香春岳の山並みと水辺の風景

 

【序章】仲哀峠の先にある山

 
景行天皇は、行橋市から京都郡を経て南へ進んでいきました。
しかし仲哀天皇は、それとは異なり、西へ向かっています。
 
なぜ仲哀天皇は西へ向かったのか。
 
「仲哀峠」を越えた先にあるのが香春岳です。
もしかすると、仲哀天皇はこの山を目指していたのではないか。
私はそう考えました。
 
香春岳周辺の地図、採銅所、鏡山
 
香春岳周辺の地図、採銅所・鏡山・宇佐神宮関連地。

【第一章】採銅所という地名

 
八世紀初頭の古文書『豊前国風土記』逸文の鹿春郷条には、
 
昔者、新羅國神、自ら度り到来りて、此の河原に住みき。便即ち、名づけて鹿春の神と曰ふ。又、郷の北に峯有り。頂に沼有り(周り三十六歩ばかりなり)。黄楊樹生ひ、兼ねて龍骨有り。第二の峯には銅、並びに黄楊・龍骨等有り。第三の峯には龍骨有り。
 
とあります。
 
ここには、香春岳の第二峰に銅があることが記されています。
 
また、香春岳の麓には、今も「採銅所」という地名が残っています。
 
現在はJR日田彦山線の駅名として知られていますが、その名前自体が、この地で長く銅が採掘されていたことを伝えています。
 
 

【第二章】宇佐神宮に奉納された銅鏡

 
香春町採銅所にある古宮八幡神社には、次のような由緒が伝えられています。
 
この神社は、もともと豊比咩命神社と呼ばれ、香春三ノ岳の麓・阿曾隈に鎮座していました。
 
養老四年(720)、宇佐八幡宮の託宣によって三ノ岳の銅を掘り、その銅で鋳造した神鏡を宇佐宮放生会に奉納しました。
 
その縁により、貞観元年(859)に応神天皇と神功皇后を勧請し、八幡神社となりました。
 
 
 
三ノ岳には、宇佐宮へ奉納した神鏡を鋳造した場所とされる清祀殿跡も残っています。
建物の背後には祠と三基の石柱があり、完成した神鏡をここに安置していたとも考えられています。
 
 
さらに付近には銅を採掘した坑道跡が残されており、宇佐神宮との関わりから「神間歩(かんまぶ)」と呼ばれています。
 
 
 
奈良の大仏は、聖武天皇の発願によって天平十七年(745)に造立が始まりました。
 
その際、宇佐八幡神から
「われ天神地祇を率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交えて障ることなくなさん」
という託宣があったと伝えられています。
 
宇佐神宮と深い関わりを持っていた香春岳。
そのため、東大寺大仏の鋳造に用いられた「西海の銅」は香春岳産ではないか、という説もあります。
 
確証はありませんが、十分にあり得る話です。
 
 

【終章】神功皇后が鏡を奉納した鏡山

 
香春岳の近くには鏡山があります
『豊前国風土記』によると、神功皇后が天神地祇に祈り、御鏡を安置したのが鏡です。
 
鏡山神社鳥居と緑豊かな風景
 
神功皇后が武具を奉納したという伝承は各地に見られますが、鏡を奉納したという話はそれほど多くありません。
どこか特別な意味を感じさせます。
 
もしかすると、香春岳の銅を用いて鏡を鋳造し、それを奉納したのかもしれません。
 
それを示す史料はありません。
しかし、かつて香春岳には銅が採掘され、その銅で神鏡が作られていたことがあるのは確かです。
 
国家を支える金属資源。
仲哀天皇と神功皇后は、その価値を見据えて香春岳を訪れた可能性があります。
 
 
 
