
親から子へと劣等感が植え付けられてゆく様子が分かりやすく書かれている。この本に書かれているのは、たったそれだけのことである。しかし、多くの人々が自覚のないままにしていることだから、くどいほど繰り返し繰り返し書かれている。世界中の人々が劣等感を克服できたら、地球は天国になるという意味のタイトル。
【親が子供に劣等感を与えているんだよ】
人生って、少し上を望んで何か挑戦するってすごく楽しいことなの。子どもが自分で自発的に「絵だってもっとうまくなりたい」「ピアノだってうまくなりたい」って言うのなら楽しいの。
子どもの速度を超えて、もっと望むの、もっと。それで行かないとすごいがっかりした顔をするの。
それを、あたかも親は「あんたのことをかわいがっているからだよ」みたいなことを言うの。
それが子どもにすごい劣等感を与えるの。(p.22-23)
親の期待は、子どもへの愛情ではなく、親自身の達成したかったけれどできなかった自己実現を代替投影した自己愛が元となっているケースが多いだろう。子どもにとっては余計なお世話なんだけれど、幼い子どもはそんなこと言うほど自我は確立していない。ましてや成熟していな親が成熟した顔をして子育てをするから、子どもに皺寄せがきて未成熟な歪みが伝播するのである。当の親が子どもだった時、その親も未成熟だった。未成熟ペアとしての親子関係は先祖代々連鎖するのである。子どもの速度を超えて、もっと望むの、もっと。それで行かないとすごいがっかりした顔をするの。
それを、あたかも親は「あんたのことをかわいがっているからだよ」みたいなことを言うの。
それが子どもにすごい劣等感を与えるの。(p.22-23)
【ボランティア志願の動機】
そんな人々は、奉仕だとか福祉だとかボランティアだとかを始める前に、3ヶ月とか6ヶ月とか期間限定で、おもいっきり悪い子とか、おもいっきり我儘な駄々っ子になりきって、自分を解放してからにすべきである。そうしないと、自分自身が楽しくないだけではなく、いずれはボランティア内部の人間関係に疲れてしまうのである。
人が喜ぶことを常にしていないと、自分は無価値だと思ってしまうから(全員とは言わないよ)、意外とそういう元気のない子に「あなた、何をやりたいの?」ってきくと、「自分はボランティアとか福祉をしたい」っていうの。(p.24)
親の期待に添えないことで劣等感を持ってしまった子ほど、本来の自発性を削いで親の期待に添うように行動するようになってしまう。こういった人ほど、ボランティアを志願しながら、実は、普遍的な愛に基づくのではなく、親の期待に添うためという歪んだ心理の延長上でのボランティア志願になってしまっている場合があると言っている。
それで、必ずそういう人の特徴というのは楽しそうにやっていないの、見るからに。(p.24-25)
自分自身がある程度満たされていないと、他者を幸せにすることなんてできない。母親の顔色をうかがいながらの延長としてボランティアを行っていても、自分自身が満たされない空虚を抱えているんだから楽しくなんかなれないはずである。ボランタリー(自発的な)ボランティア志願という形を取ってはいても、ボランタリーの根本には空虚な歪みが内在しているのである。そんな人々は、奉仕だとか福祉だとかボランティアだとかを始める前に、3ヶ月とか6ヶ月とか期間限定で、おもいっきり悪い子とか、おもいっきり我儘な駄々っ子になりきって、自分を解放してからにすべきである。そうしないと、自分自身が楽しくないだけではなく、いずれはボランティア内部の人間関係に疲れてしまうのである。
【劣等感の絶対値】
社内でもやたらと威張りたがる奴とか、やけに卑屈なヤツがいるけれど、彼らこそが劣等感をため込んでいる典型的な例である。
劣等感があっておとなしい子を、劣等感のある攻撃的なやつがいじめるんだよ。(p.27-27)
