すでに発表した1部(西村ヨネ)2部(スイス編)に続いて、第3部はフランスである。

フランスは熱烈なフランスファンも多く、戦後間もなくから渡仏の動きがある。そして1948年と書くのが最初の様だ。その理由は後ほど説明する。

 

チェルビ菊枝

幼少のころからパリにあこがれたチェルビ(加藤)菊枝は、戦時中もパリに留まり、終戦後初のフランスからの個人の引き揚げ者であると同時に、最初の渡仏者であった。

 

1947年年3月28日、まだフランスにいた菊枝はマルセイユでフランス郵船シャンポリオン号に乗り、ベトナムのサイゴン(今のホーチミン市)に着く。そこから香港に向かいさらにジェネラル・ゴルドン号で横浜に戻った。

 

それから一年もしないうちに、

「いずれ日本人もどんどん、渡仏するようになるだろう。私が本当にしたいのは、そういうフランスで、日本人の為に役立つ仕事をする事だ。」と考え、横浜のフランス領事館を訪問する。ヴィザの発給は東京の大使館ではなく、領事館の仕事であった。

 

余談ながら私の知人は次のように語っている。
「約65年前、ここ在横浜フランス領事館敷地内におんぼろの木造の家があった。そこの住人マダム滋野さんから小学生だった私はフランス語を習っていた。マダムのご主人は滋野男爵、そうフランスで"飛行機野郎"として名を馳せたバロンシゲノでした」

 

領事は、

「戦後、入国ヴィザの申請にこられたのは、あなたが初めてですよ。そいうえば、戦後、フランスから単独で、初めて帰ってこられたのもあなたでしたね。」と語り、

「ヴィザは、まだ普通の形式では難しい。だから渡航目的の欄にパリにいる婚約者と結婚するためと書き入れる」方法をアドバイスした。すると1ヶ月半でヴィザは下りた。その後GHQ外事課で日本の出国許可もらう。ここでも「前例のないことだ」と言われた。

 

イメージ 1

当時のまま残るとされる横浜山手、旧フランス領事館の門

 

1948年8月30日、羽田空港から上海に向けノースウエストに乗る。日本とGHQ両方の出国検査を受けたが、フランス人に同行するパスポートも持たない日本人旅行者である菊枝に、係官はちょっと驚いた表情をしていた。

 

9月2日、フランス郵船のアンドレ・ルボン号が上海を出る予定であったが、船はやってこないことになった。そこで香港まで飛んで、そこからアンドレ・ルボン号に乗る。1948年10月15日にマルセイユに着く。行きも帰りも自分で道を切り開く渡航であった。(『おてんばキクちゃん巴里に生きる』より)

 

高田市太郎の「風雲の欧米を見る」

第二次大戦後、最初に海外渡航を許された日本の現役報道人として、1948年10月より欧米を6ヶ月間訪ねた毎日新聞の高田は、先述の題名の著書に、ロンドン、パリの残留邦人について書いている。それによるとイギリスは次のようだ。

 

「イギリスに住んでいる日本人は、現在全部で100人程度、そのうち80名位がロンドンにいます。大部分昔から住んでいた商船や貨物船の船員で、今はほとんどが50歳から6,70歳にかけての老人です。

 

他の数名は、戦前日本大使館とか、大倉商社に勤めていた人であります。また戦争中(ドイツの)爆撃の犠牲になって死んだ日本人は、わずか1名であったそう。

 

ロンドン大学には日本語科がある。永らく日本にいたF・T・ダニエルさんがその主任を担当、5人の日本人がその下で助手を務めている」

 

高田の書く「昔から住んでいた船員」というのは、多くは第一次世界大戦中に渡英した船員で、そのまま帰国せずに現地の船会社に雇われ働いた。そして第二次世界大戦が始まると、マン島の抑留された。

 

続いてパリである。

「フランスに残っている日本人は、現在パリに約30人、マルセイユ、リヨン、ニース、その他の地に25人、合計50人あまりである。インフレと就職難にさいなまれて、いずれも相当な耐乏生活で頑張っているようである」

ここに遠藤の書いた片岡、瀧沢などが含まれるが(後述)、「愛すべきパリは死んでも離れない」と、戦争中を通じて留まった邦人も少なからずいた。高田は筆者の知りたかったことを、ずばり書いてくれている。

 

川石酒造之介(かわいしみきすけ)

川石は名前からも推測できるように、造り酒屋の家の五男として生まれ、1935年にパリで日仏柔道倶楽部を創立する。連合国がパリに迫るの状況で、1944年8月 パリを去りベルリン経由、満州から日本に引き揚げる。パリに根を下ろしていた川石であったが、

「私がパリに残ったらどうする、と弟子共に聞いたら、あなたの様に強い人はすぐに殺すと言われたので日本へ帰るのだと言っていた」とパリに残留した画家坂東敏雄は回想する。