けれど、香春岳に残されていたのは、銅の記憶だけではありませんでした。
 
この山には、他にも鉱物があるのです。
 
次回へ続く。
 
夏羽と田油津姫、神夏磯媛の血を引く者  

第17話|山門の女王、田油津姫

 
【あらすじ】
 
香春岳を後にした一行は、田油津姫の案内で筑紫後・山門へと向かう。
熊鷲たちに熱狂的に慕われる彼女は、まるでこの地の女王そのものであった。
そして田油津姫は、かつて筑紫島を鎮めた女王の伝承を語りながら、自らの存在の重要性を天皇へ静かに示すのだった。
 
――――――
 
【本文】
 
香春岳≪かわらだけ≫を後にした朝、夏羽は峠の麓にて一行を見送りました。
「ここより先は、妹がご案内いたします」
その傍らには、田油津姫《たぶらつひめ》が立っています。
 
風に揺れる長い髪。
柔らかな笑みを浮かべてはおりますが、その眼差しには、ただの姫では終わらぬ強さが宿っていました。
「筑紫後《つくしのみちのしり》まで、お供いたします」
足仲彦天皇《たらしなかつひこ》は頷きます。
 
こうして一行は、さらに西にある筑紫後、山門《やまと》を目指します。
 
「こちらへ」
田油津姫はそう言うと、ためらいなく天皇の腕を取りました。
崖沿いの細道。
けれど彼女の足取りには、一切の迷いがありません。
「落ちられては困りますもの」
そう微笑む横顔は、美しく、それでいてどこか獲物を見る目にも似ていました。
 
後の世には秋月街道とも呼ばれる道でしたが、途中の道は険しい峠越えです。
その途上、幾度となく熊鷲たちの姿を見かけました。
木々の間を駆け、岩場を飛ぶように越えていく者たち。
山に生きる獣のような身軽さです。
 
彼らは田油津姫の姿を見つけるや、次々と膝をつきました。
「田油津姫様!」
「姫様のお通りだ!」
その声には、畏れと熱が混じっております。
 
足仲彦天皇は静かにその様子を見つめました。
熊鷲たちは、ただ従っているのではありません。
まるで、彼女そのものを旗印として仰いでいるようでした。
田油津姫は、その歓声を当然のもののように受け止めています。
馬を進めるその姿は、もはや一地方の姫ではありません。
山々を従える女王そのものでした。
 
夏羽と田油津姫。
兄妹は、周防灘より有明海へ至る道を押さえておりました。
 
夕暮れ頃。
一行は、山門へ向かう高台にて足を止めておりました。
眼下には、葦の広がる低地。
その向こうに、有明の海が霞んで見えています。
 
「この辺り一帯を、かつては葛築目《くずちめ》が治めておりました」
田油津姫が、不意に口を開きました。
 
「葛築目…女か」
足仲彦天皇が応じます。
「はい。強き女王であったと伝わっております」
風が、姫の髪を揺らしました。
「けれど、大足彦天皇《おおたらしひこのおおきみ》がこれを討たれました」
 
その後、大足彦天皇は、自らの御子をこの地へ置いたのだと田油津姫は続けます。
「ですが、うまくは参りませんでした」
「なぜだ」
「この筑紫島《つくしのしま》は古くより、女王を求める土地にございます」
 
武内宿禰が、わずかに目を細めました。
 
「昔、大乱があった折のことです。誰も彼もが争い、収まりがつかなくなりました」
田油津姫の声音は、不思議と静かでした。
「そこで皆で話し合い、一人の女を王に立てました」
足仲彦天皇は黙って聞いています。
「すると乱は収まり、人々はその女王に従ったといいます」
 
田油津姫は、そこで初めて天皇を見ます。
「今は、大王《おおきみ》を中心として皆で一つになろうという時代」
田油津姫は静かに続けます。
「それは良きことにございます。私も、そのために力を尽くしましょう」
 
そこで、わずかに笑みを浮かべました。
「……ですが」
その目が、真っ直ぐ天皇を射抜きます。
「筑紫島を治めるには、女の力が必要であることを、どうかお忘れなきよう」
 
