今日は、夫の67回めの月命日
いつものように、お墓参りのあと、夫の実家のご仏壇にお参りしてくる
12月には丸六年たつことになる。
夫の享年をこえてから、また大きな波がきたりした。
最後に話したのは、
夫「あ~。香港のあのワンタン麺が食べたいなぁ」
私「そうだね。お店の建築中がチャンスかもね。(2日前に、夫いわく『最後の店』の建築への地鎮祭をしたばかりだった) いいね。行こう♪行こう♪」
夫「あ、あとオーストラリアの星空も見たいなぁ。天の川キレイだったよね~」
私「じゃあ、それも。どっちもまた行こうって言ってたし、じゃあ時期をみて考えよっ♪」
夫「そうだね。また行くんだったね。やっぱり自分の考えた『また行けばいい』って名案でしょ!楽しみだ。あぁ、行きたいなぁ。。その前の色々、頑張ろう。。。じゃあ、先に寝るね。おやすみ。」
私「おやすみなさい」
その会話の数時間後、火事が起こるなんて、微塵も思わなかった。(まぁ、そうだよね。)
私は、リビングでうたた寝をしてしまった。
ふと、目が覚めると、ストーブの後ろに小さな炎が見えた。
寝起きの頭のまま、
「あの火の大きさなら消せるなぁ。雑巾?タオルのほうがいい?」と思いながら、リビングに接しているキッチンでタオルを水につけた。
が、そうしている間に炎は少しずつ大きくなっていた。
これは、タオルじゃ厳しい、
うーん。あ、毛布なら消せる!
そう思って、吹き抜けになってるリビングの階段を登った。
その瞬間、火がカーテンに燃え移りはじめていた。
なのに、私はまだ毛布で消すつもりで、毛布を抱えた。(寝ぼけてたかもしれないとはいえ、これが一番ダメな所だった。バカだ。)
あ、消す前に、一応、夫を起こしたほうがいいよね。
と、起こしたところで意識を失った。
そして、多分、私に起こされた夫が「火事だ~」「火事だ~」と叫んでいる所で一度意識が戻った。「あ、これで消す、、、」と言い立ちかけた所で再び意識を失った。
一酸化炭素中毒だった。
次に気が付いた時には病院だった。
母が泣いていた。訳がわからなかった。。。
ちょっとして、火事の事を思い出した。
近くに夫も運ばれているようだった。
私同様、病院のスタッフから声かけされていた。
夫のほうが、後に火事になってしまったことに気が付いたんだし、自分が生きているということは、当然夫は大丈夫だと思った。
そこで、意識が戻った私が気になったのは愛犬だった。
咄嗟にそばにいた母に犬は大丈夫なのか聞いた。義父が面倒をみていると聞いて安心して、また意識がとんだ。
次はICUのようだった。
義姉が来ていた。夜中なのに。遠いのに。
少し話した。
その時も、夫も同じような状態かと思っていた。
後で、母に聞いたら、私の一酸化炭素中毒は夫以上に重症で、意識が戻っても予断を許せない状態だったらしい。
それから、私はその夜が空けて日が変わり、母がまた来た時に、貴重品が盗まれてはいけないから、親族みんなで家を片付けること、貴重品の置き場を聞かれた。その頃は、仕事はしていたけど、うつの状態はよくなかったので、恥ずかしながら家は荒れていた。
思わず、母に「ごめんなさい。家はぐちゃぐちゃです。またメンツ潰してごめん。」と謝った。
ICUでもちょっと脇の方に移動して、でも、区切られてて、夫の状態はわからないままだった。
管がいっぱいで身動きはとれない。
両親も義父母も義姉も、夫も大丈夫だ、としか言わなかった。
お医者さんと看護師さんからは、一酸化炭素中毒の状態から考えると、しばらくはICUにいないといけないこと、ICUを出ても、暫くは(1~2カ月?)入院が必要なことを聞いた。
最悪、二人とも状況によっては、酸素ボンベを常に着けて生活することになるかもしれないことも聞いた。
それでも、命が助かったことに感謝した。
てはいえ、夫(社長)と私しか把握していないお金に関わる仕事のことを思い出し、それをどうまわすか考えていた。
