(2010/5/23 内容修正:2008年3月の記事を書き直したものです)
おりょう。本名は楢崎龍(ならさき りょう)。
幕末を生きた個性派女性。
坂本龍馬の嫁はんです。(ちなみに龍馬で「りょうま」と呼ぶらしい。竜馬の竜は龍の古い漢字らしいですが竜馬としたのは司馬遼太郎さん)
どうも坂本龍馬は変わった女性が好きだったみたいですね。
現代ならいざ知らず、幕末でこんな女性は中々いなかったと思います。(いや、ヒョットすると結構いたのかも・・・)
京都三条柳馬場(やなぎのばんば)に町医者をしていた楢崎将作の娘。楢崎が病死して、寺町の知足院に間借りして住んでいた。老母に妹二人弟一人。とうとう高利貸しからお金を借りた。その為に借金の形に妹を取られて大阪の新町(色町)に売られてしまった。
それを後で知ったおりょうは妹を取り返しに行く。
(失礼ながら美人というほどでもない(^^;)。)
坂本龍馬が姉に書いた手紙に書かれていた。
「それをおりょうさとりしより、自分の着物を売り、その銭を持ちて大阪(当時は大坂)にくだり、その悪者二人を相手に、死ぬる覚悟にて刃物をふところにしてけんくわ(喧嘩)を致し、たうたうあちのこちの(とうとう何だかんだ)と言いつのれば、悪者腕に彫り物(刺青)したるを出し、べらばう口にて(べらんめー口調で)おどしかけしに、もとよりおりょうは死の覚悟なれば、飛びかかりてその者の胸ぐらをつかみ顔したたかに殴りつけ、曰く『そのほうがだまし大坂に連れ去りし妹を返さずばこれきりである』と申しつければ、悪者曰く『女のやつ、殺すぞ』と言いければ女曰く『殺せ殺せ、殺されにはるばる大坂に下りておる。それは面白い、殺せ殺せ』と言いけるにさすが殺すと言うわけには参らず、たうたうその妹を受取り京の方へ連れて帰りたり。」
大したものですね、ヤクザ相手に男でも出来そうにありません。
どこを気に入ったか龍馬が借金の肩代わりをして、伏見の寺田屋に仕事を紹介したのは有名な話ですね。
気が強くて、月琴(げっきん)を弾けて、炊事や針仕事が全く出来ない。
この時代としては致命傷に近い女性だったのでしょう。
まだある。
龍馬が「薩長連合」をやってのけた時に、龍馬のいる寺田屋に百人もの幕吏が取り囲んだ。おりょうは風呂に入っていたが外の異変に気付き、すっぱだかで二階に上がり敵の前に裸のまま立ちはだかって龍馬を逃がした。
そんなことがあったのに危険もかえりみず、龍馬とおりょうは町中を手を繋いで歩いていたらしい。
こんな時代に手を繋いで歩いている事自体が異常に見える時代だったはずです。
たまりかねた西郷隆盛が、「おまんはほんに太っとか」とかなんとか言って薩摩に二人を旅行に行かせた。何時斬られるかもわからない二人を心配しての事なのでしょうか。二人は西郷の心配りを知ってか知らずか薩摩に行った。手を繋いで新婚旅行をした初めての日本人だったのかもしれません。
その後長崎にも行って龍馬と暮らしていたが、しごくマイペースな女性みたいで、頑固といえば頑固、無器用といえばそのような女性だったみたいです。
龍馬とお龍は、互いに変わり者だったのかもしれません。そして互いに変わった所に興味があったのでしょうか。
しかし、お龍はもちろん竜馬が好きだったのだろうけれど、炊事が出来ないものはできない。自分が出来そうに無いものは、龍馬のためにやろうとも出来るようになろうともせずに、あくまで自分の感性の世界を崩さずに龍馬を好きになった。炊事はやろうとはしないくせに鉄砲の撃ち方を教えると目を輝かせて聞いたそうです。
龍馬からすれば、あくまで人に寄りかからずに自分の感性を崩さずに付き合うおりょうが気になってしょうがなかったのでしょうか。それとも、ともすれば女性が作り上げて行く家庭の世界に龍馬を引きこまなかったから、息苦しさを感じなかったのかもしれません。
