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 一日ボーとする目的で終日電車に乗り続ける旅に出ながら、この本と『考えない練習』という本をバックパックに入れて行き、やっぱりボーとし続けるのが辛くて両方を読んでしまった。2010年9月初版。

 

【情報vs直感】
羽生  最新情報を知らない人が、それだけで負かされることはありますが、それを全部押さえるだけでもかなりの時間と労力を費やさないといけない。棋士でも半分はやっていないでしょう。
・・・中略・・・。
茂木  そういう情報ネットワークに背を向けて、自分の直観だけで指すなんてスタイルはありえないのかな。
羽生  いや、そういう人もいます。でも狙い撃ちされてしまうので勝ち越せないですね。この作戦で来るとわかっていれば、それに合わせて対策を立てられますから。スペシャリストは、今すごく大変なんです。ある手法について、一人でものすごく広く深く研究するわけですが、相手は浅いとはいえ100人とか150人でしょう。一人のアイデア対100人、150人のアイデアで勝負しなきゃいけないというのは、やはり相当きつい。
茂木  じゃあ上に行くためには、自分のスタイルやアイデアではなく、いろんな人が研究した成果を全部参照して、必要に応じて使うのがもっとも効率的と言うことになりますね。
羽生  そういうタイプの人の方が増えてきていますね。(p.26-27)
 情報化社会になってくると、個性的な手をもつ棋士が生き残れなくなってしまう傾向があると言っている。そういえば、日本人全体の中から個性的な人間が出ていないとかなり以前から言われている。
 情報化社会は、「権力者の牙城を崩し、大衆に力を与える」という良き側面が語られてきたけれど、大局的には平準化という趨勢に晒されることになるから、面白味のない社会になると表現することも可能である。
 結局のところ、コンピュータに介在される分野からは人間が手を引き、人間は人間だけで維持される分野で向上を目指し、人間とコンピュータの棲み分けをすべきなのである。そうしないと人はコンピュータの圧倒的な情報処理能力に席巻されてしまって幸せになれないだろう。

 

 

【力技】
 最近あらわれた、最強の将棋ソフト「Bonanza」(ボナンザ)について。
茂木  その「Bonanza」って、どういうアルゴリズムなんでしょう。
羽生  力技みたいですけどね。計算能力を高めて・・・。
茂木  全検索している?
羽生  そうです。今までやった人はいるけれど上手くいかないと言われていたやり方です。それが最近は市販されているハードでも計算能力が上がっているので、その手法が功を奏するようになってきているんです。
茂木  じゃあ、グーグルと同じことが起こっているんじゃないですか?
羽生  似ていますね。(p.48)
 ハイスピード全検索という力技が使えるようになると、結局のところ人間のアイデアがあまり有効ではなくなってしまう。将棋ソフト以外のプログラミングの分野でも、ハードの性能が上がると、ハイスピード全検索で突っ走る単純回路のほうが、あらゆる面で有効かつ効果的になってしまうのである。
    《参照》   『SEの読書術』 著者10名 (技術評論社)
              【覚えた知識に振り回されない】

 お相撲も、圧倒的にデッカくて重たい力技力士が登場してしまったら、何の面白味もない世界になってしまう。人間対人間の場合なら大差といっても限界があるけれど、人間対機械では差に限度はないのである。
 そうなれば、ゲームや試合を見る楽しみはなくなってゆくのであり、プレーヤー側の美意識も勝負の世界では価値をもたず、一掃されて行くことになる。

 

 

