したがって、自己制御し、道徳(ダルマ)に細心の注意を払いなさい。そして自分と同じように他人にも接するのです。(マハーバーラタ)
ベンジャミン・ザンダーのTEDレクチャーの最後をしばしば思い出します。
あのピアニストにして指揮者のベンジャミン・ザンダーです。
アウシュビッツで生き残った女性の話しです。彼女は両親を失い、弟を失いました。
不幸なことに、それが彼女が弟に言った最後の言葉になりました 弟とは二度と会えなかった 彼は生き残れなかったんです。
【動画紹介】
上記に紹介したベンジャミン・ザンダーのTEDレクチャーで、
私は自分の仕事が他人の可能性を目覚めさせることだと気づいたんです。そしてもちろん、自分にそれができているのかを知りたいと思いました どうやってそれがわかるか? 彼らの眼を見るのです もし彼らの眼が輝いていれば、うまくやっているということ。
と、ベンジャミン・ザンダーは言いましたと紹介しました。それが最後のオチの伏線となります。
さて私は最後の思いを述べます それは みなさんの話す言葉を本当に変えるでしょう みなさんの口から出る言葉を 私はこれをアウシュビッツで生き残った女性から聞きました わずかな生存者の一人です 彼女は15歳の時にアウシュビッツに連れて行かれました 8歳の弟も一緒で、両親は失われていました そして彼女はこういったのです:
「私たちは列車でアウシュビッツに行ったんですが、見ると 弟の靴がなくなっていたんです。 そして私は言ったんです『なんてバカなの、自分のこともちゃんと できないなんて!』って」
―姉が普通に弟にいう言葉ですよね 不幸なことに、それが彼女が弟に言った最後の言葉になりました 弟とは二度と会えなかった 彼は生き残れなかったんです そこで、彼女はアウシュビッツを出た時に誓いを立てたんです 彼女が話してくれました:「私はアウシュビッツから生きて戻ったとき 誓いを立てました それが最後の言葉になったとしたら耐えられないようなことを もう絶対に言わない、と」 私たちはそれができるでしょうか? いや 私たちは自分を悪く言うし 他人も悪く言います でもそれは長く残ることもある どうもありがとう (拍手) 目が輝いている、目が輝いている ありがとう、ありがとう (音楽)
このTEDレクチャーは非常に素晴らしく、かつての騒動のときも該当メンバーに紹介したことを覚えています。
彼はクラシック音楽を広めることに情熱を燃やし、紛争時期のアイルランドにも行きました。
その地で対立するカトリックとプロテスタントの子どもたちにショパンの演奏を聞かせます。
おそらくTEDレクチャーでやったような感じで。
そうしたら、翌日その少年の1人がやってきて、指揮者のベンジャミン・ザンダーに言いました。
「俺はさ、いっぺんもクラシックは聞いたことがなかったんだけど、あんたがあの―ショッピング(ショパン)の曲を弾いた時は…」
「俺の弟は去年、撃ち殺されて、その時も俺は泣かなかったんだけど昨日、あんたがピアノを弾いたのを聞いた時、俺は弟のことを考えてたんだ。その時涙が流れているのに気づいて、それでさ、弟のために泣くのはほんとにいいもんだ、って感じたんだ」
"You know, I've never listened to classical music in my life, but when you played that shopping piece ..."
"My brother was shot last year and I didn't cry for him. But last night, when you played that piece, he was the one I was thinking about. And I felt the tears streaming down my face. And it felt really good to cry for my brother."(TEDより引用)
紛争の最中にあって、弟を撃ち殺され、しかしそのときは涙を流せなかった少年が、ベンジャミン・ザンダーのピアノでショパンを聞いた時に、はじめて弟を思って涙を流したという話です。
芸術の力を感じさせる美しいエピソードです。
ついつい過去記事を紹介してしまいたくなる誘惑にかられますね。
空を飛ぶ鳥のようなものです。彼らが眼下の垣根を気にするでしょうか?(ベンジャミン・ザンダー)
新しいことを学ぶときは、そこで重要なのはどんな概念がどんな言葉が使われているかではなく、どのように論理が展開し、どのようなゲシュタルトが構築されているかです(いや、あわてて付け加えますが、寺子屋では逆に新しい名称は繰り返し口の中で転がして、何度も口に出すことで親しみやすくなるようにと言います。これは学習法の問題であり上記の議論とは矛盾しません。新しい友人と出会った時は、その名前に馴染むまでその名前を呼べばより素早く親しくなれます。多分)。
新しい曲を知りたいと思ったら、口ずさみながら身体を動かすといいかもしれまえせん。新しいことを学びたいと思ったら、同様に口ずさみながら身体を動かすといいかもしれまえせん。
そのとき小さな違い、小さな名称のささいなことにこだわらないことです。ベンジャミン・ザンダーがこう言っています。

*画像をクリックするとベンジャミン・ザンダーのTEDレクチャーに飛びます。
(引用開始)
Like the bird who flies over the field and doesn't care about the fences underneath, all right?
