさだけなのだと思います。

 

 

これって、職場の人間関係でも、夫婦間でも、どんなパートナーシップでも全く同じことが言えますよね。

「伝えなきゃ、伝わらない」のです。

いくら毎日一緒にいるからといって、隣にいる人は自分とは違う人間です。感覚も、育ってきた環境も、見てきた景色も、価値観も、似ているようで絶対に違います。だからこそ、面倒くさがらずに、言葉のキャッチボールをサボらないこと。それだけが、お互いを尊重し合うための唯一の道なのだと、毎日の生活からたくさんの気づきがあります。

 

 

普通じゃない生活が、私の「普通」になるまで

本当は、最近愛媛で始まった最高に面白くて、くだらない日常を今すぐぶちまけたいところです。

例えばしげちゃんと初対面から数ヶ月で、「初めて彼のデリケートゾーン(お◯ん◯ん)と対面した日」のなんとも言えない空気感。
他人の気配が1秒も消えない家で、どうにかして恋人同士の距離感を死守する私たちの涙ぐましい作戦。
さらには、しげちゃんの鼻の奥から出てきたクソでかい鼻くそを泣きながら摘出した話。
「うわ、臭っ!」と全力で悶絶しながら彼のうんちの重さを真面目に計量している、謎のミッションについて。など。

 

 

誤解のないように言っておくと、私は介助をしていません。プロのペルパーさんが完璧に支えてくれているからこそ、私はただのパートナー、ただの彼女として、普通のカップル以上にくだらないことで爆笑していられるのです。

 

 

愛媛に来てまだ3ヶ月足らずですが、この普通じゃないはずの生活が、早くも私の「普通」になりつつあります。その麻痺していく感覚が少し怖くて、今のうちにこの強烈な原液のような気づきを残すことに必死になっています。

 


配信内容はこれから、どうしてもどんどん濃くなっていくと思います。
毎日が初めてだらけのことで、これまでの私の人生では体験できなかったことばかりだから。

 

 

他人のマッチングアプリを覗き見して時間を溶かしていた私が、この部屋でどうなっていくのか、ぜひニヤニヤしながらお楽しみにしていただけると嬉しいです。
 

 



 

 

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人生の予定をきっちり管理しようとするのをやめた瞬間、愛知県に住んでいた私は、なぜか愛媛県に住むことになっていた。

もともとは2026年の夏に東京へ引っ越して、自分の活動の幅を広げるつもりだったのに、人間の計算なんて本当にあてにならない。

今、私の目の前には、手も足も動かないのに60人のスタッフを率いて世界と日本中を飛び回っている男、しげちゃんがいる。

 

 

突然の失恋カミングアウトと、私のフリーズ

しげちゃんとの出会いは、2025年12月に出場したホノルルマラソンだった。

同じ10kmコースを、彼は電動車椅子、私は徒歩で進むことになった。

当時の私たちの共通点は「日本人であること」と「ホノルルマラソンが初出場であること」の二つだけだ。

 

 

最初は何を喋っていいのかも分からず、大して会話をした記憶もない。

しかし、彼が泊まっているホテルに遊びに行った時、事件は起きた。

綺麗な夕陽が海に沈んでいく、いかにもロマンチックな雰囲気が漂う空間で、しげちゃんはいきなり私に向かってこう言ったのだ。

「実はさ、11年付き合ってた人と別れたんだよね」

初対面に近い私に対して、突然の失恋カミングアウトである。私は完全にフリーズした。

どう反応するのが正解なのか、全くわからなかったからだ。

 

 

彼は私から慰めの言葉が欲しいのだろうか。それとも「次の出会いがあるよ」と励ましてほしいのだろうか。

下手に口を開いて相手を傷つけるのも嫌だし、かといってスルーするわけにもいかない。

頭の中で選択肢を高速で回した結果、私の口から出たのは完全な無言だった。

 

 

当のしげちゃんは、そんな私の困惑をよそに、ずっとヘラヘラと笑っていた。

そのときの私は、「きっとこの笑顔の裏には、11年という歳月の重みと、言葉にできない深い悲しみが隠されているに違いない。彼は傷つきながらも、強がって笑っているのだ」と、彼の心理の裏を深く読みすぎていた。

しかし、今ならはっきりとわかる。あのときの彼は、裏も表もなく、ただ単純にヘラヘラしていただけだ。

私のあの真面目に考え込んだエネルギーと時間を、今すぐ返してほしいと心の底から思っている。

 

 

ただ、この唐突すぎるカミングアウトのおかげで、私たちの間の心の距離が少しだけ近づいたのも事実だった。

 

 

