神田神保町には戦前の建物がよく残る。そして色合いなど、どこか共通点がある。

 

古書店街の目抜き通りであった1丁目電車通り南側と、2丁目は奇跡的に空襲を免れ戦前のままの姿で残った。

これは一説によるとハーバード大学にいた日本研究者セルゲイ・エリセーエフ氏が米軍に、爆撃を避けるよう進言したためと言われている。(一誠堂書店HPより)

こうした空襲を逃れた話(伝説)はいくつかある。

例えば横浜のホテルニューグランドから横浜税関あたりの海岸沿いは、アメリカは占領後にすぐに使用する予定であったから、爆撃しなかった。

築地の聖路加病院はアメリカ聖公会の所有だから爆撃されるはずはないと、当時すでに信じられ、市民が避難していたという。

しかし正式にアメリカが戦略爆撃の対象から外したのは皇居だけの様である。

 

一誠堂書店

 

東京都市建築研究所の設計で1931年に竣工。
洋館のような緑色のラインが、良いアクセントになっている。
最上部分には掲揚塔。

 

老舗の画材店神保町古書店街の味わいのある戦前建築


1922年の竣工でファサードのみ現存。
時代を感じさせるスクラッチタイルの壁と、3階窓より上の金色の装飾が美しい。

3階はカフェ。

 

旧相互無人会社ビル

 

神田神保町さくら通りのこのビル(旧相互無人会社ビル)は1930年の建築。震災復興建築。

外壁のスクラッチタイルに歴史を感じさせる。日本タイ協会が最近まで入っていたとのことだが、訪問時は全く使われていない印象だった。(少し前の撮影)

 

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護国寺の講談社本館は、1933年に前身である大日本雄弁会の本社として竣工。
正面玄関のドーリア式列柱を除くと堅実な建物の印象で、あまり古さは感じない。

今はこの正面玄関の横が写真の出入り口の様。

 

立派な列柱!


 

今も宣伝ののぼりが左右に4本、垂れ下がっている。

 

講談社のショーウィンドー。

撮影的にはこれはない方が嬉しい(笑)

空襲にもあわず、今なお元気な講談社の建物にエールを送りたい。

 

この日は講談社の向かいのイタリアンでランチ。食レポは別の機会に。

 

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気軽にコーヒーが飲めるチェーン店だが、最近立て続けに、洒落た建物に入るお店を訪問した。

 

 エクセルシオールカフェ お茶の水日本大学店


道路に面し誰でも入れるが、学内で一般の利用も可とのこと。
ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した主婦の友社の社屋を、磯崎新により高層化され復元。

7月1日のオープン。

 

右は親会社ドトールコーヒー社長の花輪。

 

日本大学カザルスホールの全景。

カフェは左の建物に入る。右は使用されていないよう。背後の高層部分は?

 

ここのパスタはすでに食べたのでコーヒーとお菓子のみ

 

2 HASSO CAFFÈ with PRONTO

 

神田錦町の博報堂旧本社本館(復元) 

この塔屋付きの建物のオリジナルは1930年に竣工。 

現在中にはHASSO CAFFÈ with PRONTOという、博報堂とPRONTOのコラボカフェが入っている。

さすが博報堂というか店名の「HASSO」は「発想」からきている。

 

 

 

パスタは後日、別ブログの「孤独のパスタ」で紹介。

 

3 神戸北野異人館

 

もちろんこの世界の王者、スターバックスコーヒーも黙ってはいない。

復元ではなく、オリジナルの洋館を利用している。

日本第一号の登録有形文化財を使ったスタバという。

(こちらは2024年の訪問)

 

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横浜の大桟橋の入り口付近から左手を見ると、正面の細長い建物は1929年に建てられた「横浜貿易協会ビル」。

横浜にモダニズム建築を残した建築家川崎鉄三がこのビルの施工監理を務めたとされる。

1963年にオープンした北欧料理のスカンデイアが入り、このビルは見覚えのある人も多いであろう。

 