(空を飛ぶ鳥のようなものです。彼らが眼下の垣根を気にするでしょうか?)
(引用終了)
ベンジャミン・ザンダーは、クラシック音楽は万人のためのものであるという信念のもと、クラシック音楽の魅力を伝えていますが、クラシック音楽を楽しめない理由の一つに一音一音にこだわってしまうことをあげています。そうではなく全体の絵を見て、長い長いライン(線)を見ることだと言います。空を飛ぶ鳥が地面にあるフェンスに目もくれないように、一音一音に躓かないほうが良いと。
(全体像を仮につかんでから、一音一音を揺るがしにせず、一つ一つの論理構造をゆるがしにしないほうがいいです。森を見てから、木を見ましょう)
ともかく全体像を自分なりにつかむ(その際に、まちがっても教師に「この視点で合っていますか」などと聞かないほうがいいでしょう。教師のほうが生徒より理解していないなどということはよくあります。そんな教師に自己の評価を委ねてはいけません)、自分がつかんだものをしっかり握り離さず、それを十分に振り回して、理解を押し進めることです。その理解(ゲシュタルト)はすこし突飛なほうがいいです。その理解を押し進めながら、読み進めていくと、どこかで壁にぶつかります(自分なりの理解が無い者には壁もあらわれません)。その壁がまた自らの理論(ゲシュタルト)を鍛えあげてくれます(もしくは壁がそのやわな理論を木っ端微塵にしてくれます。どちらも幸いです。壊れたらまた新しく掴めばいいので)。
音符にも一音にも意味はなく、同様に言葉も一意的な意味はありません。両者ともにそのつながりの中で意味が生じます。概念のゲシュタルト全体に音楽を感じ、風景を見ましょう!部分にこだわるのはその後でも十分に間に合います。
一生に一度なのです。
一期一会なのです。
繰り返し会える保証など無いし、第二第三の人生もありません。
その瞬間はその瞬間限りです。
だからこそ、会えるときに会っておいた方が良いのです。
そして、それが最後の言葉になるかもしれないと思って、言葉を発した方が良いのです。
フィクショナルな洗脳の世界から早く抜け出して、本当の世界、リアルな世界のヒリヒリ感を肌に感じながら、一期一会を心に刻むと良いと思います。次はもうありませんし、やり直す機会もありません。
p.s.
と書いてきたら、本題を忘れていました。
タイトルと冒頭の伏線が回収できていない。
したがって、自己制御し、道徳(ダルマ)に細心の注意を払いなさい。そして自分と同じように他人にも接するのです。(マハーバーラタ)
マハーバーラタの一節を引くと、そこに我々は聖書の一節(汝が如く汝の隣人を愛せよ)を思い出し、芋づる式にジラールを思い出します。
これは、「デジタルの皇帝たち」の第一部第二章の枕に引用されています。
そして、マハーバーラタとはインドの叙事詩のこと。
「ラーマヤナ」と併せてインドの二大叙事詩と言われ、ギリシャの叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』としばしば比較されます。
デ・キリコ『オデュッセウスの帰還』
マハーバーラタを知らなくとも「バガヴァッド・ギータ」はご存知でしょう。実はマハーバーラタの第6巻が『バガヴァッド・ギーター』です。
ここに存在するものは他にもある。しかし、ここに存在しないものは、他のどこにもない(マハーバーラタ第1巻56章33偈)
この長大な物語には、古代インドにおける人生の四大目的、法(ダルマ)・実利(アルタ)・性愛(カーマ)・解脱(モークシャ)が語られており、これら四つに関して「ここに存在するものは他にもある。しかし、ここに存在しないものは、他のどこにもない」と『マハーバーラタ』自身が語っている[6]。これは『マハーバーラタ』という物語の世界観を表す、非常に有名な一節である。Wikipedia「マハーバーラタ」








