下巻は江戸時代以降(上巻は戦国時代まで)を題材として、レプティリアン(ナーガ族・イルミナティ・DS)による日本支配の有様が語られている。本書を通読すれば、中学校・高校で習った日本史は、レプティリアン(ナーガ族)による歴史の正当化として、日本の子供たちを洗脳するために教えられたものであることが良く分かるだろう。2019年6月初版。
【江戸幕府における「大奥」の真実】
「家康さんは豊臣を滅ぼしたんでしょう? なのに自分は世襲をしている。なんだよそれって、ちょっと思っちゃったんだけど・・」
「世襲はしてないわよ」
「でも、大奥とか作っちゃって、将軍の子供をたくさん作ってるじゃないの。将軍の子供に継がせるためじゃないの?」
「あ、大奥をハーレムと勘違いしちゃってるのね。大奥はハーレムじゃないわ、大奥は教育のために作られた機関なの」
「教育のため? 誰の?」
「子供たちの・・・この頃はね、世の中の大名たちを納得させるためには、世襲が必要だったのよ。ずっとナーガのやり方で血筋を大切にしてきたでしょ。だから、みんな将軍の血筋だと一も二もなく納得するのよ。反対に血筋じゃない人を将軍にしますって言っても納得しない。納得しなければ、また自分が将軍になるとかいう人が出てきて、権力争いに発展しかねない。
でも、本当の世襲はダメ・・・どうしたものかと思案したのが大奥の制度。表向きは将軍のハーレム? 将軍の血筋を残すためにある機関だということにして、本当はいろんなところからリーダーとして適性がありそうな子供たちを連れて来て、育てていたの。武家の子でも、庶民の子でもよかったのよ。その子供たちをスカウトする専門の人たちもいたの。そうしてスカウトしてきた子どもたちを育てていくのが大奥ってこと」(p.8-10)
チャンちゃんは、下記リンクした様なビジネス書を通じて、「徳川幕府は、政権安定の手法として家督争いを生じさせないよう“幼長の序”を遵守する儒学を用いていた」という認識でいた。“幼長の序”とは、家庭や組織においては、長子(世襲)相続を意味する。
《参照》 『日本史の法則』渡部昇一(詳伝社)
【人材に見る、歴史の法則】
ところが、徳川幕府自体は、一般社会に対して“幼長の序”を尊ぶ長子(世襲)相続という儒教規範を示しながら、徳川家の家督相続に関しては、血縁とは無縁の才能ある者を複数スカウトし、「大奥」で育て、その中で最も相応しい者を後継者として起用していたというのだから、最初は「はぁ~?!」としか思えなかった・・・のだけれど、『(上巻)』《後編》の【秀吉君の蹉跌】に関してあのような考察を書いてもいたから、「流石、縄文サンカ!」と賛歌的に快哉したという次第。
このような認識変更に関して、「朝令暮改」と言われようが「節操なし」と言われようが、認識のアップデート(更新)を躊躇った時、ないし、怠った時、進歩は直ちに止まるのだから、そんなことすら分かっていない愚か者からの指弾など、一切かまう必要はない。
【逆手にとっての鎖国政策】
「外国勢力がよく使う手はね、宣教師を日本人に殺させるの。これを口実に開国、交流を迫り、最後には武力で侵略、征服するって手口。これをまたやろうとしてたの。それをいち早く察知した家光は、その手を逆手に取ったの」
「逆手に取るって?」
「まずは、島原のキリシタン達を刺激して一揆を煽ったの。それを幕府が鎮圧した後、こんな風にキリシタンの思想は危険だから、今後一切禁教とする・・・というところまで持って行ったのよ」
「なんか危機一髪的な感じ・・・」
「ホントにね、外国勢、特に西洋諸国(レプティリアン)から身を守ろうと思ったら、
貝のように固く閉じるしかなかったのよ。何度も言うけど、鎖国は排除ではなく、日本を守るための政策だったのよ」(p.12-13)
「やらせ」はレプティリアンの得意技であり常套手段。それを先んじてやった家光君は、凄く果敢で才能ある将軍!と言っていい。これも「大奥」で育てられ、選抜された人材だったからこそ出来たこと。
世界中で起きている歴史上の紛争は、「起こってしまった」のではなく、すべて「起こされている」。
《参照》 『昭和史からの警告』船井幸雄・副島隆彦(ビジネス社
【アラモ砦・メイン号爆発・真珠湾攻撃】
《参照》 『闇の世界権力の「日本沈没計画」を阻止せよ』中丸薫/レオ・ザガミ(ヒカルランド)《前編》
【戦争は “やらせ” によって引き起こされる】
【綱吉君の「生類憐みの令」】
「綱吉ねぇ~、彼ほど後の世に誤解された将軍はいないわね。・・・(中略)・・・。彼はね、波動のことがわかってたの。頭じゃなくて感覚で。・・・(中略)・・・。だから、動物も植物もみんな意識もあるし感覚もあるんだよ、人間と何も変わらないんだよ、だから命を軽んじてはいけないよ・・・って言いたかったの。
江戸の人々や文化は、縄文に近いとは言っても縄文ほどではなかった。超感覚を忘れてしまった人も多かったしね。だから、動物より人間の方が偉い的な考え方をしてた。それを是正しようと思って出した法律なのよ。(p.21-22)
であるなら、縄文人より江戸時代人より更に超感覚を失っている現代人が、「綱吉君は、超~~アホンダラ~の犬将軍」って思ってしまうのは更に当然。超感覚を持つ者たちを虐殺した西洋史における「魔女狩り」ほどではないにせよ、カワイちょ。