そこに連なるのが「海洋会館」。先の写真では左奥にかすかに見えるが知る人はぐっと減る。

大倉商事横浜出張所として大倉土木の設計で「横浜貿易協会」と同じ1929年に建設された。

あまり目立たないが「横浜貿易協会ビル」同様に3階建てで壁面の色、素材などもお互いよく調和している。

 

その隣は建物はなく象の鼻パークへの入り口となる。

 

そしてその左側が「昭和ビル」である。注意を払う人はさらに減る。

こちらも川崎鉄三の設計で1931年に「カスタム・ブローカー・ビル」として竣工した。日本語に訳すと「通関業者ビル」である。

当時はこの辺り、通関業者が林立したようだ。

 

実はこのビルは右に同デザインのビルが連結して双子のように建っていた。こちらは後にキッコーマン横浜支店の「キッコーマンビル」として使われてきたが2000年に解体され、象の鼻パークへの入り口となった。

つまりここから最初の「横浜貿易協会ビル」まで4棟、3階建てのスクラッチタイル(多数の細い溝の模様があるタイル)のビルが海岸通りに沿って、きれいに並んでいたのである。

今もここから右方向を眺めると、ほぼ当時の街並みをイメージすることが出来る。好きな場所だ。

 

これらのビルは「歴史的建造物」として認定されることもなく、今も主に飲食店の入るビルとして、”酷使”されている。

そしてこの昭和ビルに2年ほど前に溜池山王から移転してきたのが洋食シーザー。

パスタを食べに訪問したが、食レポは別の機会に別の「孤独のパスタ」で。

 

その前はCJ Cafeというなかなか面白いお店が入っていた。

 

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先日ある会合で内幸町のビルを訪れたが、窓から見えたのは「市政会館」。

1929年竣工で、戦災を免れ東京都選定歴史的建造物他に認定されている。
見慣れた地上からとは違う角度で、流行りの言葉で言うといつもと「違う景色」!?

 

国会通りより撮影。

最後の改修は1960年代で、なりオリジナルの外観を残しているようだ。

 

特に戦中の日独交流の中心団体であった「日独文化協会」がこのビルに入っていた。

昭和12年(1937年)5月に発行された、日独文化協会創立十周年記念「独逸国実名作素描展目録」を見ると、発行者の住所は「麹町区 日比谷公園 市政会館四階」とビルの4階に入っていたことが分かる。

国会図書館 デジタルコレクション

 

この日独文化協会は第二次世界大戦中の1942年末に、新築されたビルに移転している。次のような記録が残る。

「長らく建設中の日独会館(東京市麹町区三番町4番地)は、戦時下資材不足を見事に克服し、昨17年(1942年)12月3日、前文相本協会評議員松浦銀次郎氏、オットドイツ大使、コルト公使を来賓とし、本協会側より会長侯爵大久保利武氏、(以下氏名略)、建設委員側よりペッツオルト氏(同会館設計者ー筆者註)その他多数の参列を得て、同所に於いて厳粛な竣工式を挙行した」(「日独文化協会事業報告  昭和17年度」より)

 

しかしこの新しい日独会館の建物は1945年春の空襲で焼失してしまう。

「市政会館に残っていたら焼け出されずに済んだのに」などと考えてもしょうがない。

日独文化協会が出たのと近いタイミングの1942年1月には同盟通信社が市政会館に移ってきた。

 

戦時中のドイツ関係の重要な建物であるドイツ大使館は、焼失し今は国会図書館になっている。こちら

またOAG(ドイツ東洋文化研究協会)があった建物は、現在砂防会館である。こちら

 

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6月6日 今年最初の軽井沢訪問。一昨年、昨年と同タイトルで軽井沢の公共交通機関を使っての移動の印象を書いている。

今回も同じ流れで、書いていく。

自分的には備忘録で、かなり個人の関心、調査対象に偏ったものである。

 

10時半ころ到着を目指して軽井沢に行く新幹線を探すが、10時26分到着あさま675号は東京駅ではなく、上野始発だ。しかもこの日は横須賀線は工事で品川ー東京間が終日運休だ。いろいろ乗り換えが面倒なので、武蔵小杉から大宮まで湘南新宿ラインで出ることにした。

