こんばんわ![]()
おととい、ツバメのヒナのうちの1羽が巣から落ちました。
暑い上に巣の中でヒナ同士がくっついているものですから、
そりゃあ暑いよなー。
つっついてみると生きているので、
人の手を加えないでおこうと心配だけど畑に出ました。
帰ってきたら親鳥が巣に戻してました![]()
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素手で触って人間の匂いがついたら、
親鳥が見捨てると聞いていたのですが・・・。
そしてまた昨日、また落ちてました。
今度は親鳥が寄り添って地面にいます。
わたしを見て「さわるな
」と威嚇します。
スキを見てヒナを手袋をはめてつまみあげ、
「この辺でどない?」と駐車場の隅に置きました。
・・・今日も元気に生きていました。
近所のおばちゃま(86歳)は
お箸で虫を口に運んで育てたと言ってたのですが、
わたしは余計なことはしません。
隠れて見てたら親鳥がエサを運んでいます。
飛べるようになるまでにまだ一週間はかかると思います。
35℃超えの連続予報・・・。
どうしましょ![]()
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蟹の親子著、ー2026年4月発行ー。
ダイアリスト(日記作家)を自認し、
日記の専門店を運営している著者であっても、
日記をつける「やりがい」はよくわからないという。
しかしそこにはある種の「手応え」がある。
「これからも生きてみよう」という小さな意思が。
・・・・・・・著者は問う。
「日記をつけて、いったい何になるというのか」と。
日記ブームとは
日記ブームと日記本ブーム
日記を読むことは他者への解像度を上げるし、
いままでの自分の価値観を問い直すきっかけとなることもある。
ただ、とても手軽に綴れるものだからこそ、
ほとんどの日記は他者にとって
「一見どう読めばいいか、わからないもの」になるだろう。
それでも、日常的な些事を記録したり、
読んだりしたいと思うのはなぜか。
ここ最近は、そうして日記をつけている人の姿が目につくようになり、
「日記ブーム」と名指しされている。
日記ブームには、次の3つの営みが一緒くたになっているという。
①日記をつけ始めること。
②自分のつけている/つけていた日記を公開すること。
③自分のつけている/つけていた日記を、
日記本にまとめて販売すること。
④誰かの日記を読んだり、誰かがまとめた日記本を買ったりすること。
➄日記について、各々が考えていることを話し合うこと。
⑥日記をつけるのをやめること。
このうち③と④は〈日記本ブーム〉であり、
〈日記ブーム〉とは質的に異なっている。
また、人にはそれぞれの日記観があるため、
➄は日記への想いの違いを語る行為自体を、
「日記という形式を通じた創造性のある営み」と捉えたものだ。
そして、⑥のように「つづかないこと」や
それへの対処が語られることも重要なコンテンツとなっている。
〈日記ブーム〉のなかでは、
うまく書けないという「どう書くか」の悩みと、
想いが溢れすぎて「どこまで書くか」がわからなくなる悩みの
2つのベクトルがある。
そして王道は「つづかない」悩みだ。
〈日記本ブーム〉では、
「目の前の1冊が自分の求めている日記本なのかどうか、
判断がつかない」という悩みを抱えがちだ。
自分の境遇に近い人の日記を探そうとしても、
商業出版に乗ることの少ない「普通の人」の日記から
しっくりくるものを見つけるのは、なかなか難しい。
そして、他者の日記に触れることによる罪悪感や親密感から、
他人である自分がこれを読んでいいのかという気持ちに
つながるというのも、独特なものである。
この本では、こうしたお悩みに対して
具体的にどうアプローチしたらいいかを考えていく。
日記をつける
何を書けばいいのか
書き出しをどうするか悩む前に、
「今日の日付」を書くことはできるはずだ。
日付とは、「『これまで生きてきた時間』と
『これから生きていくであろう時間』を『今日』という単位で区切る」
ための印となる。
その日付から、「今日」過ごした時間を振り返る。
だからこそ、日付を書くという行為によって、
「日記をつけることの第一歩は完了している」ことになるのだ。
ここからいよいよ「何をどこから書けばいいのか」を考える。
今日会った人、聞いた音楽、腹が立ったこと、
