こんばんわ![]()
梅雨だけど雨が降りません。
なので早朝より今朝も水やりをしました。
三日ほど前からレモンマートルの花が咲き始めました。
月下美人の花と同じくらいのいい香りです。
お昼には小学校の読み聞かせに。
坂道を上がるのに30度越えになりましたから、
よろめきました![]()
体育の授業でプールで泳いでる子どもたちが
さすがにうらやましかったです。
『血肉となる読書』斎藤幸平、小川公代、安田登、秋満吉彦著
ー2026年5月発行ー。
瞬時に、どこでも、様々なコンテンツに触れ、
情報を得られる時代に、読書をするとはどういう行いなのか。
書籍とはいわばスローなメディアと言える。
1ページずつめくりながら、書いてある言葉を咀嚼してよく。
その行いが深くなればなるほど、自分の人生の「血肉」となる。
この本のナビゲーターで、
NHK「100分de名著」プロデューサーの秋満氏は、
この血肉化のとっかかりとして、
本を『自分に向けて書かれた手紙だと思って読む』ことを
心がけているという。
悪夢の読書
社会の呪縛と言葉
この本は、NHKの番組の「100分で名著」の指南役を
務めたことのある人たちが、
「それぞれの立場から本を人生に役立てる読み方」を
教えてくれるものである。
「ケア」の視点を取り入れた文学研究に取り組む英文学者、
小川公代さんにとって、
読書は悪夢とつながっているという。
本を読めば夢に怪物が現れ、うなされる。
その怪物、悪夢と対話することが読書論とつながっている。
小川さんが研究対象としてきたのは、
女性や障がい者、同性愛者といった、
日常的に声が埋もれたままになりがちな人の叫びを読み取れる、
ゴシック小説である。
その代表格は、メアリ・シェリーが書いた『フランケンシュタイン』だ。
彼女の母親は最初期のフェミニズム本である『女性の権利の擁護』
を著したメアリ・ウルストンクラフトであり、
2人とも、厳格な家父長制のもと、
女性としての生きづらさを抱え、
それをゴシック小説というかたちに結実させていた。
男性教員や顧問から暴力や厳しい指導を受けた経験が
トラウマとなっていた小川さんも、
若いときから女性としての葛藤や生きづらさを感じ、
広い世界を希求してイギリスに留学した。
そこで、「自分の頭で考える」ことの大切さを学び、
大学では大いに知的刺激を受けた。
しかし、「女性である限り日の目を見るなんてできない」
という不安が、胸の奥にこびりついて離れなかった。
「私も外で働けるなら働きたかった」
とつぶやきつづけた専業主婦の母親のようにはなりたくないと
思っていたけれど、
どれだけ自己実現に邁進しても、
「母と同じような人生を歩んでしまうんじゃないか」
という悲観から逃れられない。
性別役割分業が当然視される家父長制の色が濃い日本社会で、
その価値観が女性、ひいては自身にも内面化されてしまう。
それは「恐怖に近い感覚」であった。
そうして、悪夢に襲われるようになる。
ウルストンクラフトとその夫ウィリアム・ゴドウィン、
娘のメアリ・シェリーについての博士論文にとりかかっていたときで、
『フランケンシュタイン』に出てくるクリーチャーのような怪物が
無言で迫ってくる。
博士論文に自分の言葉で向き合う覚悟を決めたら、
怪物も出現しなくなったが、
就職氷河期のさなか、研究者として就職できないかもしれないと
悩みだした途端、また悪夢を見るようになった。
すでに社会人となって十分な収入を得ていた夫から、
「必死にやらなくても生活はできるんじゃないか」
などと何度も言われ、
そうかもしれないなと流されそうになっても、
夢のなかで背筋の凍る体験をすると、
「やっぱりそれじゃダメだ」と思い直す。
怪物はいつしか、
自身の甘えや迷いを叱咤する「バディ的存在」となっていた。
「おまえには、書き手になって女性の声を社会に届けるという
夢があるはずだろう」。
そうした無意識的な願いへと激励してくれているかのようだった。
本を人生のガイドとすること
悪夢は自身の無意識から届けられた「手紙」なのである。
「博士論文を書くこと」「研究者になること」、
すなわち「抑えきれないほどの探求心が向かう先にこそ、
自分の将来を照らし出す思想がある」ということだったのだ。
