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 興味深い内容の本だ。日本の最も伝統的な芸能である 「能」 の担い手であった 「猿楽師」。その猿楽師のルーツとなる職業人脈から、産業史的な紐付けで日本の霊性を解明している。霊学的な内容というよりは産業史的な内容で語られているので、霊的なことに全く疎い人々に対しても、すこぶる説得力のある書籍になっている。


【能の起源 と 猿楽の由来】
 観阿弥・世阿弥親子は、中学校の歴史で習うので日本人なら誰でも知っている。世阿弥は「能」に関する古典的な文芸書として有名な 『風姿花伝』(『花伝書』 とも呼ばれている)の著者である。
 その 『風姿花伝』 にはこのように記述されている。
 そもそも、長寿延年のめでたい申楽という芸能は、その本源をたずねてみれば、一説には仏のいますインドから起こり、また一説ではわが日本の神代から伝わったともいわれている・・(中略)・・
 世阿弥の後継者とされる金春禅竹の 『明宿集』 の中には、更に詳細に、こう記述されている。
 そもそも、その起源は、天岩戸で、神楽を奏して、たかじけなくも天照大神がいらっしゃる岩戸を開いたことに発する。その神楽というのが申楽なのである。昔は神楽といっていたのを、上宮太子の御時、神の字の旁(つくり)の申を採って申楽と呼ぶようになった。おそらく、このことも仏が衆生を救うために神として現れた御ワザなのであろう。
 仏在所の印度においては、祇園精舎の供養のとき、天魔の障りを静めようとして、仏殿の須弥壇の後方にある戸のところで、仏弟子の阿難・舎利弗らが、この神楽を舞ったという。これもまた、今日の猿楽の起源である。これらの説は、すべて上宮太子の自筆の目録の中にある。 (p.80)

 このカグラの語源はカミ(神)クラ(倉・蔵・座・鞍・・・)のミが脱落したものと考えられている。つまり、神の依代(よりしろ)を持って、いいかえれば、神々が憑依した状態で舞うのが神楽なのである。 (p.99)
 「能」の創始者は、聖徳太子であり、神楽(かぐら)→ 申楽(さるがく) → 猿楽、と言うことである。
 この呼称の変容には、限られた者たちの中で行われていた神事(しんじ)を大衆の中で行えるようにしたかったという、聖徳太子の意図が感じられる。
 当時、日本の祭祀を行っていた神道集団に対して、自国内の神道文化維持より異文化の仏教を擁護するかたちで日本に根付かせた聖徳太子の決断は、遠く日本の将来を慮る時空を超えたシャーマンとしての資質があったからこそなのであろう。当時は、大陸の文化を取り入れることを最優先することが、日本の取るべき選択肢だったのである。
 しかしながら、1500年の星霜を経た現代は、仏教以前に存在していた日本文化(神道)を復元しつつ、日本が世界に対して価値をつくり広げるべき時代である。聖徳太子が今の日本に生きているならば、必ずや、そうするはずである。

 

 

【世阿弥はなぜ、芸能・芸道全般の奥儀について語ることができたのか?】
 それは、世阿弥が、そして観阿弥が偉大なワザヲギだったからである。ふつう、ワザヲギとは「俳優」の義とされているが、その本義は文字通りワザ(態・術・技)を招(を)ぎ寄せる人のことだ。ワザ(技)ヲギ(招ぎ)が語源なのである。すなわち、ワザヲギとは、神懸りして神のワザを招き寄せて、神そのものになって神を演じる人のことをさす。いうならば、一種のシャーマンである。呪術師である。 (p.19)

 

 