その言葉は穏やかでした。
けれど、その奥には確かな熱があります。
まるで、
――この地を真に従わせられるのは、自分だ。
そう告げているかのようでした。
 
足仲彦天皇は、何も答えませんでした。
 
ただ、今は豊浦宮《とゆらのみや》を守る息長帯姫《おきながたらしひめ》のことを思い浮かべていました。
 
――――――
 
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次回、第18話「大王の勤め」では、
 
山門の女王・田油津姫に心を揺さぶられる中、足仲彦天皇は“大王として子を残す務め”を武内宿禰より突きつけられる。
 
6月2日(火)21時公開予定。
どうぞお楽しみに。

 

 

【序章】もうひとつの九州入り

 

『日本書紀』には、仲哀天皇と神功皇后が、熊鰐に導かれて遠賀郡側から九州へ入ったと記されています。

けれど、北部九州には、もうひとつ気になる道が残されています。

 

行橋市・京都郡方面から内陸へ向かい、山を越えて田川へ至る道。

その途中には、「仲哀峠」「仲哀トンネル」といった名が今も残っているのです。

 

 

今回の旅では、そうした地名と伝承をたどりながら、仲哀天皇の「もうひとつの九州入り」について考えてみたいと思います。

 

仲哀公園千本桜街道まつりの桜並木

【第一章】周防灘から豊前へ

 

九州へ入る道は、ひとつではありません。

 

景行天皇は、周芳の娑麼――

現在の山口県防府市佐波付近とされる場所から海を渡り、今の行橋市・京都郡辺りへ入ったと『日本書紀』に記されています。

 

そしてその行橋市や京都郡には、仲哀天皇が船でやって来たと伝わっています。

 

仲哀公園の鳥居と石垣

 

五社八幡神社

福岡県行橋市入覚1311

 

「昔仲哀帝筑紫の熊襲御征討の時、御舟企救郡曾根沖を御通行、京都郡新津港に御着、御上陸あり」(明治神社誌料 : 府県郷社 下

 

【第二章】長峡行宮推定地 ― 御所ヶ谷神籠石

 

行橋市と京都郡にまたがる山あいに、御所ヶ谷神籠石があります。

この周辺は、景行天皇の長峡行宮推定地とされる場所です。

 

御所ヶ谷神籠石の石積と木々

 

御所ヶ谷(ごしょがたに)神籠石(こうごいし)

福岡県行橋市大字津積・京都郡みやこ町勝山大久保

 

「御所ヶ谷」の「御所」は、景行天皇が御所を置いたことに由来するものです。

 

さらにこの地域の名前である「京都郡」という名前。

これもまた、景行天皇が長狹県に行宮を置き、「京(みやこ)」と呼ばれるようになったと『日本書紀』に記載されています。

 

「みやこ」と「御所」。

そうした名前が重なって残っていることは、やはり無視できないように思えます。

 

御所ヶ谷神籠石と仲哀天皇の伝承地

 

現在、「神籠石」は、白村江の戦い以降に築かれた古代山城とする説が有力です。

 

たしかに、山中に続く列石や土塁を見ると、防御施設としての性格を感じさせます。

その列石そのものが、景行天皇や仲哀天皇の時代にまで遡るかは分かっていません。

 

ただ、少なくとも言えることがあります。

それは、この場所が古代の人々にとって、重要な地点だったということです。

 

だからこそ、景行天皇の行宮伝承が残り、

さらに後の時代には、仲哀天皇の名を持つ地名が周囲に現れるのかもしれません。

 

【第三章】仲哀峠 

 

京都郡から田川方面へ向かう場所に、気になる名前があります。

 

仲哀トンネル入口、立入禁止フェンス

 

仲哀隧道と仲哀峠の歴史

 

「仲哀峠」「仲哀隧道」「仲哀トンネル」。

「仲哀天皇がここを通った」と伝わるため、このような名前となっています。

 