【ミスと美意識と逸脱と・・・】
茂木  美意識の話に戻りますが、現代はどういう対局が「名局」とされるんですか?
羽生  適度にミスがあった方が見ていて面白い勝負になることは多いですね。
茂木  ミスって面白いものですよね。コンピュータは基本的にミスはしませんから。 (p.69)
 コンピュータだったら“ミスの一手”なんてありえないし、“美意識による一手”というのもありえないのだから、名局なんて生まれようがない。
茂木  人間ってどんな時代になっても、逸脱のトータルの量としては変わらない気がするんですよ。人間の社会はどんどん管理されているという思い込みを皆が持っている。昔だったら『1984年』とか『すばらしい新世界』みたいに、すべてが監視された超管理社会が到来するなんて未来予測があったわけです。
 ところが実際にインターネットが普及してくると、むしろインターネットこそが自由の象徴だみたいな雰囲気になってくる。どんなにガチガチに管理しようと思っても、やはり人間はそこから逸脱しようと志向してしまう気がするんです。だから逆に言うと、その逸脱の仕方を見つけていくのが芸というか、工夫のしどころなんです。(p.84)
 逸脱という単語が出てきたから、 『アサッテの人』 諏訪哲史 (講談社) という小説を思い出してしまった。
 人間は誰だってコンピュータに対して、「人間を超えたかったら、ミスしてみろ! 合理を超えた美意識を表現してみろ! この世界から逸脱してみろ!」 と言い放つことができるのである。そう言い放つ気概すらない人間なんて、人間の尊厳を失っている。
茂木  江戸時代の棋士たちには、勝つ/負けるということについて、それが100%ではないという確信があるんですよね。美意識とでもいうような。(p.110)
 明治維新以降、日本は西洋の文物を取り入れるにつれて、次第に優勝劣敗的な考え方に傾斜していったのだろう。現在は、その延長としてのドン詰りに押し込められている感じである。
 そこからの出口は、日本超古代の叡智や、多次元認識に至るアセンション(意識の進化)過程の中にあるはずだけれど、二項対立(二元)思考の限界を自覚できない人々は、なかなかそこから出ることはできないらしい。

 

 

【一手詰めされてしまった羽生さん】
羽生  今まででいちばんひどいポカって、うっかり一手詰めをされたことなんですよ。・・・中略・・・。あと一手で私が勝くらいの局面で、それさえやらなければ何をやっても私の勝ちというところなんですよ。ところがその手を指してしまった。私も動揺しましたけど、相手もかなり動揺されてました。もう、あわわわわ・・・という雰囲気。でも、なぜかそういう時ってあるんですよね。(p.122)
 こういうポカってのも、コンピュータには決してでいない。人間の人間たる証拠。
 双方が動揺する「あわわわ・・・」の情景って、プロ同士の対戦だからこそなんだけど、読んでいてなんかおかしい。チャンちゃんとシケ桃の対戦なら、「あわわわ・・」ではなく「ヤッホー、アッホー、ウッヒャヒャ~~~」である。

 

 

【直感の基準】
羽生  直感は感情と密接に関係しているんですよね。
茂木  関わりますね。感情が関わる領域はもうコンピュータは無理でしょう。これについては大変面倒な話がいっぱいあるんです。
 現代の科学が人間の選択行動をどう理解しているかと言えば、基本的に脳の中で効用関数みたいなものの計算をやっていると考えられているんですよね。コンピュータは律儀に効用関数を計算していちばんいいオプションを選ぶはずなのですが、脳は必ずしもそうはなっていない。直感というのは必ずしも最適化をしない感情のシステムから生まれてくるので、直感はいつも最適な回路を選んでいるとは限らないと言うことなんです。
 だから直感が間違うことがあるのは当たり前の話。「最適性」や「正解」とは異なる基準がそこにはある。では、その基準は何だろうというのが、いまとても関心があるところなんですけど、なかなかわからないんです。(p.78)
 コンピュータに組み込まれている効用関数の前提って、つまり利害損得という二元性の世界なんだろうけど、直感はそのような二元性の世界になど足場を置いていないだろう。
 アセンション系列の著作に馴染んでいる人々なら、直感を左右する感情のターミナルは愛であり光であり、それは即ち一元性の世界へとつながっている、と考えるだろう。人生の学びは感情を通じてそこに収斂するはずのものなのである。効用関数が前提としている世界と、直観の基盤となる世界は、そもそもからしてフィールドが違っているのである。
 コンピュータが出す解を学んで勝負・競争という意識で棋盤の前に座り続けるなら、永遠に二元性の世界を出ることはできない。どの世界で生きていようと、自分の頭で考えて到達すべきことは、畢竟するに、二元性の世界から出ることのはずある。そしてそれは、自分自身の意識の次元を上げることに関連している。