【阿弥号を持つ人たち】
 文物に詳しい阿弥号を持つ者たちが重宝されるようになるのである。茶道の能阿弥、立花の立阿弥、銀閣寺の築庭を担当した河原者の善阿弥なども、観阿弥・世阿弥父子のように阿弥号を名乗っていた。刀鑑定の本阿弥家も阿弥号が名字化した例である。そして彼らはいずれも広義の被差別階級の出身だった。いうならば、古代の呪術=技術集団の末裔として、ワザヲギの術を発揮していたのである。いいかえれば、「憑」依の技術者だったのである。 (p.54)
 憑依が、「憑」依と記述さているのは、以下による。
 足利時代には「憑(たのみ)」といって、主君と家人との間で物品を贈答する風習が儀式化され、幕府には憑総奉行なる役職まで置かれていた。その贈答品のことも「憑」といい、憑の物品の目利きを阿弥号を持つ同朋衆が行ったわけである。 (p.51)
 さらに徳川家の祖先ともいわれる徳阿弥について、こう書かれている。
 徳川家の家紋は、源氏とは縁もゆかりもない葵巴である。葵の紋所は、京都の賀茂神社(賀茂別雷神社賀茂御祖神社)の神紋の加茂葵(二葉葵)に由来しているから、徳阿弥は同朋衆であると同時に、加茂社の神人でもあったらしいということが推測できる。 (p.55)
 「葱鴨」の本来は「禰宜加茂」である。日本中の神社の禰宜(神職)は全て加茂氏から排出していたことが由来である。

 

 

【「翁」について論じた秘伝書:金春禅竹が著した 『明宿集』 】
 金春禅竹は、世阿弥の意思を継承しているといえるだろう。先に引用した 『明宿集』 は、その禅竹が、神事能の典型・象徴としての 「翁」 について論じた秘伝書である。それによると、上宮太子、すなわち聖徳太子の時代、初めて猿楽が秦河勝に寄って舞われたが、その舞が 「翁」 だったという。 (p.78-79)
 著者はこのようにも書いている。
 「翁」はじつは能ではなく、猿楽=申楽の元芸なのである。そして、そのときに使われる「翁」面をつけるシテも「鏡の間」で神に仕える者として厳しい潔斎が要求される。・・(中略)・・「翁」面をつけた演者は、その場では神そのものとして遇される。すなわち、たんなる長老ではないのである。その共同体における限りなく神に近い存在なのである。 (p.82)
 禅竹は 『明宿集』の別のところで、「翁」 という字は、「公」 と 「羽」 の義である、とも指摘している。・・(中略)・・。ペルシャなどの中東を含む広義の 「仏在所」 の概念で言えば、「公」 の 「羽」 とは 「天使の羽」 である。 (p.93)

 

 

【新たな産業をもたらした秦氏と、秦氏を称する観阿弥】
 おそらく、桑へ転換する以前は、忌部系の人たちが麻や穀を植え、服部系の織部がその繊維で布を織り、そこへ秦氏がやってきて、養蚕・絹織りが始まったのではないか、と考えられる。つまり、こうして成立した秦氏の拠点に、秦氏を称する観阿弥がやってきて、結崎座を創立し、猿楽を演じるわけである。 (p.35)
 秦氏とは、秦の始皇帝の系譜を自称する秦河勝を中心とする渡来系氏族であることは言うまでもない。聖徳太子と深いつながりのあった秦河勝は、この時代、平安京造成に関わった最も中心的な人物である。その名前が、治水土木工事の技術者らしい印象を与えるが、これもワザヲギの一つである。能の4宗家といわれる中の、観世・金春・宝生、いずれも秦河勝から始まっている。
 織部の服部は伊賀の忍者集団に関連する人々である。情報を持つものたちとの連携が、猿楽集団をより価値の高い集団に高めていったのであろう。

 

 