【江戸時代は、提供し合い経済】
「江戸時代の庶民は、お金というものはほとんど使っていなかったわ、・・・(中略)・・・。お金を使わなくても十分豊かに生活できていたから」
「でも物を買う時とか、お金は必要でしょう?」
「買うという概念がなかったってことかな。・・・(中略)・・・。ほとんどの物は自分で作ってたから・・・あとは近所どうしで賄いあっていたから」
「賄いあってたって?」
「庶民はほとんど農家だったし、農家じゃない人は農家の人にもらってた。で、自分の得意とするものを人にあげてた、って感じかな」
「物々交換してたってことかな?」
「う~ん、物々交換でもないのよ。みんながあげるって感じかな。提供し合ってたってこと。農家だっていろんなことをしてたから、・・・(中略)・・・。それで充分村は成り立つの。だからとても豊かだったわ。子供たちだって、みんなで育ててたしね」(p.27-28)
「提供し合い経済」が成り立つのは、経済範囲が徒歩物流圏の範囲だろう。すなわち村単位。現在でも地方には、昔の集落(村)がそのまま残っているけれど、その中で一人が「提供(ギブ&ギブ)経済」を実践してみても、「提供し合い経済」に発展することはない。チャンちゃんは3年ほど実践してみて、それがよく分かった。
貨幣経済の意識が染みついている人々は、ギブの提供を受けたところで、単に棚からボタ餅が落ちて来ただけで、向きを変えて全体に循環させることなど思いもつかないことらしいのである。
砂漠に僅かな水を撒いても、何も育ちはしない。現代社会では、経済基盤の大規模な物理的破壊でも起こらない限り、江戸時代のような「提供し合い経済」は復活しないだろう。
《参照》 『本書(下巻)』ミナミAアシュタール(破・常識屋出版)《後編》
【三角の搾取社会から丸い提供社会へ】
テレビ番組内で、「都市部から村に移住してきたら、ご近所さんがいろんな物をくれた」と喜んでいる場面を、見る事があるけれど、そんなのは移住当初だけだろう。借りられる農地などいくらでもあるのに、自分で作る気もない移住者に「ご近所さんが末長くいろんなものをくれ続けるだろう」と思うのは、おめでたすぎる。逆の立場で考えてみれば分かること。
より本質的な宇宙叡智の視点でいうなら、依存前提は論外であり、自立する意思も交流する意思も循環させる意思も利他の志もテンデないのなら、地方に移住しても無駄。もっと言うなら、その人生自体が学びのない無駄になるだろう。
《参照》 『おかげさまで生きる』矢作直樹(幻冬舎)
【その循環に身を置く】
【江戸時代、大名と庶民は違う】
「女性は結婚したら一生どんなことがあっても夫に仕え、貞操を重んじ、固く身を守り、それが脅かされた時は自ら死さえ選ぶ・・・っていうのが、江戸時代の女性のイメージだったんだけど・・・」
「それはさっきも言った一部の人たちだけね。一般庶民はそんなことまったく考えていない。気に入った人とセックスをして、子どもが出来たらあなたの子よって言う。言われた男の人もそうですかって引き受ける。子どもが自分の子かそうじゃないかなんて気にならないの。なぜかというと所有するものが少なかったし、縄文ほどではないけど、共有の考え方が大きかったから、自分のDNAでなくても好きな人の子供は、自分の子供として大切にしたし、まわりの人たちも誰の子供だからというのではなく、子どもはみんなで育てるもの・・・という考え方だからそれで成り立ったのよ。何度も言うけどこれは庶民の話だからね・・・。
いわゆる公家階級、大名階級のナーガ系の人達は、そうはいかないから、家制度やDNAをとても大切にしていたわ」(p.34-35)
スピリチュアルに目覚めて学んできた人々は、「これからは、縄文意識が復活する時代」であると分かっているはずなのに、自分を育んでくれた家族や家や結婚に関しては、従来通りの認識を改める気はほぼないだろう。
現代人が持っている家族意識や家意識は、明治以降、レプティリアンによって意図的に醸成されてきたものであり、それらは本来の縄文意識に基づくものではないと明確に理解しておかないなら、ネオ縄文へとすんなりシフトできないはずである。
《参照》 『本書(上巻)』ミナミAアシュタール(破・常識屋出版)《後編》
【血統重視=世襲制は、所有概念の表れ】
【結婚制度と所有概念】
《参照》 『あたらしい世界』優花(VOICE)
【家族の在り方】
【葛飾北斎は、瞬間記憶能力者】
「彼はね、面白い能力を持っていたの。・・・(中略)・・・。瞬間記憶能力って言えばいいのかしら? 瞬時にすべてを記憶することが出来たのよ。見たものを写真のように記憶することが出来た。・・・(中略)・・・。記憶の中にある写真を彼なりの感性で表現することを楽しんでいたわ」(p.39)
画家さんや漫画家さんの中には、このような能力を持っている方々は、けっこうたくさんいる。
【カメラのような視覚脳力】
《参照》 『ではまた、あの世で』大泉実成(洋泉社)
【水木さんの場合】
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