そういえば先日スイス人の旅行者と新宿で話したとき、彼らは東北新幹線に乗るが東京駅ではなく、大宮に行くと話していた。料金のお得な裏技として、海外にも知れ渡っているようだ。

 

埼京線も新幹線もどちらも乗るのは50分くらいだ☺️
大宮まではグリーン車を利用(追加1010円)で、シートの間隔は新幹線の普通より広い😄 

車内でインスタの投稿など出来たから意味のあるグリーン車利用。

なお帰り、大宮駅のホームでグリーン券をスイカで買ったら750円だった。これならお手頃。

 

上野発のあさま号は未だハイシーズンでないためか、かなり空いていた。

軽井沢駅を出ると、まずは愛する駅前食堂「まるほん」の無事(営業)を確認。

 

「まるほん」から道を挟んだ反対側には新しい商業施設「軽井沢T-SITE」がオープンしていた。真っ黒だ。

 

ここはかつて新幹線が開通して廃止になった信越本線のホームがあったところ。

 

駅前のタクシー乗り場はかなりの台数が待っている。一方バス乗り場は沢山の人。

いくつかの方面行きのバスが同じ乗り口のため、自分の乗る町内循環バスのお客がほとんどかと思い、出発まで20分以上あるがとりあえず行列に並ぶ。目的地別に列を分けられないものか?

 

バスは定刻出発。2時間に一本程度の循環バスだが、地元の人も利用している感じ。
料金100円はバカ安。町が負担しているのでしょう。

杉瓜で降りて、ルヴァン美術館へ。

 

軽井沢ルヴァン美術館の「ソノ・西村・ベガート」展を訪問はこちら

 

食レポ:パスタ@CAFE-ルヴァン美術館はこちら

 

その後また町内循環バスで旧軽井沢に出る。ほぼ時間通りで100円とは感謝。

杉瓜のバス停辺り。

 

旧軽井沢をブラブラ。「色後庵」は緑に囲まれていた。以前お世話になった近くに住むオーナー夫人は留守のようであった。

「又 心の糧 (戦時下の軽井沢)」で紹介した。こちら

 

旧軽井沢のテニスコート(ジュニアコート)

ここの奥の3面目のコートの位置に「ジュニアビルディング」と呼ばれた建物があり、戦時中はドイツ人学校がここに疎開した。そして戦後しばらくは公民館であった。こちら

 

このコートと奥の建物の間にはかつて小川が流れていた。

今もかすかに水は流れているが、殆どが蓋をされている。

 

旧軽井沢のメインストリートに沿って両側を細々と流れているが、蓋を取って小川として整備出来ないものか?こちら

下の写真の中央部も水が流れている。

 

旧軽井沢から駅に向かうバスが信号で停止して、真横に見えたのが「三好屋」の看板(信州蕎麦みよしや)。

戦後、店主清三郎さんの母みよしさんが開業。母の名前から来た店名。

 

軽井沢駅に戻って久しぶりの「まるほん」。いつものとんかつ定食を注文。カリっと揚がった感じが懐かしい。

変わったのは目の前に冒頭で紹介した「軽井沢T-SITE」が出来て、新幹線のホームがテーブルから見えなくなったこと。

しかしこちらはマイペースで頑張っている。まるほんの歴史は「又々 心の糧 (戦時下の軽井沢)」 で紹介。こちら

 

計画が順調に進み、軽井沢駅には予定より1時間以上前に着いたが、電子チケットだと前の列車に簡単に変えられないのが難点。

よって「まるほん」では日本酒も追加で注文。

バスがほぼ定刻の運行で、目的をほぼ達成できた6月の軽井沢であった。

 

「軽井沢の印象(町内巡回バスを利用して)2024年」はこちら

「軽井沢の印象(公共交通機関を利用して)2025年」はこちら

 

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「ソノ・西村・ベガート」展の初日を目指して、6月6日(土)に軽井沢のルヴァン美術館を訪問。