「何をどこから書いてもいい」。
思いついた順でも、時系列に沿ってでも、
ひとつだけピックアップしてもよい。
「コンビニでツナマヨおにぎりを買った」と書けば、
あとで読み返したとき、
シャケおにぎり一択のいまの自分と比べたりできる。
どうしても書く内容に迷ったら、
今日という日に「一番印象に残ったこと」
「一番おいしかったもの」「一番きれいだったもの」
を思い浮かべてみよう。
それが日記の素材になる。
次の問題は、「どのくらいの長さで書けばいいか」である。
これについても、忙しかった日は一行だけ、
毎日決まって三行、
たっぷり時間があれば三万字くらい書いてもいい。
箇条書きで断片を残すやり方を採用するのもありだ。
型を決め込んで臨むより、「『心地よさ』を感じるスタイル」
を見つけるほうが大切である。
書きたいことが次々浮かんで止まらなくなったときは、
疲れたから、時間が来たからなど、
「今日はこれで」と感じたところで終えていい。
また別の日に続きを書きたくなることもあるだろう。
だらだらとスマホを見ているだけで「何もなかった」
と感じる日であっても、
本当に何もない日は案外ないものだ。
窓の外のうろこ雲、シュール過ぎて笑えた動画・・・・・
些細に思えてもあなただけの体験である。
「『何もない感じ』を日記に書きつけていく」こと自体も
おもしろいかもしれない。
そうして日記をつけていると、
ちょっとした出来事、気持ち、出会いの積み重ねで
日常が出来上がっていることに気づくだろう。
日記を続けることで、たわいない日々自体に愛着を抱けるようになる。
そうするといつしか、自分のために書いていた日記が
「誰かと共有したいものに変わる」ことがある。
その変化のなかに、〈日記ブーム〉の本質が隠れているかもしれない。
日記を公開するということ
出先での何気ない風景をSNSにアップするのは、
称賛や共感が欲しいというより、
誰かに届いたことをたしかめたいからかもしれない。
自分だけで抱えていた気持ちを誰かに聞いてもらうと、
安心感や喜びにつながったりもする。
「日記を通して、自分という存在を認めてもらいたい」
という承認欲求は、いたって自然な感情なのだ。
日記の公開にあたっては、
「どこまで見せるか」がまず悩みとなる。
「すべてを赤裸々に見せる必要はない」し、
「日記を書いている」と誰かに話したり、
気に入った数行だけを友だちに見せたりするだけでもいいだろう。
それでも、「誰かに見せなければもったいない」といった、
焦りに似た感情が湧くこともある。
そうして公開したのに反応がなければ落ち込むし、
もっとおもしろくしなくてはとプレッシャーに感じる。
他人軸になってしまったら本末転倒だ。
「日記を誰かに認めてもらうための手段にしてしまっていないか」
と問いつつ、
バランスを見極めていくことも、
日記を公開するプロセスの1つと言えるだろう。
日記は内面や私的なことを綴るものだという価値観は、
近代以降に広まったという。
そうした個人プライバシーが内包されながら、
「公開する/される可能性」も含まれている。
リアルタイムで発信できる現代では、
「『何をプライベートにして、何を公開するか』という選択肢も
多様化している」だろう。
感情的なこと、具体的な人間関係、つらかった出来事は
非公開にするという人はいるし、
その選択に正解があるわけでもない。
日記に、「書かれた人」の一緒に公開されることになるため、
「あんまり書かないでほしい」と言われることもある。
書いていることが原因で関係がこじれる可能性も否定できない。
記録しておきたいことなのであれば、
しっかり話をして、わだかまりを解消しながら進める必要がある。
途中で公開/非公開を切り替えてもいい。
「自分の生活や考えを、どの程度まで他者と共有するのか」
の塩梅を探っていこう。
つづく・・・。
これはコウモリ🦇
わたしの場合、日々のブログが忘備録を兼ねた日記代わりです。
本当にプライベートなことは手帳に3行日記として書いています。
「書いてどうするよ」と言われればそれまでですが、
去年の今頃は?とか5年前は?とか10年前は?
とか比べながら思い出して幸せを探しています。
他の人の日記を読むことは、
自分とその人の世界との接点を増やすことにつながります。
「これからも生きてみよう」と思えることはうれしいです。
では、また明日^^


