今日は雨降り。畑仕事の代わりにアート鑑賞記を。
京都北山通に『府立陶板名画の庭』があります。世界の名画を陶板にしたものが設置されています。
巨大な壁画も原寸大で再現されているのがすごい。
ふと、あのシスティーナ礼拝堂の『最後の審判』を高いところから眺めてみようと思いつき、訪れました。
安藤忠雄氏が設計したこの庭園、こんな感じで『最後の審判』を高い位置から眺められる。
かの地の本物は地上から見上げるしかできない。
なおかつ、礼拝堂の柵の外から、まるで視力検査かのようなコンディションでの観覧となる。
こんな感じよ 奥の青い壁です
場の空気に圧倒され胸焼け体験をすべく訪れるが良いのは言わずもがな…、
そもそもがじっくり鑑賞できない代物なので、複製画であっても間近で細部を観察できるってありがたいこと。
おまけに普通では叶わない高さから絵画の上部もつぶさに眺められるなんて、発見の予感しかしない…。
5分で廻れると入口で教えられた順路に1時間滞在した鑑賞録です。
水のカーテンが随所にあり7月の炎天下もなんとかやり過ごせました
今日書き置きたいのは、観る位置を変えると絵画の見え方ってこんなにも違ってくるってことの一例です。
少々不謹慎なことも書きますがそこテーマじゃないんで、固執しないでもらえるとありがたいですm(._.)m
この庭園の順路では『最後の審判』をまず階上から眺め、中盤で階下に辿り着き礼拝堂でのように見上げるって流れ。
けど、ここでは本来の「下から目線」から振り返ってみよう。
高さ14m、4階建ビル相当。ちょうど絵画も4層に仕切られた構図になってる。
3階中央で右腕を挙げてるのがイエス、寄り添うのがマリア。死者を天国と地獄に振り分ける指図をしてる。
2階では、ラッパを吹く存在がキッパリした態度で下層に向けて最後通告をしてる。
観覧者の眼前、陰気な色彩の1階層が我々が繰り広げている意識世界。
で、最上階は姿なき神が在する世界。イエスはその足元で神の御心を代行する存在なんだろう。
ローマカトリックが定義する精神世界観を一目瞭然で把握できる絵画。
私たちは常に天空から見張られてるという戒めが芽生える効果抜群。
奢るなかれ、己より偉大な存在を忘れるなかれとも伝えてくれる。
でもなんだか、私たちは罪深き存在なんだと刷り込まれそうになる。
威圧感と孤独をもたらすのよ。
素晴らしいと言われてる壁画が響かない自分って、なんか欠落あるのかな?
かつて現地で観た時の感想はそんなでした。
で、今回はといえば、先に上階からまじまじと「天空の事情」を観てしまった後なので、宗教画としての威光は消失…。
視点を変えると見えるものが変わるってトリックを体感して、意識を完全にそっちにもってかれちゃいました。
どういうことかというと…
3階から観る『最後の審判』
ひしめき、うごめく肉体が宙に浮いてる違和感よ…
最上部で天空を舞ってる天使にさえ「体重」を感じる…
境界に強靭なバリアでも張られていて、落下せずに済んでるのか⁇みたいな…
ずいぶんマッチョなキリストよね…
珍しい描かれ方だけど、痛々しい姿でなくお元気そうなのが嬉しい 笑
その周辺にひしめく人々も…あら、みんな立派な躯体だったのね。
…ここ、天国だよね?死んだ人たち…だよね⁇
うーむ。
人間界のドタバタ劇にしか見えない…
まるで裁判所。良い・悪いを線引きして、そのジャッジに躍起になってる人々。
ローマカトリックがやってることって所詮こういうこと…のような…
あ…!これもしかして風刺画なんじゃ…
バチカンで繰り広げられるドタバタ劇も、外部の衆生は崇高な儀式だと思ってるよね…。とか
善と悪、天国と地獄を区別する概念って、そもそも俗に染まってないだろか…。とか
教義も所詮は人の心の反映じゃないか…。とか
対等な目線で神の世界を眺めてみようと試みると、意外とツッコミどころがある。
でも、1階から見上げるとしたら、そんな発想はまず浮ばない。
手の届かない世界でやんごとなく執り行われてるありがたき御心。
お任せいたしました…っと、我がごととして省みる気にさせないヒエラルキーが発動する。
「見上げる」と「見下ろす」で見えるものが変わる。ミケランジェロはそれを計算尽くで肉肉しい天空を描いたんだろか?お前ら気づけよ、…みたいな意図。だとしたら凄いなと。
でも、そんな解説や評論に出会ったことないし、深読みしすぎかな(^^;;
その真偽はともかく、ありがたい宗教画を上から目線で眺めてみたら、威光も教訓も感じ取れなくなったという体験談でしたm(._.)m
物事を多角的に捉える目を養うって、とても大切なことだと改めて感じたのでした。
ねこ福でも1枚の絵を様々な視点から鑑賞するサロンを始めました。
ぜひいらして♪








