日記をつけて何になる? | ふーちゃんのブログ

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ご訪問ありがとうございます。
私のブログは、離れて暮らす子どもたちと孫たちに向けて書いています。

こんばんわひらめき

 

 

朝から暑くなりましたね。

さすがに畑に出る元気はなかったですガーン

ツバメのために何度も打ち水しました。

午後から楽アートスクールに参加しました。

子どもたちは暑さにも負けず元気でしたが、

わたしたちはよれっとしてました。

熱中症には気をつけましょうね。

 

 

 

青い葉っぱの茂る木と白い柵

 

 

 

 

のつづきです。

 

 

 

日記を読む

ベル他者の日記の魅力

日記はあらかじめ読者が想定されていない。

それでも他者の日記を読みたいと感じるのは、

「同じ時間を、違う人がどう過ごしたか」を知れるだけでなく、

「完璧ではない人間」が登場する等身大の記録だからかもしれない。

 

 

ちょっとしたことが描かれる小説もあるが、

それはあくまで「物語のために選ばれた日常」だ。

日記には、無意味かもしれないけれど

「記録のために選ばれた日常」が書き留められている。

記憶を頼りに、偶然に任せているのである。

それに、小説は区切りとしての結末があって初めて完成するが、

日記は書き手が死ぬまで続けうるのであり、

結末が訪れることはない。

しかも、小説は「読む価値のある体験を提供する」ことが

暗に期待されるけれど、

日記は文体も展開も保証されず、

ただ「未来に連れていかれる」だけである。

 

 

「誰かの日記を読むということは、

誰かの生活のリズムに自分の呼吸を合わせにいくこと」なのだ。

朝型の人、思いついた鮮度を大事に書くタイプなど

いろんな人がいて、

しかも日ごとに一貫した文体になるわけでもない。

そのすべてを理解しようとするのではなく、

予測不可能なリズムを感じ取ることに慣れてくると、

日記特有の読書体験につながるだろう。

 

 

他者の日記を読んでいると、

ドキッとしたりうっかり傷ついたりしてしまうこともある。

その日会った友人の日記に「疲れた。しばらく誰とも会いたくない」

と書かれていたら、

自分が原因で疲れたのかと不安になったりする。

そこに登場する「私」や「あなた」は「客観的な事実」

ではない一方で、

自分には見えていない一面も反映されているかもしれない。

 

 

だからこそ、「書いてあること以外のことを受け取らない」

という姿勢は大切だ。

実生活でも、誰かのプライベートな話題に対しては、

同じような倫理的配慮をするだろう。

背景を詮索するのは適切ではないし、

仮にそれを重ねたところで、

誰かの価値観や感情、選択をすべて理解することはできない。

「書き手が記録として残した範囲の情報」を素直に読んでいけば、

自分の感情が揺さぶられることもない。

 

 

戦争や震災、コロナ禍のような

社会的な変動のもとで書かれた日記からは、

時代の空気をも感じることができる。

「他者の日記を読むことは、

自分の世界との『接点』を増やすこと」なのだ。

「人間は基本的に、ひとりぼっちの生き物」だけれど、

誰かの日記からは「違う環境で生きている人の視点」

を発見できる。

そこには誰かが生きていたという実感があり、

世界の多様性や奥行きが

「自分の暮らしと地続きに感じられる」はずである。

共感に発見を調和させることが、

誰かの日記を読むことの醍醐味なのだ。

 

 

 

 

白い手すりと緑の植物

 

 

 

日記がつづかない

ベルやめることはデトックス

いつのまにか日記を書かなくなり、

空白期間が長くなるほど再開のめどが立たなくなる。

「中断と再会をくり返すこと」に日記の本質があるかもしれないけれど、

一時的な中断とやめることとの境界はあいまいだ。

ひとまず、再開の気配がなさそうな状態になってみると、

「自分が何を残そうとしていたのかが見えてくること」がある。

 

 

「今日も生きた」という証明なのか、

過ぎ去る時間の保存なのか、

将来の自分への手紙なのか、

はたまた誰かに届いてほしい物語なのか。

日記をやめてみると、

激情を吐き出すことではなく、

何かを想起する過程が大事だったのだと気づいたりする。

あるいは、日記をつけ続けることで、

「意外と真面目な自分」「成長したい自分」などのキャラクター、

自己イメージを演じていたのだと振り返ったりする。

日記のなかの自分は、

社会で求められる姿から解放されているつもりで、

「こういう視点を持つ自分でいたい」という願望が現れることもある。

 

 

日記を書き続けようとすると、

義務感や期待などが膨らみ、完璧主義や目的の変化、

自己検閲といったものが入り込んで重荷となることもある。

そうして続かなくなる。

やめることは、それらのデトックスにもなる。

途中でやめることは意志の弱さのあらわれというより、

ひとつの選択なのだ。

生活や状況の変化に合わせて必要なものも変わっていく。

「中断」の選択をして、再開することがなかったとしても、

手元には多くのものが残されている。

そう考えれば、「やめる」という言葉に宿るネガティブさも和らぐはずだ。

 

 

日記をつけた経験や時間は人生の中に生き続ける。

完全に消去しなければ、

「日記をつけていた時期の自分の痕跡として、この世界にあり続ける」。

長い中断をはさんで、また書きたくなったときは、

「つづけなければいけない」という呪いから解き放たれ、

書きたいときにだけ書けるようになるかもしれない。

日記を辞めることは、日記との関係をリセットすると同時に、

新しいつき合いをスタートさせる。

それは、「ささやかな希望であり、偶然もたらされる奇跡のようなもの」

なのだ。

 

 

 

 

ツバメの卵の殻

 

 

 

この世界に自分の日記が在り続けるのがいやで、

義母は認知症を発症したころ

ダンボール箱につまった日記帳、

70代からはパソコンで書き溜めしてプリントアウトしていた日記を

全部焼却しました。

 

潔さに感服したのを思い出しました。

わたしもブログは遺せても、

手書きのものは焼却するだろうと思います。

 

 

 

では、また明日^^

 

 

 

 

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