 

仲哀公園の桜と石碑

 

仲哀公園

福岡県京都郡みやこ町勝山松田

 

仲哀峠には「仲哀天皇平」と呼ばれる場所があります。

現在そこは、仲哀公園となっており、木のテーブルと椅子が静かに置かれています。

 

そして看板には、

「仲哀天皇がこの地を一時、都に定められた」と記されています。

 

仲哀天皇平の解説看板、九州入りの伝承

 

ただ、正直に言えば、最初に見た印象は「本当にここなのだろうか」というものでした。

 

広い平地があるわけでもなく、大規模な遺構が残っているわけでもない。

山の中にぽつりと記憶だけが残されているような場所です。

 

けれど、そこで気になったのが位置関係でした。

この仲哀平は、前章で見た御所ヶ谷神籠石――長峡行宮推定地から、それほど離れていないのです。

 

京都郡のいわれ、景行天皇の行宮伝承

 

もし、後世の伝承の中で場所の認識が少しずつ移り変わっていったのだとしたら。

 

本来は同じ地域を指していた記憶が、

「長峡行宮」と「仲哀平」という別々の形で残った可能性もあるのではないでしょうか。

 

古代の伝承地では、こうしたズレは珍しくありません。

 

宮そのものが残るのではなく、「この辺りだった」という土地の記憶だけが残る。

その結果、同じエピソードを持つ複数の伝承地が生まれることもあります。

 

そう考えると、仲哀平に残る「都」の記憶も、単なる後世の創作として片付けられない気がしてきます。

 

 

【終章】香春岳へ続く道

 

こうして地名と伝承をたどっていくと、ひとつの道が浮かび上がってきます。

 

周防灘から豊前へ入り、

長峡の地に宮を置き、

山を越えて田川へ向かう道。

 

仲哀天皇の九州入りルート地図

 

そして、その道の先には、さらに特別な山がそびえていました。

 

香春岳。

 

 次回は、その山について歩いてみたいと思います。

 

京都郡みやこ町と田川市の地図

夏羽と田油津姫、神夏磯媛の血を引く者  

第16話|香春岳の火

 
【あらすじ】

天皇は夏羽と田油津姫に導かれ、香春岳へと至り、山に満ちる人の営みと火の気配に触れる。
熊鷲たちが働く現場と、鉄や銅を生み出す炉の火を前に、この地が国を支える要となる可能性を理解する。
その力を取り込む決断を下す一方で、山に宿る火は、やがて人の欲と争いをも呼び起こす兆しを秘めていた。