 

 

【コンパクト化した日本の将棋】
茂木  羽生さんから見て将棋文化のいちばんの魅力、これは面白いなというのは何ですか?
羽生  「日本的」ということに尽きちゃいますね。・・・中略・・・。でも日本の将棋は逆のことをやったんです。コマをどんどん弱く、盤を小さくしていった。
茂木  歴史的な経緯はわかっているんですか?
羽生  当初はもっと広い盤で、多数の駒があったのをどんどんコンパクトにして今の姿になっていったようです。そのかわり持ち駒を使うというルールにしたんですが、その発想がすごく日本的だと思いますね。
 俳句や短歌は言いたいことを全部言えません。行間に思いを込め、可能な限り表現をコンパクトにして、その中にすべてを込めるという発想です。たぶん将棋もどこまでコンパクトにしたら面白さが保ち続けられるのかという方向で進化して、今の形に落ち着いたんでしょう。(p.89)
 コンパクトにできたのは、智恵証覚に秀でた日本人の文化の次元がもともと高いからだろう。
    《参照》   『発想職人のポケット』 高橋宣行 (小学館)
              【創造は、「何を残して、何を捨てるかだ」】

 上記で・・・中略・・・にした部分は、下記リンクに書き出している。
    《参照》   『歩を「と金」に変える人材活用術』 羽生善治・二宮清純 (日本経済新聞社)
              【駒の力を極端に弱くしている日本の将棋】

 

 

【革命と「打ち歩詰め」】
羽生  あとは「打ち歩詰め」というルールがあるんですけど・・・。
茂木  それはダメなんですよね。
羽生  そうです。打ち歩詰めがダメということは、要するに革命はするなと(笑)。
茂木  歩が王様の命を狙うなんてとんでもない(笑)。あれはおもしろいルールですよね。何時頃から作られたんですか?
羽生  江戸幕府のころです。だから歴史が思いっきり反映されている。(p.89-90)
 下記リンクでは、美意識という視点でしか語られていなかったけれど、この本では「革命はダメ」という解釈が語られている。
    《参照》   『歩を「と金」に変える人材活用術』 羽生善治・二宮清純 (日本経済新聞社)
              【「打ち歩詰め」という禁じ手】
 徳川幕府は、政権安定の手法として家督争いを生じさせないよう「幼長の序」を遵守する儒学を用いているけれど、「打ち歩詰め」という禁じ手を定めたのも同じ目的だろう。同様に、易性革命を語った孟子の文献は殆ど評価されなかったのだけれど、本質的には徳川幕府というより日本神霊界の意志だったのだろう。
    《参照》   日本文化講座 ① 【 七福神 】
              □□□ 例外 □□□

 

 

【駒のやりとりは交易のメタファ】
茂木  将棋は元々は軍事シミュレーションみたいなものから生まれたと聞いています。最初はインドでしたっけ。
羽生  最初はインドの双六です。駒にも当時の要素みたいなものが残っていますね。「金銀財宝」ですから。
茂木  貿易なんですか? 金将、銀将が?
羽生  そうです。その金銀で、桂、香は香辛料。
茂木  ホントに? (笑) それはすごく興味あるな。要するに駒のやりとりは交易のメタファということなんですね。僕は今日この時まで戦争のメタファだと思っていました。・・・中略・・・。じゃあ「歩が成る」ということにしても、そのままではあまり価値がないものが、よその国に持ち込まれた瞬間、突然価値が上がるみたいなことになるのかな。
羽生  ええ、そうだと思います。(p.93-94)
 戦争じゃなくて交易!
 だったら「取る・取られる」ではなく「ちょうだい・あげる」の世界で、かなり「愛」に近くなる。
 でも、「歩が成る」って、ほとんどあり得ないような価値創出である。これでは「愛」が「欲」になってしまいかねない。実際のところ大航海時代の交易では、売買の過程で360倍ものベラボーな価格差を生んでいたという。
    《参照》   『食がわかれば世界経済がわかる』 榊原英資 (文芸春秋) 《前編》
              【大航海時代を牽引した「食」】