なぜ私は、初対面の男を尋問したのか

10kmを無事にゴールした後、私たちはスタバでお茶をすることになり、そこで初めて二人きりになった。

共通の趣味も会話のネタもない私は、手っ取り早く場を繋ぐために、ホテルでの失恋話を思い切って引っ張り出してきた。

すると、しげちゃんは会話の端々に「いやあ、寂しい」「本当に寂しい」と、その言葉を何度も何度も連呼し始めたのだ。

それを聞いているうちに、私の心の中にふつふつとイライラが湧き上がってきた。

 

 

「何が寂しいの? どういうふうに寂しいの? 何に対して寂しいと言っているの?」

私は、物事や感情を深く掘り下げて考えることが三度の飯より好き。

人間の内面というのは、そんなに単純な一言で片付けられるものではないはずだ。それなのに、自分の複雑な状態に向き合うことを放棄して、「寂しい」というたった一つの便利なカテゴリにすべてを放り込み、ただ言葉を連呼している彼の姿に我慢がならなかった。

「もっと自分の頭で考えろ!」という気持ちが抑えきれなくなり、私は彼に対して色んな角度から質問責めを開始した。

 

 

初対面の男をスタバで尋問する女。客観的に見ればかなりの地獄絵図である。

私のように物事を細かく考える面倒くさい人間はそうそういないので、しげちゃんは確実に困惑していたし、返答に詰まっていた。

けれど、この容赦のない質問責めこそが、日本に帰ってからさらに二人の距離を縮めるきっかけになったのだから、本当に人生は何が起こるかわからない。

 

 

首の骨を折った男の、壮絶な過去

ここで、しげちゃんという男の過去について、私が聞いた事実を書いておきたい。 彼は今から25年前、22歳のときに車の交通事故に遭い、首の骨を折って頸髄損傷になった。 この事故の経緯を初めて彼から聞いたとき、私は強い怒りを感じたし、ものすごく複雑な気持ちになった。

 

 

当時、しげちゃんはそこまで仲が良いわけではない、ただの知り合いくらいの関係性の人が運転する車の助手席に乗っていた。

車が急カーブに差し掛かった瞬間、しげちゃんは助手席の窓から外へ放り出されてしまったのだ。

信じられないのはここからで、その車を運転していた人物は、事故の事実を隠蔽しようと、警察や周囲にバレないようにあの手この手で車を別の場所に隠し、嘘の証言を何度も繰り返したという。本当にドラマに出てくる悪役そのものの行動である。

さらに、そこへ別の悲劇が重なる。

 

 

しげちゃんには、その運転手とは全く別で、別の車に乗っていた本当に仲の良い友人たちがいた。

彼らは、窓から放り出されて地面に倒れ、意識が朦朧(もうろう)としているしげちゃんを発見した。

友人たちはパニックになり、「なんとかしげちゃんの目を覚まさせなきゃいけない!」と必死になった。

そして、彼に対する強い愛情を込めて、彼の頬を何度も何度も、往復ビンタで強く叩いたらしい。

しかし、その目を覚まさせるための必死の対応が、折れていた首の骨の損傷をさらに悪化させてしまったのだ。

友人たちに悪気は一切なかった。ただ気が動転していて、若すぎて、よかれと思ってやった行動が、結果的に彼の体に決定的なダメージを与えてしまったという悲劇につながった。

このエピソードを知った時、私は人間のやるせなさと、運命の不条理さに頭がクラクラした。

 

 

コントロールを手放すと、予想外の景色が見える

そんな壮絶な過去を経て、現在のしげちゃんは肩から下が動かない。

けれど、かろうじて動かせる左手を使って、電動車椅子を信じられないほど軽やかに運転して生活している。

日本に帰国してからしばらくして、彼から私にある依頼が届いた。

 

 

実は、しげちゃんは自分の半生をまとめた本を出版しようとしており、ライターに依頼して原稿を書いてもらっていたらしい。

しかし、出来上がってきた原稿は単なる事実が羅列されているだけで、彼が本当に伝えたい内面が全く表現されておらず、納得がいかないまま1年間も作業が止まっていたという。

そこで彼は、ハワイのスタバで私に質問責めにされたことを思い出したのだ。

「あのときの尋問のおかげで、自分自身を深く掘り下げることができた。だから、僕と一緒に本を作ってほしい」と。

こうして私は、彼の本の出版に向けた伴走であり、プロデュースを引き受けることになった。

 

 

