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 著者が棋士界において前代未聞の「七冠」を達成したのは1996年で、当時25歳。この本は34歳の時に書かれたもの。やっぱり冴えている人は、文章も明晰である。2005年7月初版。

 

 

【キスでいけ】
 ロボットの研究者である金出武雄先生が、学生を指導するとき、
 ごちゃごちゃ考えないで、「キスでいけ」と言うのだという。(p.24)
 キス(kiss)とはいっても、相手がいなくても可。
 Keep it simple, stupid の頭文字。「もっと簡単にやれ、バカモン」
 互いに妙手(含みのある手)を繰り出す対局では、必然的に複雑怪奇な様相に嵌り込んでしまう。そんな時は返ってキスの有効性に思い当たるのだろう。

 

 

【整理整頓】
 父は外資系の会社に勤めるエンジニアであったが、「仕事にゆき詰まったときは整理整頓」というのが口癖だった。休みの日になると朝早くから起き出して、部屋の片付けを始めるのだ。うるさくて寝ていられなかったことを思い出すが、私もその遺伝子を受け継いだようだ。(p.36)
 整理整頓が出来ていないと、キスすらできない。
   《参照》   『夢をカタチにする方法』 しんどうこうすけ (インデックス・コミュニケーションズ)
             【06:00 おそうじ】

 

 

【定跡】
 将棋を御存じない方は、囲碁の「定石」を思い浮かべられるだろが、将棋の駒は石ではないので「定跡」という。(p.26)
 知らんかった。
 だが、「これが定跡だ」といわれているものが、必ずしもいつも正しいとはかぎらない。十年前、二十年前に定跡とされていたものが、実は間違いだったということが多くある。定跡は否定され続けて今日に至ったとも言える。鵜呑みにしないで、もう一度自分で、自分の判断で考えてみることが、非常に大事である。(p.27)
 これを読んで、ちょっと意外に思ったりもする人は少なくないんだろうけど、かつてのノーベル賞だって今では全くの出鱈目だったことがわかっているのだから、こんなもんである。
   《参照》   『もっとウソを!』 日高敏隆・竹内久美子 文芸春秋
             【タイトルの意味】

 「定跡」ではなく「権威」に盲従する人々が多いのも似たような例だろう。ドラッカーという経営学の権威の名を聞いただけで、無条件にすべて正しいと思い込むのは、あまりにも幼稚な知性である。
   《参照》   『退散せよ! 似非コンサルタント』 船井幸雄 (李白社) 《前編》
             【船井さんの「守・破・離」】

 

 

【ボーッとした空白の時間】
 タイトル戦の前などには、ボーッとした空白の時間をつくるようにしている。頭の中に空いたスペースがないと集中できない。対局場に向かうために移動するとき、基本的になにも考えずに窓の外の風景を見たり、将棋に関係ない本を読む。常に将棋漬けになっているほうが雰囲気が出るという人もいるが、私の場合は、一日でも二日でも頭の中を空っぽにしておいたほうがいいようだ。(p.96)
 自助努力型の秀才は「○○漬け」を主張するんだろうけど、羽生さんのような天才は「ボーッとした空白」を選択するんだろう。「空白」は「ひらめきをキャッチする余白」である。
 「摩訶止観」でいうところの「止」は集中である「○○漬け」の状態の極致。「観」は「ボーっとした空白」の状態に近いはずである。
   《参照》   『 時宗・狂言 “日本の心” を求めて 』 高橋克彦・和泉元彌 徳間書店
             【摩訶止観】

 

 

【仮定した最後の局面に橋を渡す】
 詰めの段階になっても、どう展開するか分からないことがしばしばある。そういうときには、最後の形を事前に頭の中で想定してしまう。つまり、この形で最後の勝負をつける、この形で最後の決着がつくんだと仮定し、今の局面からどういう手順をつくれば最後の局面に到達できるかと強引に当てはめていく。・・・(中略)・・・。仮定した最後の局面に橋を渡すように組み立てる。(p.112-113)
 長期間にわたるプロジェクトを推進している人々は、この考え方が参考になる。途中の段階がどうであろうと、到達点に向けて集中し迷わずに済む。

 

 