旧姓西村ソノは副題にもあるように、戦時下の欧州を美貌と行動力で生き抜いた女性で、生涯芸術を愛した。

ソノは文化学院を設立した西村伊作の4女、第6子として1918年に生まれた。そして2025年5月に107歳でアメリカのワシントン州(ワシントンDCではない)タコマで亡くなった。

 

企画展はこちらの建物で行われている。

 

中には戦前からの写真、自身の描いた絵画、貴重な資料が展示されている。

筆者が特に興味を持ったのは終戦直前に父親西村伊作が、敗戦直前のドイツから逃げ込んだスイスのソノに送った電報のオリジナルだ。

送り先はスイスの日本公使館気付  西村ソノ。公使館の受け取りは8月9日の事であった。

その翌日に日本の外務省からスイス公使館に届いたのは、日本がポツダム宣言を受諾したことを伝え、スイスから連合国に伝達を依頼するものであった。スイスの公使館ではこの電報を未だか未だかと待ち続ける中に届いたのが、伊作の電報であった。

 

会場にはソノの娘さんもアメリカから着ていた。筆者は彼女とは数年来の知り合いである。

ソノが1967年に描いた彼女のポートレート写真を挟み、2人で記念写真を撮った。

 

美術館カフェのでパスタの食レポはこちら

 

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西村ソノに関連する書籍「第二次世界大戦下の欧州邦人(ドイツ・スイス編) 」はこちら

赤坂離宮は明治42年(1909年)に東宮御所として建設された、日本手唯一のネオ・バロック様式の宮殿建築。

内部の見学ができるというので訪問。

 

正門

散りばめられた金色(メッキ?)が美しい。(国宝)

ここまでは入館料無しで来られる。

 

入館料は1500円。手荷物検査の後、建物の中を順路に従って見学できるが、撮影は一切禁止。

ただし今後国賓が来日して迎賓館内部がテレビに映る時、「あの部屋だ!」と親しみを持って観ることが出来そうだ。

 

警備の人が至る所にいて、休憩スペースで電話に出た人にもすぐさま管理人が来て注意していた。警備費用も相当かかっていそうだ。

そう言うわけで、内部は早く切り上げて、建物の撮影に専念。

 

本館(国宝)

かなりの訪問者がいて、思い思いに撮影したりしているので、人物の入らない写真を撮るには忍耐が必要。

何度か写真などで見てそのきれいな姿から、割と新しい建築かと思っていた。

しかし1909年に建てられて、修復があったものの建設当時その姿を残していると知り驚いた。

 

中央部分。

玄関上のペディメント(三角派風)と一対の武士像(緑の半円状の像)

 

輝く金色の星をちりばめた天宮儀。金色の飾りはいたる所に施されている。

 

噴水

こちらも創設時に造られた噴水(国宝)

 

かつての衛士の詰め所。

話を聞くと、すでに複数回訪問している人も少なくない。

確かに一度は訪れてみる価値のある場所だ。

 

正門そばの「迎賓館 赤坂離宮前 休憩所」にはパスタあり。それについては別途「孤独のパスタ」で紹介予定。

 

聖イグナチオ教会

その後に訪問したのは、迎賓館からも近い聖イグナチオ教会。

 

現在の建物は1999年に建てられた3代目。

鐘楼の中の鐘は第二次世界大戦で武器として使われた戦車や大砲をつぶし、2度と悲惨な戦争が起こらないようにと、ドイツで作られ日本に来た。

 

教会としてユニークなデザインだが、中のステンドグラスが美しい。

 

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戦後間もなくの1947年冬、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)か軽井沢における、不動産の調査を行った。

アメリカ、イギリス資産など戦時中に日本に没収されていた建物を返還させる目的であった。

そうして作成されたリストの中に軽井沢避暑団の所有として「学校」という物件がある。確かに学校のような作りである。

 

地図も作成されている。それによると現在のショー通りとテニススコート通りに挟まれた現在のジュニアテニスコートの先である。現在は商業ビルになっているあたりだ。また軽井沢会の事務所は今も同じ場所にある。

 