名著は「無意識下にある怪物と向き合うためのガイドブック」
になるのかもしれない。
子どもの頃から本を読む生活を送っていなければ、
まったく違う人生になったかもしれない。
そのひとつの例が、大学院生のときに結婚を選んだことだった。
フェミニズムの先駆者とされるウルストンクラフトは
ウィリアム・ゴドウィンとともに、
女性には不利益なことだらけの結婚制度に対して否定的だった。
しかし、メアリ・シェリーという娘を身ごもったことで、
子どもが私生児として不利益にされるくらいならと、
妥協して結婚した。
ウルストンクラフトのこの選択を理解できるようになったのは、
アメリカの心理学者であるギリカンの『もうひとつの声で』という本で、
ケアの倫理に出会ったからだ。
普遍的な規則やルールを重んじる正義の倫理ではなく、
「人間の個別具体的なあり方を重視し、
自己と他者との関係性の中で考えた、葛藤し続ける倫理」を指す。
ウルストンクラフトにとって結婚制度の拒否は個人の権利の主張であった。
それが妊娠をとおして、
将来的な子どもの困難に目が向くようになったのである。
「私はこう生きたい」という理想は、
人との関係性のなかで、プラグマティックな部分とぶつかるものだ。
そのときに妥協や他者との対話を選択する考え方が、
ケアの倫理なのである。
それが、結婚に踏み切る際の支えになったのだ。
結婚や出産の選択に何か「正しさ」があるわけではない。
現実を踏まえた選択のなかで、
予想もしていなかったようなことに巻き込まれてしまう。
「それが『生きる』ということなのだ」というメッセージを、
『もうひとつの声で』から受け取った。
それと同時に、男性と肩を並べた自立的自己モデルに沿う生き方を、
抜本的に覆される感覚にも陥った。
アダム・スミスの『国富論』」では、
「個人が私的な利益を追求することが、
結局は社会全体の幸福につながる」ことが説かれている。
しかしそこでは、家庭外の労働ではなく家庭内のケアに携わっている人、
すなわち女性の権利や存在が想定されていない。
知の巨人とされる人でも、
「実は世の中の特権を持った人たちの権利しか見ていなかった」。
それに気づいたとき、
本を「血肉」とするために批判的に読むことの本質をつかめたのだ。
ネガティブ・ケイパビリティと読書
文学、物語には、家庭をはじめとした私的領域での、
生活者としての感性が豊かに表現されている。
そこには、「正義の倫理ばかりが優先される状況に
毅然と立ち向かってきた文学の力」がある。
それは、「声の小さな人たちの物語を語ること」
を大切にする思いにもつながる。
現代は「文字が読まれない」時代とされるが、
だからこそ物語に触れなくてはならない。
敵か味方かといった二項対立的な関係性で分断されやすいいま、
「明らかな答えを求めない、
未知のものやよくわからないものをそのまま受けとめる」
力となる、ネガティブ・ケイパビリティが求められている。
それを養うのは、無数の物語なのだ。
ハーマン・メルヴィルの『白鯨』に登場するモービィ・ディック、
大きな白い鯨は、片足をかじりとられたエイハブ船長にとって
復讐の対象となる一方で、
自然界に君臨する神の象徴でもあり、そこに両義性が備わっている。
条件によっては怪物や「悪魔」として権威を脅かす存在になる。
そうした物語によって、
「どちらとも言い切れない不確実な状態にとどめておく力」
としてのネガティブ・ケイパビリティが養われていくのだ。
気に入らない相手、敵だと思っていた人にも、
さまざまな苦悩があることを知る。
自分だけが辛いと感じていた発想から解き放たれる。
読書は、「自分とは異なる他者の思考パターン、深層心理、
喜びや苦しみを少し分けてもらう行為」なのである。
つづく・・・。
・この本は、「それぞれの立場から本を人生に役立てる読み方」
を教えてくれるもの。
・名著は「無意識下にある怪物と向き合うためのガイドブック」。
・読書は、「自分とは異なる他者の思考パターン、
深層心理、喜びや苦しみを少し分けてもらう行為」。
この年になると、血肉にならなくても読み流すことのほうが
多いですが、それでもわたしは楽しいからいいのです。
では、また明日^^

