■■■■■■ 宝恵駕籠 ■■■■■■■
2008/01
2008/12
2009/01
2010/01
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【 えべっさん と ほえかご の昔 】
十日戎の宝恵駕(ほえかご)というのは、江戸時代に確立したようだ。
今宮戎神社自体の歴史は古い。
(今宮戎:中央手前の赤半被は赤井英和さん)
聖徳太子が今の天王寺駅近くにある「四天王寺」を建立した。
余談ながら四天王寺というのは、
仏法修行の道場 “敬田院”
薬を施す “施薬院”
病気を癒す “療病院”
身寄り無き者、老人を収容する “悲田院”
この四つで出来た寺だ。
四天王寺の西側の鎮護として建てられたのが今宮戎だ。
当時は今の場所にあったのかは私自身調べきっていなく申し訳ない。
なぜなら、恐らくその当時は今の今宮戎一帯は海の中にあったはずだからだ。
しかし、海の中に浮島のように建てられていたとすれば、もともと漁業の守り神「えべっさん」。
その名前のルーツがわかるような気がする。
大阪の古代は、今の大阪城(のとなりが古代の難波の宮跡地)から四天王寺あたりまでの小高い丘陵地のみであとは沼地だった。
大阪というところは、古代から四天王寺が中心となっていたようだ。
しかし、この四天王寺ほど、何かにつけて戦場の的になった寺院は、他に無いかもしれない。
なんとか綺麗に立て直されたのは関が原の戦があった1600年。
(ブルーの濃い所が高所となる。薄いところは昔は海か沼地だった)
しかし、これも「大阪冬の陣」で焼失してしまう。
その後徳川幕府が立て直したが、こんどはなんと雷で焼失。そのまま放置された。
たまりかねた町人が自費で立て直した。
しかし、昭和の最初に台風で五重塔が倒れ、戦時中の大阪大空襲で殆どが焼けた。
それでも、大阪商人やその他の協力で再興されたのが今の四天王寺。
この寺はこういう経緯があり、庶民が立て直した寺でもあるので、地元の愛着は深い。
大阪が街として活気が出てきたのは、室町時代以降になる。
低地は次第に埋め立てられて、商業が発達して行き、江戸時代には幕府や大名の米倉が建った。
江戸時代の半ばに、宝恵駕(ほえかご)が出るようになったらしい。
当時は芸者が盛り込んで「ホエカゴォ・・エーライヤッチャ・・ホエカゴォ・・エーライヤッチャ」
と騒がれていたが、現在では「ホエカゴォ・・・ホエカゴォ・・・」と、掛け声が変わっている。
最も盛んだったのは、明治後期から大正、昭和の戦前までだろう。
盛んにしたのは、前回ブログで紹介した「大和屋」。
もともと大和屋は明治初期に置屋(芸子を派遣する人材派遣業)として商売を始めた。
しばらくして、料亭を商うようになって、やがてミナミで最大の料亭になる。
宝恵駕(ほえかご)の時は芸妓(芸者、芸子)が数百人も集まった。
(ずらっと右に駕籠が並ぶ。後ろの建物は当時の「大和屋」:大和屋歳時より)
当時は、芸妓界(花柳界という)の催し物で、「おいらん道中」に近いものがあったと思う。
いや、今の人が「おいらん道中」を映画などで見知っているだけで、そんなレベルの行列ではない。
それに、目的は商売の神様への祈願と奉納だから、旦那衆が競い合って芸者を乗せて「散財」したという。
宝恵駕に乗る芸者は、旦那の代わりに乗っているのだ。
「散財」というのは、今の女将(おかみ)もよく言っていた言葉だ。
しかし、今の時代、いくら金持ちでも「散財」する人はいなくなった。
戦後は衰退して絶滅の危機にまでなったが、現在の女将が復興に力を注いで、除々に賑やかになってゆく。
復興の始めは、1料亭の営利目的などと言うものもあったらしいが、今の女将はそんなレベルで考える人ではない。
戦後は保存会が出来たが、芸子の数も減っていったので、福娘やスポーツ、芸能人、役者さんなどを乗せるようになった。
明日の【今の宝恵駕の情景】に続く。
2008年の今宮戎催し物
http://www.imamiya-ebisu.net/htm/top.html
2006年の宝恵駕(ほえかご)。
http://www.ebisubashi.or.jp/info/2006-0117.html
大和屋(季志三玄)
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宝恵駕5 (平成20年のほえかご)宝恵駕4 (10年前のほえかご)
宝恵駕3 (今のほえかごの情景)
宝恵駕2 (ほえかごの昔)
宝恵駕1 (ほえかご)
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