【序章】もうひとつの九州入り
『日本書紀』には、仲哀天皇と神功皇后が、熊鰐に導かれて遠賀郡側から九州へ入ったと記されています。
けれど、北部九州には、もうひとつ気になる道が残されています。
行橋市・京都郡方面から内陸へ向かい、山を越えて田川へ至る道。
その途中には、「仲哀峠」「仲哀トンネル」といった名が今も残っているのです。
今回の旅では、そうした地名と伝承をたどりながら、仲哀天皇の「もうひとつの九州入り」について考えてみたいと思います。
【第一章】周防灘から豊前へ
九州へ入る道は、ひとつではありません。
景行天皇は、周芳の娑麼――
現在の山口県防府市佐波付近とされる場所から海を渡り、今の行橋市・京都郡辺りへ入ったと『日本書紀』に記されています。
そしてその行橋市や京都郡には、仲哀天皇が船でやって来たと伝わっています。
五社八幡神社
福岡県行橋市入覚1311
「昔仲哀帝筑紫の熊襲御征討の時、御舟企救郡曾根沖を御通行、京都郡新津港に御着、御上陸あり」(明治神社誌料 : 府県郷社 下)
【第二章】長峡行宮推定地 ― 御所ヶ谷神籠石
行橋市と京都郡にまたがる山あいに、御所ヶ谷神籠石があります。
この周辺は、景行天皇の長峡行宮推定地とされる場所です。
御所ヶ谷(ごしょがたに)神籠石(こうごいし)
福岡県行橋市大字津積・京都郡みやこ町勝山大久保
「御所ヶ谷」の「御所」は、景行天皇が御所を置いたことに由来するものです。
さらにこの地域の名前である「京都郡」という名前。
これもまた、景行天皇が長狹県に行宮を置き、「京(みやこ)」と呼ばれるようになったと『日本書紀』に記載されています。
「みやこ」と「御所」。
そうした名前が重なって残っていることは、やはり無視できないように思えます。
現在、「神籠石」は、白村江の戦い以降に築かれた古代山城とする説が有力です。
たしかに、山中に続く列石や土塁を見ると、防御施設としての性格を感じさせます。
その列石そのものが、景行天皇や仲哀天皇の時代にまで遡るかは分かっていません。
ただ、少なくとも言えることがあります。
それは、この場所が古代の人々にとって、重要な地点だったということです。
だからこそ、景行天皇の行宮伝承が残り、
さらに後の時代には、仲哀天皇の名を持つ地名が周囲に現れるのかもしれません。
【第三章】仲哀峠
京都郡から田川方面へ向かう場所に、気になる名前があります。
「仲哀峠」「仲哀隧道」「仲哀トンネル」。
「仲哀天皇がここを通った」と伝わるため、このような名前となっています。
仲哀公園
福岡県京都郡みやこ町勝山松田
仲哀峠には「仲哀天皇平」と呼ばれる場所があります。
現在そこは、仲哀公園となっており、木のテーブルと椅子が静かに置かれています。
そして看板には、
「仲哀天皇がこの地を一時、都に定められた」と記されています。
ただ、正直に言えば、最初に見た印象は「本当にここなのだろうか」というものでした。
広い平地があるわけでもなく、大規模な遺構が残っているわけでもない。
山の中にぽつりと記憶だけが残されているような場所です。
けれど、そこで気になったのが位置関係でした。
この仲哀平は、前章で見た御所ヶ谷神籠石――長峡行宮推定地から、それほど離れていないのです。
もし、後世の伝承の中で場所の認識が少しずつ移り変わっていったのだとしたら。
本来は同じ地域を指していた記憶が、
「長峡行宮」と「仲哀平」という別々の形で残った可能性もあるのではないでしょうか。
古代の伝承地では、こうしたズレは珍しくありません。
宮そのものが残るのではなく、「この辺りだった」という土地の記憶だけが残る。
その結果、同じエピソードを持つ複数の伝承地が生まれることもあります。
そう考えると、仲哀平に残る「都」の記憶も、単なる後世の創作として片付けられない気がしてきます。
【終章】香春岳へ続く道
こうして地名と伝承をたどっていくと、ひとつの道が浮かび上がってきます。
周防灘から豊前へ入り、
長峡の地に宮を置き、
山を越えて田川へ向かう道。
そして、その道の先には、さらに特別な山がそびえていました。
香春岳。
次回は、その山について歩いてみたいと思います。