劣等感の現れ方でサドとマゾの違いが生ずるけれど、その絶対値はほぼ同じはず。社内でもやたらと威張りたがる奴とか、やけに卑屈なヤツがいるけれど、彼らこそが劣等感をため込んでいる典型的な例である。
【神様があなたを授けてくれただけで私は最高】
しかし、親に期待され、それに添おうとしてきたが故に自分自身の内発性が失われてしまった人ほど、大人になってからも、「期待されないと人は成長できないものだろう」と思い込んでいる。自発的内発性から生じた目的意識を持てない人ほど、目標作成を誰かにして欲しいから、いつまでも周りから寄せられる援助込み込みの期待にしがみつきたがる傾向があるのである。言うならば、期待依存症とでも言うべき禁断症状状態と言える。
期待依存症から脱却するためには、他者と自分との間に生じやすい双方向へ向かう期待というエネルギー・ベェクトルを断って、自分自身の中心核からの意志エネルギーを発現させなければならない。当初意志エネルギーを向かわせるべき方向が分からなくても、意志エネルギーを放ち続けていれば、いずれは本当にやりたいことにたどり着く筈である。そうしないことには、永遠に本当の自由には到達できないだろう。
《参照》 『子育てに関して、有意義なテレビ番組』
期待してあげることが愛だと思っている。でも愛とはそういうものじゃない。
「あなたが運動会で一着になろうがペケだろうが、おかあさんはあなたのことが大好きだから、関係ないから。
学校の成績が一番だろうがペケだろうが、私にとっては世界で一番かけがえのない子だから。
私にとってはそんな細かいことは関係ないんだ。神様があなたを授けてくれただけで私は最高だから」 と。(p.35)
こういう親だったら、子どもは自ずからなる成熟へと向かって成長できるだろう。「あなたが運動会で一着になろうがペケだろうが、おかあさんはあなたのことが大好きだから、関係ないから。
学校の成績が一番だろうがペケだろうが、私にとっては世界で一番かけがえのない子だから。
私にとってはそんな細かいことは関係ないんだ。神様があなたを授けてくれただけで私は最高だから」 と。(p.35)
しかし、親に期待され、それに添おうとしてきたが故に自分自身の内発性が失われてしまった人ほど、大人になってからも、「期待されないと人は成長できないものだろう」と思い込んでいる。自発的内発性から生じた目的意識を持てない人ほど、目標作成を誰かにして欲しいから、いつまでも周りから寄せられる援助込み込みの期待にしがみつきたがる傾向があるのである。言うならば、期待依存症とでも言うべき禁断症状状態と言える。
期待依存症から脱却するためには、他者と自分との間に生じやすい双方向へ向かう期待というエネルギー・ベェクトルを断って、自分自身の中心核からの意志エネルギーを発現させなければならない。当初意志エネルギーを向かわせるべき方向が分からなくても、意志エネルギーを放ち続けていれば、いずれは本当にやりたいことにたどり着く筈である。そうしないことには、永遠に本当の自由には到達できないだろう。
《参照》 『子育てに関して、有意義なテレビ番組』
【劣等感や義務感の轍】
子どもを一生懸命育てているのに、子どもに暴力を振るわれたり殴られたりする人っているのね、特徴があるの。
それは、そういう親はすごく劣等感がありながら、自分はお母さんとしていいお母さんになってやらなきゃいけないと思って、義務でやっている。だから顔に楽しさが出てないの。
すると、心とやっていることがちぐはぐなの。それを見ていると周りは絶対イライラする。
子どもやなんかはワーッと暴れ出して、親のことをバカバカっとやっちゃうの。何でだかわからない。
もし一生懸命やってても好かれない人、一生懸命やっててうまくいかない人は、楽しそうにやってるかどうか考えてみて。
劣等感があると楽しそうにできないの。(p.50)
それは、そういう親はすごく劣等感がありながら、自分はお母さんとしていいお母さんになってやらなきゃいけないと思って、義務でやっている。だから顔に楽しさが出てないの。
