第17話|山門の女王、田油津姫
【序章】もうひとつの九州入り
『日本書紀』には、仲哀天皇と神功皇后が、熊鰐に導かれて遠賀郡側から九州へ入ったと記されています。
けれど、北部九州には、もうひとつ気になる道が残されています。
行橋市・京都郡方面から内陸へ向かい、山を越えて田川へ至る道。
その途中には、「仲哀峠」「仲哀トンネル」といった名が今も残っているのです。
今回の旅では、そうした地名と伝承をたどりながら、仲哀天皇の「もうひとつの九州入り」について考えてみたいと思います。
【第一章】周防灘から豊前へ
九州へ入る道は、ひとつではありません。
景行天皇は、周芳の娑麼――
現在の山口県防府市佐波付近とされる場所から海を渡り、今の行橋市・京都郡辺りへ入ったと『日本書紀』に記されています。
そしてその行橋市や京都郡には、仲哀天皇が船でやって来たと伝わっています。
五社八幡神社
福岡県行橋市入覚1311
「昔仲哀帝筑紫の熊襲御征討の時、御舟企救郡曾根沖を御通行、京都郡新津港に御着、御上陸あり」(明治神社誌料 : 府県郷社 下)
【第二章】長峡行宮推定地 ― 御所ヶ谷神籠石
行橋市と京都郡にまたがる山あいに、御所ヶ谷神籠石があります。
この周辺は、景行天皇の長峡行宮推定地とされる場所です。
御所ヶ谷(ごしょがたに)神籠石(こうごいし)
福岡県行橋市大字津積・京都郡みやこ町勝山大久保
「御所ヶ谷」の「御所」は、景行天皇が御所を置いたことに由来するものです。
さらにこの地域の名前である「京都郡」という名前。
これもまた、景行天皇が長狹県に行宮を置き、「京(みやこ)」と呼ばれるようになったと『日本書紀』に記載されています。
「みやこ」と「御所」。
そうした名前が重なって残っていることは、やはり無視できないように思えます。
現在、「神籠石」は、白村江の戦い以降に築かれた古代山城とする説が有力です。
たしかに、山中に続く列石や土塁を見ると、防御施設としての性格を感じさせます。
その列石そのものが、景行天皇や仲哀天皇の時代にまで遡るかは分かっていません。
ただ、少なくとも言えることがあります。
それは、この場所が古代の人々にとって、重要な地点だったということです。
だからこそ、景行天皇の行宮伝承が残り、
さらに後の時代には、仲哀天皇の名を持つ地名が周囲に現れるのかもしれません。
【第三章】仲哀峠
京都郡から田川方面へ向かう場所に、気になる名前があります。
「仲哀峠」「仲哀隧道」「仲哀トンネル」。
「仲哀天皇がここを通った」と伝わるため、このような名前となっています。
仲哀公園
福岡県京都郡みやこ町勝山松田
仲哀峠には「仲哀天皇平」と呼ばれる場所があります。
現在そこは、仲哀公園となっており、木のテーブルと椅子が静かに置かれています。
そして看板には、
「仲哀天皇がこの地を一時、都に定められた」と記されています。
ただ、正直に言えば、最初に見た印象は「本当にここなのだろうか」というものでした。
広い平地があるわけでもなく、大規模な遺構が残っているわけでもない。
山の中にぽつりと記憶だけが残されているような場所です。
けれど、そこで気になったのが位置関係でした。
この仲哀平は、前章で見た御所ヶ谷神籠石――長峡行宮推定地から、それほど離れていないのです。
もし、後世の伝承の中で場所の認識が少しずつ移り変わっていったのだとしたら。
本来は同じ地域を指していた記憶が、
「長峡行宮」と「仲哀平」という別々の形で残った可能性もあるのではないでしょうか。
古代の伝承地では、こうしたズレは珍しくありません。
宮そのものが残るのではなく、「この辺りだった」という土地の記憶だけが残る。
その結果、同じエピソードを持つ複数の伝承地が生まれることもあります。
そう考えると、仲哀平に残る「都」の記憶も、単なる後世の創作として片付けられない気がしてきます。
【終章】香春岳へ続く道
こうして地名と伝承をたどっていくと、ひとつの道が浮かび上がってきます。
周防灘から豊前へ入り、
長峡の地に宮を置き、
山を越えて田川へ向かう道。
そして、その道の先には、さらに特別な山がそびえていました。
香春岳。
次回は、その山について歩いてみたいと思います。
第16話|香春岳の火
【序章】記されなかった血筋
歴史には、はっきり書かれていることがあります。
そしてそれ以上に、「書かれていないこと」もあります。
今回気になったのは、神夏磯媛、夏羽、そして田油津媛をつなぐ系譜でした。
日本書紀には書かれていない。
けれど、地方には確かに残されている事柄があります。
今回は、神夏磯媛から田油津媛へ続く伝承を追いながら、
「記されなかった系譜」について考えてみたいと思います。
【第一章】景行天皇と神夏磯媛
