
序盤は北条時宗について書かれている。中盤以降は、狂言を題材に両者の語りが繰り広げられている。この対談の中には、日本文化に関する記述に 「まとめ」 らしきものがないので、チャンちゃんが勝手に書いてみた。
【観立て(みたて)】
[和泉] 一つの型といっても、同じ型がいろいろな表現の中に出てくるわけで、扇を前へ出すという型でも、目の高さに持って来た時は家から外の様子をうかがっている。下に降ろせば文を見ているという違いがあるわけです。(p.59)
観立てとは、対象を他のものになぞらえて表現する技法のこと。目と扇の位置関係で様々な観立てが可能になる。この場合は、扇であるけれど、小道具本来の機能(個性)を停止させることで汎用性を生んでいる。これが観立てのポイントである。
【簡素化と余白】
[和泉] あえて簡素化した型で表現することで、様々な人の心に接続できるのが狂言の型の特性だからかもしれません。 (p.61)
[高橋] 狂言は余白の文化なんだと思いますね。余白が多いということは、それだけ研ぎ澄まされて取り除くものがないということだから、きっと室町期にはすでに狂言の型は完成していたんでしょう。 (p.90)
両者が同じことを別な表現で言っている。これらは狂言だけの特性でないことは言うまでもない。日本のあらゆる芸事・芸能・文化に共通する特性である。
簡素化や余白は、意味や定義などの一義性(個性)をあえて排することで、見るものに解釈の多様性を与えている。これが、日本の芸事・芸能・文化のポイントである。
【 「型」 の意味 】
[和泉](父は)最初に気分とか、どういう心が備わっていなければいけないということを教えることは絶対にありませんでした。まず型をやって、それを何回も何回も繰り返すうちにひとりでに生まれてくるものを見ている、悪い言葉でいえば曖昧な教え方をしていたと思います。 (p.59-60)
[高橋] 今の若い人達が元彌宗家のしていることに対して、もう一つ十分に理解できないところがあるというのは、型を続けていくことが簡単なことだと思っているからでしょう。結局、お手本の通りにやるだけだとね。オリジナリティーばかりを大事に思う今の日本人には、その辺が一番判りにくいところなのだろうという気がします。
浮世絵にしても師匠を真似て「型」を守ることをしなかったら、その時々の時代の寵児は生まれても、後世には残らなかったのです。呪術のようなことは正にそうですが、型通りにやらないと神は降りてきません。 (p.93)
型はオリジナリティー(独創性)と対立するものであるかのように考えるのは誤りである。誤りが生ずるのは独創性(オリジナリティー)が個性(インディビデュアリティー)から生まれると勝手に考えているからである。独創性は個性によって生まれるのではない。
では、独創性の根源は何か? 個性ではない。息吹、霊、神、などと表現されるものである。これらの根源からインスパイアーされたものが創造性ゆたかな芸術となるのである。あるいは “ひらめき” といわれるアイデアになるのである。つまり、「型」は、いうならば、個性を排した真空地帯(場)を創出するためにこそ絶対に必要なものなのである。
近年流行りのスピリチュアルな表現でいうなら、「型」は「ゼロポイント」の創出に関わっている。「ゼロポイント」は「宇宙図書館」へのポータル(入り口)であり、そこはすべての「創造の源」である。
《参照》 『宇宙の羅針盤(下)』 辻麻里子 (ナチュラルスピリット) 《後編》
【真の創造】
【これが日本文化に通底するもの】
日本文化が育んできた神道とは、「神を行ずる」 生き方を示している。
茶道、柔道、書道、なんであれ、~道と名の付くものは、本来このようなものであるがゆえに、「型」があり、余白を尊び、簡素化される過程で、小道具を様々に観立て、繊細な想像力が存分に発揮しうる神人一体となった領域を生み出す方法=~道、だったのである。
【摩訶止観】
天台止観とも言われるこの瞑想のテクニックにおいても同様であろう。
簡単に説明するならば、「止」 は思念の停止であり、「観」 は思念の広がりである。「止」 が先で「観」 が後に続く。つまり 「止」 で主体(個性)を停止すれば、神(普遍)なるものが 「観」 じられる、と表現することもできるだろう。
中国仏教の大成者といわれる知顗があみ出した瞑想の行法も、日本の文化・芸能・芸事の世界で伝承されてきた学び方も、基本はまったく同じである。
中国仏教が優れていると言っているのではない。日本文化の中には、はるか昔から 「神を行ずる」 生き方があり、それと同じことを、隣国で瞑想の行法として確立した人物がいたと言っているだけである。
仏教が日本に伝来する以前から、日本は 「神の国(神道国家)」 である。
<了>