こんばんわ
義母の月命日なので、山に花枝を切りに入る道すがら
イチジクがたわわに実をつけていました。
残念ながらお隣の敷地です
でもお墓に上ると、
ポポーが鈴生りといっていいほどの実をつけていました。
サクランボと一緒で2本植えないと実がならない、
と聞いていましたが違いました。
植えてから10年以上たった今年の春、
始めて花がわんさか咲いているのを見てましたが、
実がなるとは感激です
のつづきです。
「同期」と「我を捨てる」ための修行
他者と「同期」すること
「身体は同期する」とはどういうことだろうか。
思いがけず、発話のタイミングや内容が揃ったり、
所作が一致したりする現象が身体的同期だ。
他者と同期することは、単純に心地よく、
「生命力が上がる感覚」がある。
レストランで、些細なシグナルでも受け取ってすぐに
アイコンタクトしてくれるような、
感度が高い接客を受けると、相手に届くという安心感がある。
「共感」とは、頭で認識するものではなく、
このような「身体的同期によって示される」ものではないだろうか。
生物は、集団で動いた方が生存確率を高められるため、
他の個体と「同期したい」という本能的志向を持っている。
この「同期志向」を身体技法の体系にしたのが合気道だ。
二人の人間の一方が同期を誘発させて「場を主宰する」。
他方は誘発されて同期的な動きをするが、
それは相手に従属するわけでも、
強制されているわけでもなく、
「自発的に『そういう動きがしたくなる』状態に導かれる」ことだ。
馬の群れでは、ある一頭が「危険なもの」のノイズを感知して
直感的に「ノイズが少ない方向」に向けて走り出すと、
他の馬も同期して一斉に、一糸乱れず走っていく。
合気道でも、一方が「よりノイズが少ない方向」に向けて動き出すと、
他方は同期してしまう。
「場を主宰する」ためには、
どのように動けばノイズが少なくなるのかについて、
精密に感知する感覚を研ぎ澄ませる必要がある。
馬術で人馬一体の境地へと至ることにも、
弓道の「矢が的に引き寄せられる」感覚と同様で、
武道的な身体的同期が見られる。
身体的同期とは、「自分探しの真逆」の概念だ。
自我が溶けてどこまでも広大に広がることで、
時間や空間の感覚が変わり、我執を去ることができる。
これは、西洋近代的なエゴとはまったく違う人間観だ。
我執とは「我に居着く」ことだ。
我に居着くことで世界は自我を中心に編成、解釈され、
そこに生まれた敵に勝つというスキームへと転換される。
それでは自在を得ることはできない。
欧米では、武道は自分が強くなる達成感を得るために
稽古するものとして受け取られがちだが、
稽古とは「『我を捨てる』という境地に至るための修行」だ。
西欧哲学ではある時点から、
ポスト・モダニズムであれば自分がどれくらい
「脱-構築できているか」、
ポストコロニアリズムであればどれだけ植民地主義を
徹底的に批判できているかといった優劣が競われるようになった。
ものごとの相対性や主体の権力性を批判しているはずなのに、
いつの間にか相対性や自我を強化するようになってしまう。
自我を捨て、我執を去るというのは、
自分の身体の輪郭が溶けて「境界線がなくなる」ような感覚であり、
それが西洋近代的な人たちのなかで腹落ちしないのかもしれない。
教育でも、教師が子どもたちを管理するのではなく、
子どもたちの受信感度を上げられる先生が場を主宰できれば、
クラス全員が一斉に身を乗り出して笑うというような同期を
生み出せるはずだ。
学びとは「自学自習」であり、
教師の仕事は、
「子どもたちの『学びが起動する』ように支援すること」だ。
学びが起動すれば、子どもたちはスポンジが水を吸うように
学び始めるので、
教師は子どもの首に縄をつけて引っ張る必要はない。
生徒全員ではなく、クラスの5人くらいでも身体的に同期でき、
目をキラキラさせて学びが起動する瞬間があれば、
その雰囲気は教室に伝播するものだ。
学校教育を管理的なものにせず、
「我執を去って自在を得る」
ような修行要素を取り戻す必要があるだろう。
イノシシが掘り返した跡
贈与のレッスン
知性や成熟という言葉を一言で統合するなら、
「贈与」という概念になるだろう。
贈与とは、「自身の所有物を見返りを期待せず他者に譲り渡す、
分け与えるという行為」である。
もし宇宙人が地球上の生物を観察したら、
自分を犠牲にしてまで他の個体を援助しようとする奇妙な種が
1つだけあったと報告するはずだ。
手に入れたものに対し「これは俺のものだ」とするのは幼稚な行いだ。
「たまたま、私のもとへ届けられたにすぎない。
これを必要とするの他の者へ届けなければならない」
と感じられる者が、成熟した者だといえる。
贈り物をもらったら、
「お返し」という反対給付義務が生じる。
しかし、すでに亡くなった人からの贈り物の場合、
直接お返しすることはできない。
とはいえ、「贈与されたものは退蔵してはいけない」。
だから、反対給付義務を果たす相手は、
贈与者本人ではなく、「次の人」ということになる。
贈与はただの持ち出しではなく、
相手から「ありがとう」と言ってもらえることで
自己肯定感を高めてくれる行為でもある。
贈与はパブリックドメインに近い。
受け取ったものを誰かに流す際、
自分のクレジットをつけてオリジナリティを誇示するのではなく、
伝道者として、先人から送られた知識や技術、哲学、倫理を
「他の人たちに『パス』する」ことが適している。
贈与を阻むのは、無時間的な「管理」である。
市場経済の中で、即時的に商品やサービスが手元に届く
「無時間モデル」が進んでいるが、
それは、生成し変化し続ける生物のあり方に反する。
贈与とは遅れてやってくるし、
相手にも遅れて届くという、「きわめて時間的な現象」だ。
人と人との関わりを時間的に捉えれば、
交換ではなく贈与という構造になるはずである。
贈与のレッスン、修行を積むことによって、
現代を生きる私たちは息を吹き返せるだろう。
ヒメコウゾ
自分が釘付けになって動けない状態である「居着き」をなくし、
「自在」に動けるようになること。
我執を捨てて他者と「同期」することで「場を主宰する」こと。
修業とは自分を強くするためではなく、
我を捨てる境地に至るために行うこと。
新しい知識にたくさん驚きました。
では、また明日^^