1~2週間はICUと言われていたので、とにかく会社を回さなくてはいけなかった。
以前、会社にいた義姉から、当面の仕事で必要なことを書き出せるか聞かれた。
そんな中、1~2週間は、と言われていたICUから一般病棟に移ることになった。2,3日しかたってなかったと思う。
管だらけだし、まだ絶対安静絶飲食状態だったので、車椅子での移動だった。
そこで、はじめて看護師さんが「旦那さんに会ってから行きますか?」って聞いてくれた。
もちろん、会った。
目にした夫は、私の数倍、管だらけで、手も拘束されていた。
病院の方から、麻酔がさめると気管挿菅して人工呼吸している管を抜こうとしてしまうので、ご容赦ください、と言われた。
恐る恐る声をかけてみた。
何か言いたそうだった。
のに、何か訴えてたのに、聞き取れなかった。
いつも、いっぱいしゃべっているのに。
寝言でも聞き取って、なんなら返事しちゃうのに。
。。。わからなかった。
看護師さんが、どうもご自分の状態がわからないようなんです、って言った。
それを聞いて、「苦しいと思うけど、今は病院の先生の言うこと聞いて。私は一般病棟に移れるくらいには回復したよ。待ってるよ。」って言って、看護師さんたちもみてるし、その場を去った。
そこから、会社のことで、必要なことから手順とともに、仕事を主要メンバーにお願いし、その後の指示も、わかりやすいようにどんどん書いた。
ベッドから離れられないまま、思い付く限りの仕事のお願いを書き出していた。
夫の役割の部分、私の役割の部分。。。
ひととおり書いた時、
ふと、最後に夫に会った時の事を思い出した。
ひょっとして、私が夫が無事と思った次に犬のことが気になったように、夫は犬の事を聞きたかったんじゃないか、と思った。
でも、まだ自力移動できなかった。
必死に念を飛ばそうとしていた。
そして、まだまだ大分先のはずだった移動が許された。点滴やら何やらいっぱいつけたままだけど、面会にいけることになった。
会いにいった時、夫は鎮静剤で眠らされていた。
犬は大丈夫、私の実家で面倒みてくれてると、寝ている夫に話しかけてみた。
薬のせいか反応はほとんどない。。。
そうこうしていたら、急に私だけ退院できることになった。
会社のことを考えると、助かった。
結局、私の入院は1週間だけだった。
ただ、お医者さんからは、しばらく決して無理してはいけないこと、車の運転もダメなことなど、色々な注意をされた。
そこから、朝 会社に送ってもらい仕事して、帰りに面会して早めに帰る日が続いた。
ふと、普段、夫が
「自分はもう人の何倍も頑張って働いた。長生きはしたくない。いつ死んでもいい。」
「自分にもしものことがあったら、葬式は家族だけにしてほしい。社員のみんなとか無理して参加させなくていい。」
と言っていたことを思い出した。
まさか、夫があの時、言いたかったのは、
「もう、楽にしてほしい」
だったのかも。。。。。
そんなことが浮かんだ自分を責めた。
何てこと考えてんだ。
生きてもらわなくちゃ。
そこから、面会のたびに
「しんどかったら会社畳んでもいい」
「好きなことだけして過ごしたらいい」
だから、「お願い、生きて」
心から願った。
そして、その数日後、夜中に電話がなった。
病院に集まるよういわれた。
お医者さんから、もう限界だと言われた。
うそ。
命は少なくとも助かります、って言ったのに。
そこから何度めかの現状の説明があった。
夫はもう、機械に生かされているだけ、人工肺も、もう限界が近づいている、と。
もう、無理は言えなかった。
装置の限界とともにスイッチか切られ、そこから少しして、夫は息を引き取った。。。
12月22日、もうすぐ日が変わる頃だった。
夫の誕生日まであと1週間だった。
お別れの時間をもらっても、その後、別室で葬儀会社を決めて、遺体を家に連れて帰るまでの時間も、全然実感が湧かなかった。
夢であってほしい、と思った。