すると、心とやっていることがちぐはぐなの。それを見ていると周りは絶対イライラする。
子どもやなんかはワーッと暴れ出して、親のことをバカバカっとやっちゃうの。何でだかわからない。
もし一生懸命やってても好かれない人、一生懸命やっててうまくいかない人は、楽しそうにやってるかどうか考えてみて。
劣等感があると楽しそうにできないの。(p.50)
《参照》 『なにも願わない手を合わせる』 藤原新也 東京書籍
【まなざしの聖杯】
【劣等感との決別法】
最初からうまくいかないでしょうって。だんだんうまくなるんでしょうって。それをちょっと失敗するたびに怒った親が未熟なんで、あなたに罪はない。
だから、あなたが劣等感を最初に持ってしまった一つ目は、あなたは無実の罪なんだ。
その無実の罪を与えた親もいけないけど、それを思い出すたびに、私ってこういう人間なの、私って駄目なのと、何度も何度も同じ罪を与える悪徳裁判官からお別れしてください。(p.76-77)
でもって、無実の罪と悪徳裁判官に訣別したら、次は修復。だから、あなたが劣等感を最初に持ってしまった一つ目は、あなたは無実の罪なんだ。
その無実の罪を与えた親もいけないけど、それを思い出すたびに、私ってこういう人間なの、私って駄目なのと、何度も何度も同じ罪を与える悪徳裁判官からお別れしてください。(p.76-77)
【劣等感の修復】
だから、ドーパミンというポジティブ・サイドの物質が脳内に分泌されるように、「天国言葉」を自分に浴びせ続ければいいのである。自分で自分をポジティブ側へと洗脳して行くのである。
脳は現実に反応するのではない。イメージに反応するのである。そのイメージが虚構であるか事実であるかは関係ない。脳は感情を伴うイメージに強く反応するのである。そのような脳の機能を理解して善用すればいいのである。
劣等感からもお別れしました。悪徳裁判官ともお別れしました。
そうしたら、実は心の中に、その分ぽっかり穴が開くんです。開けたままにしておくと、また昔と同じように悪徳裁判官がそこに住み着いちゃうんです。
そこが一番肝心なことなんです、
そのとき自分の心を埋める方法は、一つしかないんです。いろいろな方法を試す人がいるけど、この一つしかないんです。
簡単ですからね。
「天国言葉」言霊の力を利用してください。それでその言霊を、私が今から言いますからね。
「ついてる。うれしい。楽しい。感謝しています。幸せ。ありがとう。許します」
これを呪文のように何回も唱えてください。(p.78-79)
劣等感はノルアドレナリンというネガティブ・サイドの物質が脳内に分泌されている状態で生み出される。そうしたら、実は心の中に、その分ぽっかり穴が開くんです。開けたままにしておくと、また昔と同じように悪徳裁判官がそこに住み着いちゃうんです。
そこが一番肝心なことなんです、
そのとき自分の心を埋める方法は、一つしかないんです。いろいろな方法を試す人がいるけど、この一つしかないんです。
簡単ですからね。
「天国言葉」言霊の力を利用してください。それでその言霊を、私が今から言いますからね。
「ついてる。うれしい。楽しい。感謝しています。幸せ。ありがとう。許します」
これを呪文のように何回も唱えてください。(p.78-79)
だから、ドーパミンというポジティブ・サイドの物質が脳内に分泌されるように、「天国言葉」を自分に浴びせ続ければいいのである。自分で自分をポジティブ側へと洗脳して行くのである。
脳は現実に反応するのではない。イメージに反応するのである。そのイメージが虚構であるか事実であるかは関係ない。脳は感情を伴うイメージに強く反応するのである。そのような脳の機能を理解して善用すればいいのである。
《参照》 『「朝の習慣」を変えると人生はうまくいく!』 佐藤富雄 青春出版社
【大脳の特性】
【劣等感依存症】
劣等感が強すぎると、「天国言葉」を自分の脳に浴びせ続けて、自分で自分をポジティブ側へと洗脳して行こうとしても効果が顕れない場合がある。その場合、心の内部ではその作業を忌避する心理が働いている。
