自由より自在になる | ふーちゃんのブログ

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私のブログは、離れて暮らす子どもたちと孫たちに向けて書いています。

こんばんわニコニコ

 

 

 

梅雨の晴れ間にしかできない農作業の音が

早朝より心地よく響く一日を過ごしました。

わたしも負けじと側溝の中に生えた

背丈を超えたセイタカアワダチソウと格闘しました。

 

仕事でアメリカのシリコンバレーに行っていた姪一家が帰国しました。

3年のはずですが1年半で。

二度とアメリカには行きたくないそうです。

何があったか会ってから聞くことにしています。

母は生きてるうちに会えないと嘆いていたので喜びます。

 

 

 

 

ツルが伸びる緑の葉と石垣

 

 

 

内田樹、近内悠太著、ー2026年3月発行ー。

 

 

 

思想家・武道家の内田樹と、

教育者・哲学研究者の近内悠太の対談を収録した本。

思想や哲学の話題も出てくるが、

難しい言葉はほとんど使われず、

嚙み砕いた説明や具体的な例が多く用いられるため、

前提知識がなくても気軽に読み進められる。

 

 

 

「自在」に生きるために

ベル居着きを去って自在を得る

人間が愉快な状況にあるときには、

恐怖や怒りにとらわれることなく、

余裕を持てるため、間違ったことはしないのではないか。

では、「愉快に生きていくための作法」とはどのようなものなのだろうか。

 

 

現代では、すぐにイエスかノーか、

二者択一を迫られるが、簡単に答えられない問いのほうが多い。

「中腰」での未決定の状態に耐え、

時間が解決するのを待つための精神力と体力、

すなわち「知的な肺活量」を持つことが必要だ。

 

 

物書き兼武道家として活動する内田は、

「居着きを去って自在を得る」ことを修行の目的としているという。

武道では、自分がくぎ付けにされている状態、

「足裏が地面に貼りついて身動きができない状態」のことを

「居着き」と呼ぶ。

これは、「次に何をするかが決まっていて、選択の余地がない状態」

のことでもある。

立ち合いで、相手の出方を待って反撃しようとすることや、

「何とかして相手に勝とうと思う」ことなどを指す。

しかしそうして居着くことで、

かえって後手に回り、必ず負けてしまう。

相手や勝ち、技に居着かず、反対に「自在」の境地に入って、

 

 

「いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなす」。

 

 

 

それが、武道の修行で目指されることだ。

 

 

どこが「いるべきところ」で、

何が「なすべき所作」なのかをわかるようになる方法とは、

「ノイズができるだけしない動きをする」ことだ。

これは、「多くの人がふだん何気なくやっていること」であり、

それほど難しいことではない。

人は、不自然な動きをしていると、

「イヤな感じがする」

「息が浅くなる」

といった感覚的なノイズを感じ取る。

あるタイミング、場所、所作によっては濁りが消えて、

心身が透明になったように感じることもある。

私たちは道を歩くときなど、いつも無意識にそれをやっているはずだ。

 

 

「敵」とは、「私の自由を損ない、可動域を制約するもの」

と定義できる。

「壁」も動きを制約するが、

だからといって壁を敵としてぶち破る必要はない。

ドアを開けたり、外から隣の部屋に回ったりすればよく、

それこそが「自在」ということだ。

 

 

昔は、子どもたちが鬼ごっこやかくれんぼのような遊びを通して、

殺気や邪気を感じ取るという、

生存に必要な能力を会得していたはずだ。

遊びのなかでの同調、模倣は、

生き延びるための社会的訓練になるのである。

 

 

 

ベル「自由」ではなく「自在」に

今の世の中は、「自由主義にドライブがかかった『過激な自由主義』だ。

自由主義が限りある資源を奪い合う競争であるのに対して、

権力者の権力行使を抑えて、

富裕な人の懐から社会的弱者に分配するのが平等だ。

平等は、強い政治権力で自由を抑制するため、

自由との食い合わせが悪い。

自由を強調しすぎると苛烈な競争社会、

格差社会になり、平等を強調しすぎると社会は停滞してしまうため、

どちらかを優先させるのではなく、

むしろ相互に補完し合うようなほどほどのさじ加減が重要だ。

 

 

そこで自由と平等を調整するのが「友愛」の原理である。

友愛も強調しすぎると「身内ファースト」主義に陥ってしまうが、

自由と平等と友愛をちょうどよく混ぜ合わせれば、

原理主義の毒が少ない社会をつくることはできるだろう。

 

 

自由には、まず自由を求める主体があり、

「オレがどういうふうに生きるか」が問題となる。

だがこれは武道の「居着き」と同様であり、我執である。

これに対置されるのが、固定的な主体がない「自在」だ。

与えられた場所で、「『場の理』に従って生きること」

ができている状態を「自在を得た」と表現する。

 

 

自在は、「鳴っている音やビートに乗る」ように、

導きの糸に抵抗することなく、

上手く引っ張られる感覚ではなかろうか。

一方で自由は、

自分勝手になることで他者の自由とバッティングしてしまうことも多い。

 

 

また「自由であれ」という言葉は「自由でなければならない」

という規範性も持ってしまう。

「自分がやりたいことをやりたい」が

「自分のやりたいことをやらなければならない」に変ってしまうと、

自由にがんじがらめにされてしまう。

縁起に導かれるように、自分の外にある力を拒むことなく乗っかる。

自在とは、リアルタイムで自覚せず、終わった後に

「今日はだいぶ自在だったなあ」と振り返るようなものだろう。

 

 

その場の気の流れに従って動くためには、

眼に見えないし聞くこともできない気の流れに対し、

浅い瞑想状態に入って潜在意識に身を任せることが必要だ。

それはなかなか難しく、修行とはそのためにあるようなものである。

自己を「固定的で変化しないもの」ではなく、

「可変的で移ろってゆくもの」とみなすことが自在ではないか。

私たちは本当は、自由ではなく自在になりたいのかもしれない。

 

 

 

つづく・・・。

 

 

 

 

カボチャの赤ちゃんが育つ緑の葉

 

 

 

 

「いるべきときに、

いるべきところにいて、

なすべきことをなす」

という自在の状態を目指したいと思います。

 

 

 

では、また明日^^

 

 

 

 

 

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