何がダサいを決めるのか何が | ふーちゃんのブログ

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こんばんわニコニコ

 

 

 

早朝よりお寺の草取りに参加。

昨日も今日もお店が昼夜の二連ちゃんで、

少々お疲れ気味。

暑いけど、昨年の暑さよりはまだ今のところマシだわ

とか思いながら本日もがんばれました。

 

 

 

 

木々と青空、フェンス

 

 

 

 

のつづきです。

 

 

 

なぜ私たちは「ダサい」を恐れるのか

ベル「ダサい」という評価への恐れ

服を選ぶとき、多くの人が恐れているのは「ダサい」と思われることだ。

 

 

周囲から浮いてしまったり、

鏡に映った自分が想像より野暮ったく見えたりすると、

人は強い不安を覚える。

自分がそう思うからには、

他人からもそう見えてしまう可能性があるからだ。

 

 

こうして私たちは、「ダサい」と言われないために服装を調整し続ける。

 

 

 

ベル「ダサい」のは悪いこと?

近年、「ダサい」という言葉は服装だけでなく、

人の態度や振る舞いにも使われるようになった。

 

服装がダサいということならば、

「格好悪い」「流行遅れ」といった意味であり、

決して人格や態度が否定されているわけではない。

 

 

ところが、人の態度や振る舞いに使われる「ダサい」、

つまり「マナーを押しつけるのはダサい」

「肩書を書かないのはダサい」といった表現には、

単なる美的評価ではなく、

不適切である、社会的な道徳に反していると諭す意味が含まれている。

「ダサい」は単なるおしゃれの問題を越えて、

社会的な善悪の判断にまで広がっているのである。

 

 

こうして「ダサい」という言葉の守備範囲が広がることに対して、

著者はある種の危惧を覚えている。

なぜなら、「ダサい=おしゃれではない」ではなく、

「ダサい=間違っている、悪い」のように、

自分自身まで否定されているように受け取られかねないからだ。

 

 

 

 

 

木々と青空、フェンス

 

 

 

ベル「ダサさ」はどのよう生まれるのか

私たちは「ダサい」と言われることを怖れているが、

そもそもの「ダサさ」は絶対的なものではない。

かつて流行したものが時代遅れになり、

逆に昔は野暮ったかったものが最先端になることもある。

「ダサさ」は簡単に反転するものだ。

 

 

ファッション論では、一部の特権的な人々から一般大衆へと

流行が広まると、一部の特権的な人々は、

また別の新しいスタイルを探して身につけるとされている。

 

 

これと関連して考えてみたいのが、

なぜパーカーは「ダサい」と言われがちなのかということだ。

「パーカーおじさん」が炎上して以降、

コーディネートの専門家たちがそれぞれの意見を述べた。

そのひとりである「もり氏」は、

パーカーが「ダサい」と言われる理由を3つ挙げている。

それは「普及しすぎ」であること、

「着回し力が高すぎる」こと、

「メーカーもみんなこぞってパーカーを出している」ことだ。

つまりパーカーは、他者との服装の違いを示すことが難しく、

没個性的になりがちで、特別感も生まれにくい、

そんな服になってしまっているために、

「ダサい」とされることが多いのだ。

 

 

つづく・・・。

 

 

 

 

お寺の草取り風景、人々が作業中

 

 

 

ファッションには、

「みんなと同じでありたい」という同調欲求と、

「自分らしくありたい」という差別化欲求の両方が

同時に存在しているとのこと。

 

人間ておもしろいですね。

 

 

 

では、また明日^^

 

 

 

 

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