【自分らしさを持っているか】
 大切なのは、自分らしさを持っているかだ。「一つにこだわらない」というのが私にとってのスタイルだ。棋士の中には、「おれはこれしかやらん!」といって、一つの形ばかりやっている人もいる。
 たとえば、加藤一二三先生や森下卓さんなどは、一つの戦法を徹底的に固めてやっておられる。加藤先生の棒銀戦法、森下さんの森下システムなどはその好例である。(p.138)
 同じ形を続けるってチャンちゃんにはあり得ないことのように思えるけれど、発想のしかた自体は固定化しやすい傾向があることを自覚しているから、自分は本当に固定化をまぬがれているのか? と思うことがしばしばある。
 ところで、加藤一二三棋士の場合、
 加藤先生はもう30年ほどまったく同じ形の将棋しか指されない。食事もいつも同じものを注文なさる。違う食事を注文した日には、将棋会館に衝撃が走る。「今日は鰻じゃなくて寿司を注文したぞ」と、一日中話題になるのだ。(p.139)
 加藤一二三さんって、おもしろいエピソードが少なくない。
   《参照》   『勝負師』 内藤國雄・米長邦雄 (朝日選書)
             【加藤一二三棋士】

 

 

【将棋界も技術革新の中にある】
「昔の棋士が、今の棋士と対戦したら対等に戦えますか」
 とよく質問されるが、これには、現代に棋士のほうが圧倒的に強いと断言できる。
 過去の棋士が実力がなかったというのではない。彼らが今の時代に来て、同じ環境で将棋を研究すれば話は違う。科学技術もそうだろうが、将棋にも時代の水準のようなものがある。時代が進むと、全体的な技術も進歩する。特に、この二、三十年は、将棋界は技術革新の渦の中にいる。(p.142-143)
   《参照》   『ウェブ人間論』 梅田望夫・平野啓一郎 (新潮社) 《前編》
             【「高速道路」を抜けた先の構造化 】

 上記リンクにある「構造化」こそが、ぎりぎりの勝負の差を分けるもののはずである。

 

 

【ぎりぎりの勝負のところで力を発揮するもの】
 現在は、将棋に関する情報も分類整理され、既にかなり高度な体系として仕上がりまとめられている。
 確かに、今の人なら、私が学んだ3年分、5年分の知識も一冊の本を読めば一気に詰め込むことが出来る。だが、私自身は、それを理解していく過程で、こうすれば早く習得できる、こうしたほうが理解が深まるという方法論を得ることができた。プロセスのなかでの思考力とか勝負への対処法などは、将棋を戦う戦術としては何に役にも立たないが、決断力や構想力、将棋についての考え方(大局観)を豊かにする糧にはなっているだろう。そういう知恵は、ぎりぎりの勝負のところで力を発揮する支えになってくれるものだ。(p.133)
 設計書を理解して正確に作ることが出来る人でも、設計の段階で試行錯誤ないし取捨選択された内容まではわからないはず。その差だろう。

 

 

【継続が大事】
 ペースを落としてでも続けることだ。無理やり詰め込んだり、「絶対にやらなきゃ」というのではなく、一回、一回の集中力や速度、費やす時間などを落としてでも、毎日、少しずつ続けることが大切だ。無理をして途中で止めてしまうなら、「牛歩の歩み」にギアチェンジしたほうがいいと思っている。(p.172)
 擦り切れて止まってしまうのでは元も子もない。
 ローギアで走っていてもいつまでもそればかりでは案外飽きてしまうもの。そのうちセカンドやサードにシフトしたくなるし、時にはトップギアで風を切って走ってみたくなるものだろう。
 常に一定の調子で継続するなんて、本質的に無理だしアリエナイことである。
   《参照》   『魔法の時間を作る50のヒント』  中谷彰宏  三笠書房
             【完璧主義の弊害】 
             【速くすることも遅くすることもできる人】

 

 

【家元制度の時代があった】
 ヨーロッパなどに行くと、日本に関心を持っている人が多いのに驚かされる。パリでは私以上に日本文化に詳しい人がいて、「臨済宗と真言宗はどう違うのか?」と質問されて返答に困ったものだ。将棋をまったく知らない人からもいつごろから始まったのかと聞かれ、茶道や華道のような家元制度の時代があったと話すと、「ほう」と感心したようなリアクションが返ってきて会話の糸口がほぐれ、話がはずんだこともあった。(p.199)
 将棋に家元制度の時代があったなんて、今、知った。

 

 

 

  羽生善治・著の読書記録

     『自分の頭で考えるということ』

     『決断力』

     『歩を「と金」に変える人材活用術』

     『勉強について、私たちの考え方と方法』

 

  米長邦雄・著の読書記録

     『勝負師』 内藤國雄・米長邦雄

     『米長邦雄 ともに勝つ』 加古明光

     『幸せになる教育』

 
<了>