しげちゃんは「CIL星空」という自立生活センターの代表でもあり、経営者でもある。

スケジュールは常に分刻みで多忙を極めており、オンラインで打ち合わせのミーティング時間を確保するだけでも予定はカツカツだった。

そこでしげちゃんから、「僕の全国への出張についてきてほしい。移動時間にヒアリングをして深掘りをすればいいし、僕の実際の仕事風景を肌で感じて、それを執筆に活かしてほしい」という提案があった。

私は、仕事という名目で色んな場所へ行けるなんてラッキーだし、最高だと思い、即座にその提案に乗った。

 

 

この同行が決まってから、私たちは1週間に一度は確実に顔を合わせるようになった。

移動中の空間で、彼の人生の深い話や本音をじっくりと聞き、連絡も頻繁にとり合うようになった。そうして時間を共有していくうちに、いつの間にかビジネスの関係を超えた感情が互いに生まれていった。

 

 

私はもともと、2026年の夏に地元の愛知県から、東京へ引っ越す計画を立てていた。

自分の活動を広げたかったからだ。

しかし、人生がどう転がるかは本当に予測できない。

出会ってからわずか数ヶ月。とんとん拍子というか、完全にジェットコースターに乗せられて、頭で色々と考える前に、心がカチッと動いてしまった結果、私は今、しげちゃんが暮らす、愛媛県松山市という縁もゆかりもない土地にいる。

自分の人生を自分の頭でコントロールしようとするのを手放すと、世界は自分が予想もしていなかった面白い場所に連れていってくれるのだと身をもって知った。

 

 

五体満足であること以上に、大切なもの

愛媛での生活が始まってから、しげちゃんによく質問されることがある。

「手も足も動かない僕と、なんで一緒にいてくれるの?本当にいいの?」

彼は少し心配そうな、申し訳なさそうな顔で聞いてくる。

そのたびに、私は自分の考え方が世間一般の基準からズレているのだろうかと考えてしまう。

 

 

私にとって、誰かと一緒に生きていく、あるいはパートナーとして付き合っていく上で、相手の手足が動くかどうかは、本当にどうでもいいことだからだ。

この世の中の道路や建物や仕組みが、「手足が自由に動く多数派の人」にとって便利になるように作られているだけの話であって、

私としげちゃんという個人の関係性の間に、彼の手足が動かないことが問題になる理由がどこにあるのだろうか。

そりゃあ、今の社会の仕様のせいで、生活する上での不便なことや面倒な手続きはたくさんあると思う。

そういう世の中なんだから仕方がない。

だけど、不便であることと、彼と一緒にいることが嫌になることは、私の中で完全に別の話だ。

手足が動いていても、不便なことや思い通りにいかないことなんてたくさんあるのだから。

 

 

自分の話をすれば、私は文章ではこうして偉そうにズバズバと意見を書いているけれど、実際の人間関係では信じられないくらい周りの顔色を窺って生きている。

空気を読みすぎて疲れるし、そのせいで自分の本音を言えずにグッと飲み込んでしまうことばかりだ。

人混みが大の苦手で、外に出るだけですぐに疲れてしまう。

人とコミュニケーションをとること自体は嫌いではないけれど、心から好きだと思える人は本当に限られていて、基本的には苦手だと感じる人の方が多い。

だから、本音を言えばなるべく人と関わらずに静かに生きていたいと思っている、強度のHSP気質だ。

そんなめんどくさい私から見れば、手も足も動かないという大きな制限を抱えながら、会社を経営し、60人ものスタッフのトップに立って組織をまとめ、世界と日本中を飛び回って、関わる人をものすごく大切にしているしげちゃんの姿は、純粋にかっこいいし、尊敬している。

 

 

世の中には、五体満足で何不自由なく動ける体を持っていながら、自分の今の環境や仕事に不満を垂れ流し、言い訳ばかりして何一つ行動を起こさない人が大勢いる。

しげちゃんは手足が動かないという「ハードウェア」の制限に文句を言うのではなく、「今の自分の状況から、やりたい望みを叶えるためにどう動くか」を常に考えて実践している。そんな彼と一緒にいる方が、圧倒的に刺激的で楽しいのだ。

 

 

しげちゃんは、私の顔を見て「僕なんかでいいの?」と不安そうに聞いてくる。

そのたびに、私は言葉には出さず、心の中で全く同じセリフを彼に投げかけている。

「私なんかでいいの?」と。

私たちは、お互いに相手の状況に驚き、自分の不器用さに呆れながらも、この予想外の今この瞬間を、ただただ楽しんでいる。

 

 



 

 

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最高のものや、良い環境に出会った瞬間に、

それがいつかなくなってしまう恐怖を考えて

暗い気持ちになります。

 

最近、StyleBXFitという、

猫背を補正するベルトを使い始めました。

 