 

 

【それが美意識】
茂木  相手の手と自分の手を同じ土俵の上に載せているというのが、鍵かもしれないですね。相手も自分もないという感じなんでしょうね。
羽生  そうですね。それこそ手順の美しさみたいなものから連鎖して見つかるという感じ。だからバタバタバタバタってドミノが倒れるみたいに最後まで見えるんです。
茂木  ・・・中略・・・。なにしろある一手に対して次に打つ手は駒の数だけあるので、その分岐を三十乗したら天文学的な数字になってしまいます。それを計算することは不可能だから、あとは「これ以外にはない」という拘束条件があるわけですよね。そういう拘束条件を、将棋の棋士は作り上げている。
羽生  それが美意識なんじゃないですか。
茂木  そういうことですよね。それ以外にはない。・・・中略・・・。なんとなくわかりました。わかったというか、何が起こっているのかは見えた。
羽生  それってやはり芸術とか・・・・。

茂木  そうですね、きっと。これしかないという局面になればなるほど、江戸時代の御前対極に似てくるんです。先ほど出た「形作り」というのも同じかもしれません。(p.129)
 自他が一体となった流れの中に美を見いだしてゆく。
 そのような流れの中にある手順の美しさは、やがて「かたち」の美しさとして伝承され美意識として語られるようになったのだろう。将棋の場合はそれが棋譜として残っているけれど、日本文化の中にある「かたち」のいくつかは、このようにして出来たのかもしれない。

 

 

【「純粋に考える時間」は減っている】
羽生  本当の意味での思考は最近短くなっているな、と。データが多いので、その参照にばかり時間がかかっていて、本当に、それこそアマチュアの将棋じゃないですけど、ただ考える、前提を取っ払って考える時間は短くなっていますから。
茂木  それは情報化社会、データベース社会の悪い面ですね。僕も、文章を書いている時、何か気になる単語があったりするとグーグルやWikipedia(ウィキペディア)で調べてしまいます。それを読んでいる時、たしかに思考は広がるけど、広がることと考えることは違いますもんね。考える時間が減ることは、一般的傾向としてあるんですけど、将棋の世界でも同じようなことが起こっているということですね。
羽生  対極の時はそれこそいくらでも考えなければならないわけですが、・・・中略・・・、それ以外の時間帯の時は、全く今の人たちと同じような悪弊に陥っていると思います。(p.149)
 考えないのは悪弊だろうか?
 そもそもこの本を読もうと思ったのは、考えることより感じることの方が大切なのではないだろうかと思っていたからなのだけれど、『考えない練習』 という本を同じ日に読んでいて、そっちが期待したような内容ではなかったから、両方の読書記録を書く気になれないまま、ほぼ48時間が過ぎてしまった。
 考え詰めた上で脳を解放すれば飛躍した次元に出る可能性はあるけれど、最初から何も考えることなく、ただただ考えない日々を過ごしていたら、きっと腑抜けみたいな人間になってしまうだろう。
 チャンちゃんがこの読書記録をダラダラと続けているのも、コメントを書くときに、真面目であれ不真面目であれ考えて書いていることが自分にとって面白いからである。何も読まず、何も考えず、ただネットを見ているだけの日が連続すると、本当に空虚感に囚われる感じである。
 モノを作って残すというのは、この物質次元で生きる人間にとって確かな生きる証になるけれど、考えを書いて残すというのは、それに次いで、生きる証になるような気がする。
 世界各国と比較すると、日本はブログを書いている人が最も多いらしいけれど、ビジネスとは無関係なブログを書いている人々の動機は、たぶんそういうことなのである。

 

 

<了>