そういう人って、結局のところ、劣等感を与える人(環境)に依存して人生を維持することを選択しているのである。劣等感を与える人(環境)との縁を切るべきなんだけど、そのような環境を選んでいるのは自分自身なのである。自虐のド壺に嵌っていることになる。その場合、
依存するのは「怖れ」があるからであり、「怖れ」は「劣等感」の根源である。
「怖れ」は「愛」の対極にある。
「愛」に包まれていたら、人はみな「自立」している。
「怖れ」があるから、人は「依存」しようとする。
安全保障のために自分の自由を犠牲にして、MがSに(マゾがサドに)依存するのである。数年にも及ぶ監禁犯罪が成立してしまう心理の実態がこれだけれど、親子関係でもこのような心理的監禁関係が成立しているのである。
《参照》 『神との対話 ③』 ニール・ドナルド・ウォルシュ (サンマーク出版) 《中編》
【自由と安全保障】
だからこそ、「怖れ」を解除するために、「愛」の側にある「天国言葉」の言霊を呪文のように自分自身に浴びせ続けるしかない。未熟な親は「怖れ」の側にある「地獄言葉」の言霊を雨あられのごとく長年にわたって降らせ続けてきたのである。そのような環境から自ら決意して率先して出ないのなら、それを上回る「天国言葉」を自分で降らせ続けなければならない。
「怖れ」は「愛」を一瞬のうちにサバ折にしてしまうけれど、「愛」が「怖れ」を溶解するには時間がかかる。
「愛」と「怖れ」は両立しない。二律背反の別世界である。どっちを生きるかは、自己責任である。
自立と自由を放棄して、安全保障のために依存を選択するなら、今世の人生道場における学びと向上を放棄したのと同じようなものだろう。
劣等感が強すぎると、「天国言葉」を自分の脳に浴びせ続けて、自分で自分をポジティブ側へと洗脳して行こうとしても効果が顕れない場合がある。その場合、心の内部ではその作業を忌避する心理が働いている。
そういう人って、結局のところ、劣等感を与える人(環境)に依存して人生を維持することを選択しているのである。劣等感を与える人(環境)との縁を切るべきなんだけど、そのような環境を選んでいるのは自分自身なのである。自虐のド壺に嵌っていることになる。その場合、
だから、そういう人って原因をちゃんと突き詰めればいいんです。(p.85)
つまり、「依存から脱却しようとしない原因は、自分自身なんだよ」と言っている。依存するのは「怖れ」があるからであり、「怖れ」は「劣等感」の根源である。
「怖れ」は「愛」の対極にある。
「愛」に包まれていたら、人はみな「自立」している。
「怖れ」があるから、人は「依存」しようとする。
安全保障のために自分の自由を犠牲にして、MがSに(マゾがサドに)依存するのである。数年にも及ぶ監禁犯罪が成立してしまう心理の実態がこれだけれど、親子関係でもこのような心理的監禁関係が成立しているのである。
《参照》 『神との対話 ③』 ニール・ドナルド・ウォルシュ (サンマーク出版) 《中編》
【自由と安全保障】
だからこそ、「怖れ」を解除するために、「愛」の側にある「天国言葉」の言霊を呪文のように自分自身に浴びせ続けるしかない。未熟な親は「怖れ」の側にある「地獄言葉」の言霊を雨あられのごとく長年にわたって降らせ続けてきたのである。そのような環境から自ら決意して率先して出ないのなら、それを上回る「天国言葉」を自分で降らせ続けなければならない。
「怖れ」は「愛」を一瞬のうちにサバ折にしてしまうけれど、「愛」が「怖れ」を溶解するには時間がかかる。
「愛」と「怖れ」は両立しない。二律背反の別世界である。どっちを生きるかは、自己責任である。
自立と自由を放棄して、安全保障のために依存を選択するなら、今世の人生道場における学びと向上を放棄したのと同じようなものだろう。
<了>
斎藤一人(舛岡はなえ・芦川政夫)著の読書記録