つけるだけで姿勢が整う

素晴らしい道具なのですが、

私は今、これがいつかボロボロになって

使えなくなる不安でいっぱいです。

 

最初は本当に半信半疑でした。

 

こんなゴムのベルトを体に巻きつけただけで、

長年の巻き肩が治るわけがないと思っていましたし、

何より見た目が正直に言ってダサいと

感じていたからです。

 

ところが、実際に使い始めてみると、

私の予想は見事に裏切られました。

 

つけている間は、

強制的に背中の筋肉を後ろに引っ張られ、

筋トレをしているかのような状態がずっと続きます。

 

はっきり言って、つけている間は

背中がかなりしんどいです。

 

いつも前傾姿勢で

パソコンに向かっている体を、

強い力で後ろに引き戻されているのですから、

体に負荷がかかって当然です。

 

けど、そのしんどさを超えた先に、

明らかな変化がありました。

 

背筋がまっすぐに伸びて、

肩や頭の位置が正しい場所に

カチッと整ってきたのです。

 

それだけでなく、

正しい姿勢がキープされたおかげで、

勝手に腰回りの贅肉までもが

スッキリしてきました。

 

さらに、正しい姿勢の心地よさを

体が覚えてしまったので、

逆にいつもの悪い姿勢に戻ろうとすると、

違和感があって

体が痛くなってくるようになりました。

 

鏡を見ても、

体のラインがキレイに見えるようになって

姿勢が良くなると、若く見えるし

シルエット美人になれてしまう。

 

姿勢ってめちゃくちゃ大事だなと思いました。

 

このベルトのおかげで、

体に変化が出てきてくれて、

そのおかげで、もっと良くしたい!と

私のモチベーションは跳ね上がりました。

 

今まで「ダイエットをしよう!」

と意気込んでは三日坊主で終わっていた私が、

生活の中のちょっとした隙間時間に、

テレビを見ながらストレッチをしたり、

お尻を少し鍛える筋トレをしたりを、

自然とやってしまうようになったのです。

 

このStyleBXFitの効果には、

猫背を治すことのほかに

「モチベーションも劇的に上がる」と

パッケージに大きく

表記した方がいいのではないかと思うほどです。

 

ここまで効果を感じて、普通の人なら

「良い買い物をした」と大喜びして終わるはずです。

 

しかし私は、

ここからおかしな方向へ走り始めます。

 

「もし、このベルトのゴムが緩んで、

使い物にならなくなったらどうしよう」

 

「その時に、もう新しく

買い直せなくなっていたらどうしよう」

 

「もし、メーカーがこの商品の製造をやめて、

絶版になってしまったら……」

 

まだ使い始めて間もないのに、

何年も先に起きるかどうかもわからない

絶版の恐怖を勝手に想像して、

一人で本気で不安を抱えているのです。

 

この「良いものを見つけると、

失う怖さが同時にやってくる」という現象は、

私の生活のあらゆる場面で発生します。

 

今、私は「安住紳一郎の日曜天国」という

ラジオ番組にものすごくハマっています。

 

過去の放送のまとめを聴き漁っては、

部屋で一人で涙を流しながら爆笑している時間が、

毎日の最高の時間で、常に聴いていたい。

 

久々にこんなに夢中になれるラジオに出会えて

本当に幸せです。

 

しかし、ここでも私の頭の中には

不安が顔を出します。

 

「このラジオが、

いつか終わってしまったらどうしよう」

 

「今聴いている過去のまとめを

すべて聴き終えてしまったら、

私の毎日の楽しみは

完全に消え去ってしまうのではないか」

 

楽しければ楽しいほど、

終わりが近づいてくる

カウントダウンを勝手に感じて、

一人で寂しくなっているのです。

 

Netflixで面白い海外ドラマを

見つけたときも同じです。

 

世間では「シーズンが長すぎて観る時間がない」

と言う人もいますが、

私にとってはシーズンが長ければ長いほど、

本当にありがたいと感じます。

 

可能であれば、一生続いて欲しいと願っています。

 

夢中になれる期間が

それだけ長くなるからです。

 

だからこそ、再生ボタンを押して

映像に夢中になりながらも、心の片隅では

「これが全話終わってしまったら、

私は確実に抜け殻になってしまう」

という不安を常に抱えています。

 

終わられたら困る、終わったらどうしようと、

ハラハラしながら画面を見つめているのです。

 

文房具でも、

ものすごく文字が描きやすいペンに出会うと、

嬉しさと同時に恐怖が押し寄せます。

 

絶版になって手に入らなくなることが怖くて、

文具店に行っては

替えの芯を大量に余分に買い込んで、

引き出しにストックしておかないと

気が済みません。

 