もし、「龍馬さんの為だったら、私はなんでもします」と言いながら家庭の生活に男を引き込む女性だったら、彼は結婚していなかったかもしれません。
家庭的であろうとそうでは無かろうと、どちらも好きの度合いは変わりありません。
もし龍馬暗殺の時に居合わせていたら足がすくんで動けなかったでしょうが、おりょうが居合わせていたら、刃物なんてどうでもよく、竜馬に体ごとかぶさって助けようとしたはずです。
龍馬が暗殺された時は長崎にいました。龍馬が死んで一週間はお龍に面と向かって伝える者はなかったと聞きます。葬儀では突然号泣して「龍馬ぁー」と叫んだとか・・・。その後山口県の海援隊関係者の所で過ごした後、しばらく土佐の龍馬の実家で住みますが、ものの一年で出て行きます。何があったのでしょうか・・・。同じ土佐に嫁いでいた妹の所にしばらく住んでから、京都に戻って東山の龍馬の墓の近くに住みました。しかし、先立つものも無くなってきて、そこに米をもらっていた五条の公卿から同居の誘いがあり「冗談じゃない」と断って東京の西郷隆盛を頼りました。ところが隆盛は東京で政治が合わずに薩摩に帰る所だった。「必ず会って何とかするから」と20円をもらって分かれたが隆盛はその後西南戦争で死んでしまいます。その後は横浜の旅館で働いていたと聞きます。
そして神奈川で商人と再婚しましたが、結構な酒びたりだったらしく66歳で亡くなっています。
この商人は貧乏でしたが、仲がよかったのか悪かったのか……、おりょうは再婚後も酒に浸りながら「りょーまーーー」と竜馬のことを叫んでいたらしい。
商人が見かねなかったのはなぜだろう。
龍馬に対する劣等感だろうか、彼を尊敬しておりょうをなんとかしてやろうと思っていたのか、気の強いおりょうを好きでもどうしようもなかったのか・・・。
私は2番目の理由かなと思っています。
お墓は横須賀市大津の信楽寺という寺にありますが、西村松兵衛という商人とおりょうの墓は同じ墓地なのに離れたところにあるそうです。
おりょうにとって、龍馬と巡り会えたのは幸せだっただろう。まるで現在の女性と変わらない恋愛をしたんだと思います。
自分の無器用さも分かっていたはず。
自分の世界を広げて行こうとせずに、自分の力で確実に考えられる世界の中だけで生きてゆこうとする女性は現在でもいますよね。
おりょうもそんな女性だったんだと思います。
だから、竜馬が死んだこと自体はとてもショック。しかし龍馬が日本にとってどんなに重要な人物だったかについてはどうでも良かった。
龍馬が大政奉還や薩長連合などを成し遂げたことなど知らなかったらしく、彼の政治的活躍の一部始終を知ったのは明治になってからだったそうです。
龍馬はおりょうの無器用さが心配だったんでしょう、こんな手紙もあります
前半略「誠に妙な女にて候らえども、私の言うことをよく聞いてくれますし、敵の白刀を見ても恐れを知らぬ者であります。そのくせ力みは致しませぬ。一向に平生と変わらぬ態度でいる女であります。これはおかしきものに御座候。」
龍馬が一番心配していたのはおりょうと姉との仲だったのでしょうね。
結婚したときに男は姑や子姑とうまくやって欲しいと願いますが、龍馬もそうだったみたいです。これも龍馬の手紙に残っています。
明治39年(1906年)、酒びたりが祟ったのか66歳で亡くなります。墓は神奈川県横須賀市大津町の信楽寺(しんぎょうじ)にあり「坂本龍馬の妻龍子」と刻んであるそうです。
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