先週は中秋の名月でしたね。良いお天気で月がよく映えました。
思いがけず、平安神宮の手前にある慶流橋から疏水に映る名月を愛でることができました。
ちょうど夕方、京都国立近代美術館にいたのです。
翌日から始まる堂本印象の特別展を内覧させてもらってました。
堂本印象のデビュー以前から最晩年までの作品を年代を追って鑑賞できる没後50年を記念した回顧展でした。
これまで 、どんな画家なのかイメージがどうにもまとまらない人でしたが、
今回、画業の全容を知るにつけ『それも無理ないなぁ』と思えました。
それはそれは多彩なスタイル、様々な題材で作品を残されている。
例えるなら…「日本のピカソ」! 天才。
多様な作品群をまとめて鑑賞できたことで、作風に一貫する特徴もわかった。
それは、慧眼。
画像や写真では伝わってこない「清らかさ」がどの作品からも漂い流れ出していました。
観終えて美術館を出るときには心洗われ、清々しい気持ちになっていました。
そこに満月ですよ!
山里で愛でる名月も素晴らしいけれど、これまた最高の観月舞台でした。
話題を戻します…
実際に絵の前に立って作品から溢れ出てくる‘何か’を受け取ってこそ、この画家の真価が感じられると思いました。なので、画像は紹介しないでおきますね。
でも、一つだけ紹介してみようかな。
✽いちばん衝撃を受けたのは…
『雲華西来』 @法然院
京都の有名寺院の襖絵です。どうよ?
アバンギャルドよね。ふざけてんのか?と0.01秒と思ったあと、仏教の深い精神性が的確に表現されていることに気が付いた。
唖然。…こんな表現の仕方があるのか!
ガチャガチャしてるようだけど、ぴーんと張りつめた緊張感がそこにはあるのです。
法然院は浄土宗だからきっと、阿弥陀如来が衆生を救済するときは西方から錦雲に乗って現れるという教えが描かれてるのでしょう。
いわゆる仏教のイメージとのギャップに惹きつけられました。
本質を把握されてるからこそ、こんな振り切った表現ができるのですよね。
✽作品解説がまた、深い
作品に添えられた解説もなかなか含蓄がありました。作品や作家への理解が深まるだけでなく、読む者に問題意識を提示してきます。
例えば…、
『疑惑』という作品の解説には、「“占い”に自身の未来を明け渡し、自己の中心を失っている人々への危惧が表れている。」と。
いや、ほんと。占いってそうだと思うよ。自分で考えたり察したりする機会を奪ってると思うんだな。ねこ福では占星術を真逆の使い方をしているよ→✴︎
✽作品に漂う清らかさの訳
思いのほか感銘を受けたので、帰宅してから作家のことを少し調べました。
ホームページにこのようなことが書かれてました。
関連する経典を全て読みこなし、(中略)必ず般若心経を唱えながら真冬でも井戸の水を浴び、身を清めて制作に取り組んだといわれます。
僧侶も舌を巻くほど宗教的な言葉、観念に造詣が深かった。
そうだろうなぁ。作品からそういうことが伝わってきました。
この人は知っている…って。
✽作品から滲み出るのは清らかさだけでなく…
作風がドラマチックなほどに変遷していく。
10代半ばの作品にも既に、見たままを描き写すことへの飽き足らなさが察せられました。
次へ次へと表現の可能性を開拓していくパッションが画面から溢れている。
観ている自分のひ弱さが恥ずかしくなってきました。
『何やってんだろう、自分…。』って哀しくなったこと以前にもあったんですよね。
堀文子展でのことだったな。100歳までご活躍されるほどのバイタリティが作品からも発せられてました。
…そうやって、画家本人の在り方って不思議と作品から伝わってくるものなんですね。
その、堂本印象のバイタリティを目視可能なカタチ化してるのがこの建物だと思う。
どうよ、これ。
よっぽど気合い入れて勢い付けなきゃ突破できそうな気がしないこの構え。
10代の頃からいつか行ってみようと思いながら尻込みして未踏です。
11月23日まで
名月に劣らぬ清らかさに満ちた展示会場だったなぁ