この軽井沢避暑団の建物は戦前、「ジュニアビルディング」と呼ばれた。

証言によれば講堂と教室が一緒にあり、天井からは体操の遊具がぶら下がり、ピアノも置いてあった。

そして1944年夏には大森にあったドイツ人学校が疎開してきた。

そのまま終戦を迎えたので、戦後の調査時には「学校」と表示された。


かなり大きい建物であるがその後どうなったのか、筆者が聞いた限りでは覚えている人はいなかった。

しかし最近新たな情報を入手した。まずは1960年代の地図には「公民館」として表示されていた。

また幼少期から軽井沢で夏を過ごしてきたYさんが、同じころの写真を送ってくれた。

ジュニアテニスコートの先の建物は、戦前のままの姿ではないかもしれないが、依然存続していた事が分かった。

 

ここで軽井沢会テニス部の「100年の歩み」という本を読むと、ある方が座談会の中で次のように述べている。

「ジュニア(がプレイするのは)はジュニアコートだったから。今の反対側。(現在は3面だが)2面しかなかったなかったですよね。それと建物がありました」

その後この建物が壊されて、そこにもコートが1面出来たのである。

 

Yさんはこの公民館を何度か訪れたことがあるという。

「しばしば催し物をしており、ピアノコンサートだったり、ジーンズの業者などが数日販売したりと色々活用されていました。
古い木造体育館のような作りが記憶にあります。催しの内容よっては相当な賑わいでした。
まだ小川が蓋をされていない時期でしたので、テニスコート通りから小川の横を歩いて建物に入ったのを覚えてます」

 

まさに下の間取り図とぴったり一致する。

「ピアノコンサートの時は2階席のような場所もあって、そこから1階を見ることが出来たと記憶している」との追加の証言もいただいた。

 

軽井沢町が制作した年表(軽井沢町のあゆみ)から公民館の項目を拾うと、

1951年 軽井沢町公民館発足。戦後6年経って建物の利用が再開されたか。

(以降何カ所かに公民館が開かれるが、ここが最初で間違いなかろう)

 

1975年 現在「旧軽井沢公民館」のあるオーディトリアム通りに移転する。

おそらくこれと前後して、軽井沢避暑会の建物は老朽化で取り壊されたのではなかろうかと想像したが、先に紹介した「100年の歩み」によると、

「1992年 軽井沢会体育館(ジュニアビルディング)解体工事」と書いてある。

割と最近まで存続していたことになる。

 

この建物は戦前から一貫して、軽井沢会の所有であったようだ。公民館時代は町に貸していたのであろう。

現在こちら側のコートを「ジュニアコート」と呼ぶのは、かつての「ジュニアビルディング」から名前を踏襲しているのではないか?

 

なお現在の公民館の建物は当初の診療所が病院へと発展し、1954年に正式に「軽井沢病院」として開院する。

1974年には、軽井沢病院は中軽井沢に新しい病院棟を建設し、これが今の「軽井沢病院」である。

玉突き式に入居者が変遷するのも興味深い。

 

現在の印象は結構雑然とした公民館の建物である。(目下閉鎖中)

「グーグルストリート」より

 

いつも状況を提供してくれるYさんによると隣に新しい公民館がすでに出来ている(5月9日)

 

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本編に関連する『続 心の糧(戦時下の軽井沢)』はこちら

軽井沢、ルヴァン美術館の今年の企画展は 「ソノ・西村・ベガート展」です。

 

副題は 戦時下の欧州を

    美貌と行動力で生き抜いた青春

    芸術を愛した生涯

 

西村ソノさんは文化学院創設者西村伊作の4女で、ルヴァン美術館の館長を務めていましたが昨年5月31日、惜しくも107歳で亡くなりました。

 

 

私が自著『第二次世界大戦下の欧州邦人(ドイツ・スイス)』(2021年発行)の中で 

『西村ソノ  戦時下の欧州を勇気と美貌で生き抜いた女性』として紹介した女性です。

先の副題と似ています。

そして表紙に登場しています。

amazon.co.jp/dp/4866452005/

 

もちろん企画に際し、協力させていただきました。 

6月6日スタートです。 軽井沢訪問の際にはぜひお立ち寄りください。

 

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