――――――

【本文】

長峡《ながお》から峠を越えます。
道は険しく、馬の足取りも重くなっていきました。
しかし夏羽は慣れた様子で先を行き、振り返ることもなく進みます。

やがて――

「あれにございます」
その声に、足仲彦天皇《たらしなかつひこのすめらみこと》は顔を上げました。

視界の先に、山が現れます。
連なるように、三つ。
どこか異様な気配を放つ山々。

香春岳《かわらだけ》。

麓に近づくにつれ、空気が変わっていきました。
土の匂いに混じって、かすかに焦げた気配。

そして、音。

カン、カン、と硬いものを打つ響き。
低く唸るような風の音。
人の声。

「これは……」
天皇は、思わず呟きます。

山のあちこちで、煙が上がっていました。
黒く、重い煙。

その下では、人々が絶え間なく動いています。

岩を砕く者。
土を運ぶ者。
火を守る者。

その動きは粗野でありながら、どこか統率されていました。

「熊鷲《くまわし》にございます」

夏羽が、山の斜面へ視線を向けながら言いました。
その先では、男たちが大声で笑い合いながら、岩や木材を運んでおります。

肌は日に焼け、身体は岩のように太い。
山に生きる獣のような力強さがありました。

「南の熊襲《くまそ》が討たれた折、その一部がこの地へ流れて参りました」

夏羽は静かに続けます。

「現地の者と交わり、生き延びた者たちにございます」

天皇は黙って男達を見ます。
吉備の浦で皇軍の船を襲って来た者たちと、どこか似た空気がありました。

ひとりの男が大岩を抱え上げ、周囲から歓声が上がりました。
並の兵では、あの力には敵うまい。

「今は我らと共に、この地を支えております」

討たれ、生き延び、形を変えながらもなお残った者たち。
山と火の匂いを纏うその姿には、しぶとい生命力がありました。

「よく従うものだな」
天皇がそう言うと、夏羽はわずかに笑みを浮かべます。
「力で押さえつけるだけでは、山の民は動きませぬ」

そう言って、前を歩く田油津姫《たぶらつひめ》へ目を向けました。
「……妹がおるからこそにございます」

田油津姫が振り返りました。
「火を、お見せいたしましょう」
その声はやわらかく、どこか誘うようでもあります。

案内された先には、ひときわ大きな炉がありました。
その中で、火が燃えていました。
赤く、深く、絶え間なく。

炎は揺らぎながらも消えることなく、
まるで生き物のように息づいています。

その熱が、肌に触れました。

「この山では、銅や鉄となる石が採れます」

田油津姫が、静かに言います。
彼女の瞳に、炎が映り込みました。

「銅も、鉄も、国の発展には欠かせぬものにございます」

火が、ぱちりと音を立てました。
その瞬間、火の粉がふわりと舞い上がります。

天皇は、一歩近づきました。
熱が強まります。

この火があれば、剣が生まれる。
この火があれば、国が強くなる。

そして――
この火を握る者が、力を握る。

「見事だ」
天皇は、静かに言いました。
その声には、確かな評価が込められていました。

田油津姫は、わずかに微笑みます。
「恐れ入ります」
その仕草は従順に見えました。
しかし、その奥で何かが揺れていました。

炎と同じように。

「この山があれば、我らは、さらに大きくなれましょう」
夏羽が、言葉を継ぎます。
その声には、抑えきれぬ確信がありました。

足仲彦天皇は、しばしの沈黙の後、
やがて、静かに口を開きました。

「この火は、豊前《とよくにのみちのくち》だけのものでは済むまい。これより先の国を支えることになろう」

火は、絶えることなく燃え続けていました。

人の手によって。
そして、人の欲とともに。

――――――
 
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次回、第17話「山門の女王、田油津姫」では、

熊鷲を従える田油津姫は、筑紫島を治めるには“女王の力”が必要だと足仲彦天皇へ語ります。

5月26日(火)21時公開予定。
どうぞお楽しみに。




【序章】記されなかった血筋


歴史には、はっきり書かれていることがあります。

そしてそれ以上に、「書かれていないこと」もあります。


今回気になったのは、神夏磯媛、夏羽、そして田油津媛をつなぐ系譜でした。


日本書紀には書かれていない。

けれど、地方には確かに残されている事柄があります。


今回は、神夏磯媛から田油津媛へ続く伝承を追いながら、

「記されなかった系譜」について考えてみたいと思います。


【第一章】景行天皇と神夏磯媛


日本書紀に記される神夏磯媛は、非常に印象的な人物です。


九州へ赴いた景行天皇が、最初に出会います。

彼女は景行天皇に、自身に背く気持ちはないが、鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折に反抗心があるので討伐して欲しいと言います。

景行天皇は彼女の言葉に従って兵を動かし、土蜘蛛の鼻垂鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折を討伐します。