日本書紀に記される神夏磯媛は、非常に印象的な人物です。
九州へ赴いた景行天皇が、最初に出会います。
彼女は景行天皇に、自身に背く気持ちはないが、鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折に反抗心があるので討伐して欲しいと言います。
景行天皇は彼女の言葉に従って兵を動かし、土蜘蛛の鼻垂鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折を討伐します。
九州へ赴いた景行天皇に対し、彼女は土蜘蛛・鼻垂について語り、その討伐を勧めます。
景行天皇はその言葉に従って軍を動かし、鼻垂を討ちました。
そのおかげで神夏磯媛は、安心してその地を治めることが出来る状況になりました。
ここで気になるのは、景行天皇の態度です。
地方豪族に命じて賊を討伐させるのではなく、地方豪族の進言に従って天皇軍が賊を討伐しています。
神夏磯媛が、討伐する為の知恵を貸したとか、討伐の手助けをしたという様子もありません。
ただ、「急いでこれを撃つことを願います」と言っただけです。
ただ、景行天皇が神夏磯媛の願いをきいてやっただけです。
もちろん、神夏磯媛が有力な在地勢力であり、その協力を得る為に景行天皇が力を尽くしたという、ただそれだけの可能性はあります。
しかし、神夏磯媛は女性です。
景行天皇がそれだけのことをした女性相手に、子作りを求めないことがあるでしょうか。
というのも、日本書紀には、景行天皇が九州各地で多くの女性との間に子をもうけたことが記されているからです。
その数は、名の記されていない者まで含めれば八十人。
景行天皇は、一部の子供を除いた七十数名の子供達を各地の重役に任じたと記されています。
そうであるなら――
神夏磯媛との間に子をもうけ、その子にその地を治めさせていたとしても、不思議ではありません。
【第二章】田川に残る系譜
福岡県田川市夏吉。
そこにある若八幡神社には、夏羽と田油津媛は、神夏磯媛の子孫であると伝えられています。
しかし、この系譜は日本書紀には見えません。
若八幡神社
福岡県田川市夏吉1636
日本書紀に登場する田油津媛は、山門の豪族として描かれています。
現在の地理で見ると、山門は筑後地方であり、田川とは距離があります。
けれど、地方伝承の中では、神夏磯媛と夏羽は豊前の地に結びつけられているのです。
ここで気になるのが、景行天皇の地方支配のあり方です。
前章でも述べたように、景行天皇は各地の女性との間に多くの子をもうけ、その血族を地方に配置したとされています。
そして、山門の地に残る伝承では、景行天皇の時代に葛築目という人物がおり、討伐されたという話があります。
つまりこの地域は、景行天皇の勢力が平定した土地だったことが考えられます。
景行天皇が平定した土地だとすると、当然、景行天皇は自分の子供にその地を治めさせようとしたでしょう。
もし、神夏磯媛と景行天皇の間に血縁が存在したとすれば、
その子孫がこの地を治めていたとしても、不思議ではありません。
【第三章】皇后に仕えた田油津媛
また、夏吉の若八幡神社には、夏羽と田油津媛に関する、気になる記述があります。
それは、夏羽が妹の田油津媛を、神功皇后の侍従として仕えさせたという話です。
そして、その隙を見て皇后を弑そうとした――とも伝えられています。
この話でまず気になるのは、「暗殺計画」そのものではありません。
むしろ重要なのは、田油津媛が皇后の近くに仕えることのできる立場にいた、という点です。
古代において、有力な地方豪族の娘が朝廷に仕えること自体は、不自然なことではありません。
しかし、田油津媛は、日本書紀の中では「土蜘蛛」とされる側の人物です。
土蜘蛛とは、単なる部族名ではなく、朝廷に従わない地方勢力に対して用いられた蔑称でした。
時に「討つべき存在」として描かれる者たちです。
そのように記された人物が、皇后の侍従として仕えていた。
これは少し奇妙にも見えます。
少なくとも当初は、朝廷側から危険視されていなかった。
そして、一定の地位や格式を認められていたからこそ、皇后の近くに仕えることができたのではないでしょうか。
【終章】なぜ書かれなかったのか
田油津媛は、単なる反逆者だったのでしょうか。
もし彼女が景行天皇の血を引く存在であったなら。
それは、神功皇后よりも王統につながる可能性を意味します。
ここに書いたことが真実とは限りません。
ただ、仮にそう考えると、日本書紀に残されたものと、消された理由が見えてくる気がして、私はそれを小説にしました。
▶ 夏羽と田油津媛の登場
小説「神功皇后 ― 海を越える巫女王 ―」はこちら

















