何がダサいを決めるのか | ふーちゃんのブログ

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こんばんわひらめき

 

 

わたしのふるさと鏡野町の「苫田ダム」周辺で、

伐採1000本を15日から無料で希望者に配布するそうです。

国土交通省苫田ダム管理所が、

ダム管理の一環で周辺の山林で伐採したカシ、スギなどの樹木を

希望者に無料配布するとのこと。

長さ約100センチ(直径10~20センチ)を約1000本。

申し込み 右矢印 

 

薪ストーブ使ってるお友だちのみなさん、

もらいに行ってくださいねウインク気づき

 

 

 

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平芳裕子著、ー2026年4月発行ー。

 

 

 

服を選ぶだけなのに、なぜこんなにも疲れるのだろうか。

SNSを開けば、「若作り」「センスがない」「TPOを考えろ」

と誰かの服装が批判され、

自分自身も街中やオフィスでつい他人のファッションを

評価してしまうーー。

その息苦しさと圧力の正体を鮮やかに言語化してくれる1冊。

 

 

 

 

他人の視線に支配されるファッション

ベル「パーカーおじさん」と「カジュアルおばさん」

近年、SNSでは服装をめぐる炎上がたびたび起きている。

そのうちこの本で取り上げるのが、

「パーカーおじさん」や「カジュアルおばさん」といった言葉である。

 

 

2024年、あるコラムニストによる

「40近くになってパーカーとかを着ているおじさんは

結構おかしいと思う」という発言がSNSで拡散されると、

多くの人々が反応した。

著名人が「パーカーの何が悪いのか」

と擁護する発言を行ったこともあり、大きな論争へと発展した。

 

 

また、「カジュアルおばさん」という言葉も話題になった。

こちらは、大人の女性がロゴTシャツやスニーカー、

デニムなどを組み合わせるのは「カジュアルおばさん」

に見えてしまうから避けた方がよい、という、

あるブロガーのアドバイスがきっかけだった。

しかし、SNSでは、「カジュアルおばさんだっていいじゃない」

と反発する声も多く見られた。

 

 

これらの議論に共通しているのは、

「年齢にふさわしい服装」が存在するという前提である。

 

 

ファッションについては、よく「TPOを意識するべきだ」と言われる。

けれども、本来TPOとは「時間」「場所」「場面」を意味する言葉であり、

「年齢」は含まれていない。

それにもかかわらず、私たちは「大人はこうあるべき」

「年相応の格好をするべき」というイメージを強く持っている。

そして、そのイメージから外れた服装を見ると、

違和感を覚え、ときには「ダサい」と感じて、

他人の服装を評価したり批判したりするのだ。

 

 

なぜ私たちはそこまで他人の服装が気になるのだろうか。

 

 

 

ベルなぜ人は他人の服装を見てしまうのか

私たちは毎日、服を着て暮らしている。

朝起きて服を選び、鏡を見ながら「今日はこれでいいだろうか」

と確認する。

服の色や柄、全体のバランス、おしゃれに見えるかどうかを

気にしながら出かける人も多いだろう。

 

しかし、よく考えてみると不思議である。

私たちは自分自身の姿を直接見ることができないのに、

なぜおしゃれをしようとするのか。

 

 

それは、他人から見られていることを知っているからである。

同時に、私たち自身も他人の服装を見ている。

街を歩けば自然と周囲の服装が目に入り、

SNSでは大量の写真が流れてくる。

そのたびに、「おしゃれか」「ダサいか」「マナーを守っているか」

を無意識に判断してしまう。

 

 

こうした「他人の服装をチェックする習慣」は、

現代特有のものではない。

 

 

昭和のテレビ番組には

「ファッションチェック」という人気コーナーが存在した。

街を歩く人々の服装を専門家が評価し、アドバイスする番組である。

視聴者はその評価を楽しみながら、

自分自身のコーディネートの参考にしていた。

 

 

さらに驚くべきことに、テレビのない時代、

しかも戦時中ですら、人々は他人の服装を批評していた。

物資不足の時代には「贅沢なものを身につけていないか」が問題視され、

空襲や火災の危険が身近になると、

「防火防災に適した服装をしているかどうか」

と目を光らせる人がいた。

当時の雑誌には、現代でいうファッションチェックのような

「服装批判」の記事が掲載されていた。

 

 

つまり、テレビやSNSのない時代にも、

さらには命の危険にさらされているようなときにも、

人は他人の装いに注目し、それらを評価し続けてきたのである。

 

 

 

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ベル「同じでいたい」と「違っていたい」

人は流行を取り入れることで「みんなと同じ感覚を共有したい」と願う。

他方では、「自分らしさを表現したい」という気持ちも持っている。

 

社会学者ゲオルク・ジンメルは、

ファッションには「同一化」と「差別化」の2つの作用があると述べた。

これは、私たちは、ファッションを通して

「みんなと同じでありたい」と思いながら、

完全に同じことは避けようとしているということだ。

 

 

たとえば、流行している黒いキャップをかぶれば、

「今の流行に通じている人」であることを示すことができる。

しかし、全員が同じ帽子をかぶってしまえば個性が失われる。

そこで、黒いキャップでも、ロゴ入りを選んだりして、

自分らしさを演出しようとする。

 

ファッションは、個人を社会に接続する一方で、

その人の個性を表現させもする。

人は服装を通して社会の一員となりながら、

同時に「自分」という存在を示そうとしているのだ。

 

 

 

ベル「自分らしい服」は本当に「自分らしい」のか

近代以前の西洋では、

服装はその人の身分を示すものだった。

 

高価な衣服や宝石を身につけることができたのは王侯貴族だけであり、

衣服は「自分が特権階級である」という証だった。

つまり、服は個性を表現するものではなく、

社会的地位を示すものだったのである。

 

しかし近代になると、身分制が崩れ、人々は自由に服を選べるようになる。

すると衣服は、

「自分らしさ」を表現する手段として考えられるようになった。

 

 

それは現代でも同じである。

 

著者が大学生に「あなたにとってファッションとは何ですか」

と質問すると、

「自己を表現するため」という回答が多く得られる。

 

だが、本当に服で「自分らしさ」を表現できるのだろうか。

 

 

そもそも、自分自身の性格や価値観を完全に理解している人は

それほど多くない。

それにも関わらず、私たちは服装を通して「自分」を表現しようとする。

 

 

さらに重要なのは、私たちが自由に服を選んでいるつもりでも、

その感覚自体が社会によって作られているということ作られて

 

 

服は個性を表現するものだと私たちは信じている。

しかし同時に、服はその人を社会の中に位置づける役割も持っている。

そのため、社会が期待するイメージから外れた服装をすると、

「年相応ではない」「常識がない」と批判されることがある。

 

 

私たちは好きな服を着ているつもりで、

常に他人の視線と社会的な期待の中に生きているのである。

 

 

つづく・・・。

 

 

 

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「パーカーおじさん」は流行らないと知り、

夫はパーカー類を子どもにぜ~~んぶやりました。

風の吹く日の散歩には便利なんですけどね。

 

わたしも一年中「カジュアルおばさん」です。

流行遅れですわ。

いいも~ん、楽だも~ん口笛

 

 

 

では、また明日^^

 

 

 

 

 

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