九州へ赴いた景行天皇に対し、彼女は土蜘蛛・鼻垂について語り、その討伐を勧めます。

景行天皇はその言葉に従って軍を動かし、鼻垂を討ちました。


そのおかげで神夏磯媛は、安心してその地を治めることが出来る状況になりました。




ここで気になるのは、景行天皇の態度です。


地方豪族に命じて賊を討伐させるのではなく、地方豪族の進言に従って天皇軍が賊を討伐しています。

神夏磯媛が、討伐する為の知恵を貸したとか、討伐の手助けをしたという様子もありません。

ただ、「急いでこれを撃つことを願います」と言っただけです。

ただ、景行天皇が神夏磯媛の願いをきいてやっただけです。


もちろん、神夏磯媛が有力な在地勢力であり、その協力を得る為に景行天皇が力を尽くしたという、ただそれだけの可能性はあります。


しかし、神夏磯媛は女性です。

景行天皇がそれだけのことをした女性相手に、子作りを求めないことがあるでしょうか。




というのも、日本書紀には、景行天皇が九州各地で多くの女性との間に子をもうけたことが記されているからです。


その数は、名の記されていない者まで含めれば八十人。


景行天皇は、一部の子供を除いた七十数名の子供達を各地の重役に任じたと記されています。


そうであるなら――


神夏磯媛との間に子をもうけ、その子にその地を治めさせていたとしても、不思議ではありません。


【第二章】田川に残る系譜


福岡県田川市夏吉。

そこにある若八幡神社には、夏羽と田油津媛は、神夏磯媛の子孫であると伝えられています。



しかし、この系譜は日本書紀には見えません。



若八幡神社

福岡県田川市夏吉1636



日本書紀に登場する田油津媛は、山門の豪族として描かれています。

現在の地理で見ると、山門は筑後地方であり、田川とは距離があります。


けれど、地方伝承の中では、神夏磯媛と夏羽は豊前の地に結びつけられているのです。




ここで気になるのが、景行天皇の地方支配のあり方です。


前章でも述べたように、景行天皇は各地の女性との間に多くの子をもうけ、その血族を地方に配置したとされています。


そして、山門の地に残る伝承では、景行天皇の時代に葛築目という人物がおり、討伐されたという話があります。


つまりこの地域は、景行天皇の勢力が平定した土地だったことが考えられます。


景行天皇が平定した土地だとすると、当然、景行天皇は自分の子供にその地を治めさせようとしたでしょう。


もし、神夏磯媛と景行天皇の間に血縁が存在したとすれば、

その子孫がこの地を治めていたとしても、不思議ではありません。


【第三章】皇后に仕えた田油津媛


また、夏吉の若八幡神社には、夏羽と田油津媛に関する、気になる記述があります。


それは、夏羽が妹の田油津媛を、神功皇后の侍従として仕えさせたという話です。

そして、その隙を見て皇后を弑そうとした――とも伝えられています。


この話でまず気になるのは、「暗殺計画」そのものではありません。

むしろ重要なのは、田油津媛が皇后の近くに仕えることのできる立場にいた、という点です。




古代において、有力な地方豪族の娘が朝廷に仕えること自体は、不自然なことではありません。

しかし、田油津媛は、日本書紀の中では「土蜘蛛」とされる側の人物です。


土蜘蛛とは、単なる部族名ではなく、朝廷に従わない地方勢力に対して用いられた蔑称でした。

時に「討つべき存在」として描かれる者たちです。


そのように記された人物が、皇后の侍従として仕えていた。

これは少し奇妙にも見えます。


少なくとも当初は、朝廷側から危険視されていなかった。

そして、一定の地位や格式を認められていたからこそ、皇后の近くに仕えることができたのではないでしょうか。


【終章】なぜ書かれなかったのか


田油津媛は、単なる反逆者だったのでしょうか。


もし彼女が景行天皇の血を引く存在であったなら。

それは、神功皇后よりも王統につながる可能性を意味します。




ここに書いたことが真実とは限りません。


ただ、仮にそう考えると、日本書紀に残されたものと、消された理由が見えてくる気がして、私はそれを小説にしました。


▶ 夏羽と田油津媛の登場

小説「神功皇后 ― 海を越える巫女王 ―」はこちら