
著者は、金子みすずの作品を発掘して、再び世に出した方。
【「節木増」と「モナ・リザ」の不思議】 とした段落を書き残すためにこの記録を書いたようなもの。
【「節木増」と「モナ・リザ」の不思議】 とした段落を書き残すためにこの記録を書いたようなもの。
【西条八十のエッセイに書かれていたこと】
「作品に於いては英のクリスティナ・ローゼッティ女子に遜(おと)らぬ華やかな幻想を示していたこの若い女詩人は、初印象に於いては、そこらの裏町の小さな商店の内儀のようであった。しかし、彼女の容貌は端麗で、その眼は黒曜石のように深く輝いていた。(p.20)
黒曜石のような瞳。それは現在残されている写真でも分かる。
【教員に成らなかったみすず】
1920年(大正9年)3月に大津高等女学校を卒業したみすずは、4年間常に学年で3番か2番だった。数学や理科の成績も常に秀でていた。
《参照》 『継続は力なり』 草柳大蔵 大和書房
1920年(大正9年)3月に大津高等女学校を卒業したみすずは、4年間常に学年で3番か2番だった。数学や理科の成績も常に秀でていた。
みすずは教員室に呼ばれて、「奈良女子高等師範に進んで、教員になりなさい」 と、先生に勧められました。しかし、みすずは 「教員室の雰囲気が自分の性格には合わない」 と、それを断ったといいます。 (p.112)
そのころの学校の雰囲気なるものは、この本には書かれていないけれど、当時は教員どうし教養を試されるような苛烈な雰囲気だったらしいことが、下記の書籍に書かれている。《参照》 『継続は力なり』 草柳大蔵 大和書房
【戦前の教員の知性】
まったく、そのような雰囲気の職場にいたら、みすず独特の秀でた感性はすっかりダイナシになってしまっていたことだろうと思う。先生になんかならなくってよかったよかった。
まったく、そのような雰囲気の職場にいたら、みすず独特の秀でた感性はすっかりダイナシになってしまっていたことだろうと思う。先生になんかならなくってよかったよかった。
【「節木増」と「モナ・リザ」の不思議】
「みすずさんは科学者ですね」 と語っていたお医者さん・古川正重先生が著者に話してくれたと言う興味深い内容が書かれている。みすずには直接関係ないけれど、私にはこの部分の記述が最も興味深い。
「みすずさんは科学者ですね」 と語っていたお医者さん・古川正重先生が著者に話してくれたと言う興味深い内容が書かれている。みすずには直接関係ないけれど、私にはこの部分の記述が最も興味深い。
「 『節木増(ふしきぞう)』 というのは宝生流の本面とされているもので、作者は室町時代の六作の一人で、増阿弥といわれています。増阿弥という人は、金閣寺を建てた三代将軍足利義光の同朋衆で、猿楽の名人として舞台で活躍した人ですが、51歳で義満が亡くなったのち、面打師になったのです。
・・・中略・・・、なかでも最高傑作といわれているのが、この 『節木増』 と呼ばれている女面なのです。
なぜ 『節木増』 といわれたかというと、面が出来上がった時に、いつのまにか、左目のまぶたの内側と鼻の間に、ホクロが出来ていたのです。調べてみると、この面の裏の部分に小さな節があって、そこからヤニがしみでて、ホクロになっていたのです。ところが、そのホクロのおかげで、この面はなんともいえないあでやかで、美しい表情に見えるのです。そこで 『節木増』 と名づけられたのです」
「しかし、もっと不思議なことがあるのです。 『節木増』 とまったく同じところに、やっぱりホクロがある、美しい女性の絵があるのです、それも西洋に。それに気づいた時、わたしはびっくりしました。それも、『節木増』 ができたのが1423年、この約80年後にその絵も完成しているのです。その絵はなんだと思われますか。
永遠のほほえみといわれている、レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた 『モナ・リザ』 です。
・・・中略・・・。
それに、能の女面には眉が描かれていませんが、 『モナ・リザ』 も眉が描かれていないのです。眉は顔の中で、怒った時や悲しい時に一番目立つものなのです。ダ・ヴィンチは、この不快感をしめす眉を描かないことで、謎の微笑みを手に入れたのです。 (p.126-127)
宝生流の能面である 「節木増」 と 「モナ・リザ」 がリンクする。
・・・中略・・・、なかでも最高傑作といわれているのが、この 『節木増』 と呼ばれている女面なのです。
なぜ 『節木増』 といわれたかというと、面が出来上がった時に、いつのまにか、左目のまぶたの内側と鼻の間に、ホクロが出来ていたのです。調べてみると、この面の裏の部分に小さな節があって、そこからヤニがしみでて、ホクロになっていたのです。ところが、そのホクロのおかげで、この面はなんともいえないあでやかで、美しい表情に見えるのです。そこで 『節木増』 と名づけられたのです」
「しかし、もっと不思議なことがあるのです。 『節木増』 とまったく同じところに、やっぱりホクロがある、美しい女性の絵があるのです、それも西洋に。それに気づいた時、わたしはびっくりしました。それも、『節木増』 ができたのが1423年、この約80年後にその絵も完成しているのです。その絵はなんだと思われますか。
永遠のほほえみといわれている、レオナルド・ダ・ヴィンチの描いた 『モナ・リザ』 です。
・・・中略・・・。
それに、能の女面には眉が描かれていませんが、 『モナ・リザ』 も眉が描かれていないのです。眉は顔の中で、怒った時や悲しい時に一番目立つものなのです。ダ・ヴィンチは、この不快感をしめす眉を描かないことで、謎の微笑みを手に入れたのです。 (p.126-127)
「なるほど・・・」 と、妙にシックリと納得できてしまう日本人は少なからずいるはず。
《関連:参照》 『隠れたる日本霊性史』 菅田正昭 たちばな出版
【下関は東京に次ぐ一大経済都市だった】
それほど大きな経済都市・文化都市だったからこそ、下関には国内外の書物・文献が豊富に揃っていたのだろう。みすずの詩には、仙崎という田舎の女性の感性だけでは、とうてい作りえないはずのモノがいくつもみられるのだから。
みすずは翌年の1923年4月、ふるさと仙崎を後にして、下関の上山文英堂に生活の場を移しました。・・・中略・・・。当時の下関は大陸に向かって開かれた国際都市であり、東京駅に次ぐ2番目に大きい下関駅を中心とした、一大経済都市であり、文化都市であった。 (p.154)
この記述を読んで、当時の下関の都市の規模に驚いたと同時に、金子みすずという詩人の発想を支えた教養の根源が理解できた気がする。それほど大きな経済都市・文化都市だったからこそ、下関には国内外の書物・文献が豊富に揃っていたのだろう。みすずの詩には、仙崎という田舎の女性の感性だけでは、とうてい作りえないはずのモノがいくつもみられるのだから。
猫の親分、この本やるでぇ。 取りにきな。
<了>
金子みすず関連・参照