【最後の猿楽的万能人・大久保長安】
 大久保長安(ながやす 1545~1613)は、江戸時代初期の、今ふうにいえば財務官僚であり、産業-技術の知識人であった。 (p.132)
 この長安の出自を辿ってみると、・・(中略)・・、長安は(甲州)武田家お抱えの申楽衆の大蔵太夫金春七郎喜然の次男として生まれている。 (p.134)
 軍師としての武田信玄が猿楽集団を召抱えたのは、純然たる観能のためというより、いうまでもなく、その集団の持つ技術力と情報(諜報)力であろう。長安には、甲斐の北部にある金峯山の金鉱を掘り出す技術者としての役割があり、後に江戸幕府に命ぜられて、石見銀山、佐渡金山、伊豆金山、奥州南部金山の鉱掘も担当するようになった。
 特に、(伊豆)大仁金山から産出された金から慶長小判が鋳造されるなど、幕府の財政に大きく貢献するのである。 (p.140)
 武田信玄の甲州金や江戸幕府のかずかずの金山・銀山のように、鉱物は昔も今も富を生みだす重要な源だったのである。空海が高野山の造営資金として近くで産出する丹(水銀)を用いていたことは良く知られている。丹を名前に含む神社が今も存在している。ついでに、丹は朱色の元となる。日本古来の神社の鳥居に用いられていたのであろう。
 大久保長安は、同時代に、メキシコで多量に産出していた銀の精製と同じアマルガム法(水銀流し)を用いていたのだという。
 スペインをはじめとする西欧諸国の富の源泉は新大陸で産出した多量の銀だった。この富の蓄積がやがて西欧に産業革命をもたらし、更なる富を求めてアジアへの領土拡大(植民地経営)へと野心的に発展して行ったのである。
 19世紀以降、欧米列強諸国の植民地化に唯一対抗できた日本の潜在的な技術力は、猿楽集団によって太古より連綿と保たれていたと言えるのだろう。
 話しは逸れるけれど、日本は近未来に大陸棚の海底から重要かつ巨大な鉱脈を掘り出すようになるであろう。黄金の国・ジパングの伝説は、これから始まろうとしているのである。

 

 

【猿楽集団の歴史に占める比重の凄さ】
 著書の終盤近くになって、聖徳太子を中心として、様々な職能を有する技術者集団を交えて実に様々な猿楽人脈がつながってくることが記述されている。書き出すなら全部になってしまうから書き出さないけれど、面白すぎて眠れなくなってしまった。

 

 

【十言の神呪(とことのかじり)】
 アマテラスオホミカミの言霊を唱える 「十言の神呪」 と呼ばれる古神道の行法がある。・・(中略)・・。十言の神呪は橘(たちばな)氏(橘諸兄)の末裔という楠木正成の 「何と無(の)ふ君を恨み奉る心出来らば天照大御神の御名を唱え奉るへし」 という歌に由来している。いいかえれば、橘家(きっけ)神道は楠木正成に発する楠木神道だったといえよう。
 ちなみに、本書の版元は 「たちばな出版」 である。そして、同社の社長の深見東州氏は、宝生流能楽師師範の資格を持つほどの、すこぶる付きの能好きと聞く。そのほか、京劇・バレエ・オペラ等々を演じ、水墨画・書道・陶芸・華道・茶道等々も嗜む。まさに深見さんはめくるめく猿楽的空間の中の神ながらの住人だ。さらに、本書の中で取り上げた人物の多くは、深見さんとは霊統的に繋がりがあるという。おそらく、深見さんが能を舞うのは・・(中略)・・ <能> が本来、国家安穏・世界平和を祈念して奉じられた、ということに起因しているのかもしれない。 (p.175-176 あとがき)
 以前、『シャイン』 という本の読書記録の最後で、この出版社のことを貶して書いていたので、帳消しにするためにも書き出しておいた。
 因みに、深見氏の本名は半田氏である。半田(はんだ)は秦(はた)なのであろう。秦氏系譜の半田の半分を補完するのは加茂氏系譜の徳田ということなのであろうか。
 下記は、深見東州氏に関するリンクです。
             【小泉大志命先生が会われた3人】
             【小泉大志命先生が深見先生に言ったこと】
             【楠木正成と文観から見えるもの】
 
<了>