これ、誰も口には出さないけれど、

同じように

「幸せの真っ只中で、

わざわざ終わりの絶望を

先取りして疲れている人」って、

実は結構いるのではないでしょうか。

 

この思考の癖は、私が会社員として

週5日で働いていた時の休日にも、

全く同じ形で現れていました。

 

一週間の中で一番幸せな瞬間は、

間違いなく金曜日の退勤時間です。

 

今日が終わっても、明日も明後日も休み。

 

金曜日の夜は無敵の状態です。

 

そして土曜日の朝を迎えます。

 

目覚まし時計をかけずにゆっくり起きて、

コーヒーを飲んでいる時間は、

まだ心に十分な余裕があります。

 

なぜなら、明日もまだ休みだからです。

 

問題は、日曜日の朝です。

 

目が覚めた瞬間、

まだ日曜日が始まったばかりで、

丸一日休みが残っているはずなのに、

私の頭には

「明日からまた月曜日が始まる。

あの嫌な仕事に行かなければならない」

というプレッシャーがよぎります。

 

せっかくの休日なのに、

まだ来てもいない

月曜日の仕事のことを考えて憂鬱になり、

目の前にある日曜日を全力で

楽しく過ごせなくなってしまう。

 

時間としては確実に休んでいるのに、

頭の中は仕事場に出勤している。

 

これほど勿体ない時間の使い方はありません。

 

自分でも重々わかっているのに、

気持ちが不安を先回りして感じてしまうのを

止めることができませんでした。

 

今この瞬間、目の前には楽しいことや、

心地いい環境が、確かに存在しています。

 

良いものに出会えたことも、

良い環境に巡り会えたことも、

客観的に見ればものすごく幸せなことです。 

 

それなのに、なぜ私は

その瞬間になくなる不安ばかりを考えて、

今を味わうことができないのでしょうか。

 

原因をじっくりと考えてみて、

一つの気づきがありました。 

 

私は、今感じている幸せな時間が

もし終わってしまったとしても、

「その先にもっと楽しい時間や、

新しい素敵な出会いがある」ということを、

心の底から信じられていないのです。 

 

楽しいものがなくなってしまったら、

もう二度とそれ以上のものには

出会えないという、変化することへの恐怖が

人一倍大きいのだと思います。

 

実は、この

「先回りの不安で動けなくなる」

という思考の癖は、

過去に嫌な職場にいるにも関わらず、

環境を変えることができなかった時の

心理と完全に一致していました。

 

当時の職場の人間関係や労働環境に対して、

毎日強い不満を感じていました。

 

本当はそこから抜け出したいはずでした。 

 

それなのに、私は

新しい一歩を踏み出すことができませんでした。 

 

なぜなら、

「ここを辞めて新しい場所に行ったとき、

これ以上に悪い環境だったらどうしよう」

という、まだ見ぬ未来の不安が

私を支配していたからです。

 

動いて失敗する恐怖に比べたら、

今の嫌な環境の方がまだマシなのではないか。

 

「もしかしたら、色々と文句はあるけれど、

今の私はまだ恵まれている方なのかもしれない」と、

自分に都合のいい嘘をついて言い聞かせていました。 

 

これまで何とか

この場所で耐えてやってこれたのだから、

これからも我慢できるなら

大丈夫なのかもしれない、と、

現状維持を選ぶことで

自分を守ろうとしていたのです。 

 

我慢できるから大丈夫なのではなく、

大事なのは、今この瞬間を

どれだけ自分が満足して生きられるか。 

 

まだ起きてもいない未来の不足を心配して、

今ここにある幸せを無駄にする生き方は、

本当にもったいないです。

 

変化を恐れて、今あるものを失う不安に怯えるあまり、

私は自分の可能性や、

今ここの幸せを完全に放り出していました。

 

ベルトのゴムが緩んだら、

その時にまた別の

素晴らしい姿勢サポートグッズを探せばいいのです。

 

ラジオが終わったら、

また新しい面白いエンタメに出会えばいい。

 

選択を間違ったと思ったのなら、

そこからまた変えていけばいい。

 

今こうやって、最高だと思える幸せを

感じられている自分がいて

環境が作れているのだから、

これが最後、これ以上はないなんてことは

あり得なのだから。

 

変化することは、

失うことだけではありません。

 

また新しい「最高」に出会うための、

スタートでもあるのだから。

 

これからも、私は

先回りの不安を無くすことはできないけど

今この瞬間にあるお気に入りの時間を、

ただただ、ご機嫌に味わっていこうと思います。

 




 

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