 

そして1948年にはフランス柔道連盟の技術指導者に就任する。従って再渡仏はこの時点であろう。フランスは戦後間もなくから柔道に力を注いだ。また川石の助手として粟津正蔵が、1950年に神戸港を出港し約1月の航海を経てマルセイユに到着する。さらには安部一郎が、1951年10月に横浜港からラ・マルセエーズ号で出航し、トゥールーズで柔道の指導に当たる。(ウィキペディア)

 

川石は「フランス柔道の父」と呼ばれたが、生家のある姫路市は2020年の東京オリンピックでフランス柔道代表チームの事前合宿地となる。

 

制限付き海外旅行

1948年4月2日付け朝日新聞によると、(GHQにより)この時から日本人の制限付海外旅行が認められるようになる。おそらくこれまでの幾人かが1948年に渡仏したのは、この方針によるものと思われる。

 

「三牧牧師が渡英。制限付海外旅行の第一陣

八代斌助、柳原貞次郎、蒔田誠の三牧師。カンタベリー大僧正に招かれて行く。日本人の制限付海外旅行計画の第一歩をなすもの。政治的なものでない限り、文化的あるいは科学的またはこれに関連したものは今後全て許可されるであろう。」

彼らは1948年5月12日夜羽田空港出発、ニューヨーク経由でイギリスに向かう。

 

これは日本を占領統治するGHQ総司令部の発表に基づく記事である。こうしてこの頃からまだ珍しい渡欧者が新聞記事に登場するようになる。

 

フランスへの”帰国”

戦前、多くの日本人を惹きつけたフランスへは、終戦直後から渡航者が多かった。多くはかつての滞在者である。日本人画家として戦後初めてフランス入国を許可されたのは荻須高徳であった。1940年に日本に引き揚げた荻須は1948年、再び渡仏する。著名な藤田嗣二は、戦争協力に対する批判に嫌気がさし1949年、住み慣れたパリに向かう。アメリカ経由であった。

 

画家では他に筆者が直接会って話を聞いて紹介した関口俊吾が1951年、40歳で再びフランスに向かう。同年1月27日発行のパスポートには

「関口俊吾は美術研究のためフランスに行く目的で、(中略)連合国最高司令官によって許可された日本国民である」と記されている。関口は戦後の渡仏者の内、画家としては萩須高徳、藤田嗣治についで3人目であったと言う。本人の証言もあるので、この時期、他に渡仏した画家はいなかったと判断できる。

 

またフランス文学者の朝吹登水子は1950年5月、本人の弁によれば”自活するために職を身につけよう”と、神戸からフランス船ル・ファレーズ号で戦前に続いて再度パリに向かう。物理学者湯浅年子(1949年2月)に次ぐフランスへの私費留学生であった。朝吹は”軽井沢派”の代表的存在である。一方湯浅もフランスへは再渡航である。

 

1951年春、戦後初めての日本人として、東和映画の川喜田長政がカンヌ映画祭に出席した際には、朝吹は萩原在外局長のお伴として参加する。

 

妻子をスイスに残してきたジャーナリスト笹本駿二は1948年日本に戻るが1950年2月、デンマーク船に乗り込む。

戻った笹本はいきなり占領下の窮屈な日本が耐えられなくなった。またジャーナリストとして頭の中のヨーロッパの知識は、数ヶ月もすると使い物にならないと感じた。そしてフランスに住む妻の親戚筋の世話で、同国に向かう。

 

高野耀子(こうのようこ)は画家高野三三男(みさお)の長女として1931年パリに生まれる。1940年パリが陥落する際に家族で帰国する。

1946年、東京音楽学校に入学するが、パリへの思いがやみがたく途中で退学する。個人で煩雑な手続きを一切を達成、莫大な費用も調達して1949年、8月1日空路渡仏する。そしてパリ音楽院に入学を果たす。

(なお高野について、「田中希世子」の中で萩谷由紀子は戦後初の渡仏者として時期を1947年と書く。またウィキペディアは1948年である。しかし朝日新聞の記事(1949年7月26日)から1949年が正しいと思われる。

 

2018年3月26日の日本経済新聞の電子版に

『高野耀子という生き方 輝き続ける87歳のピアニスト - NIKKEI STYLE』という記事が載った。

 

遠藤周作

第1部に触れた作家遠藤周作は、「作家の日記」という題名でフランス時代の日記を公開している。

 

1950年6月4日GHQの占領下にあった日本からの最初のフランス留学生として三雲夏生・昴兄弟とともに横浜港を出港。

この留学はザビヌル日本渡来400年の1949年に上智大学の数人の教授が計画し、フランスのカトリック教会とネラン家等の一部の篤志家の支援によって実現。

 

同じ船倉で寝起きする4等船客に、フランスのカルメル会修道院で修行を目指す井上洋治がいた。敗戦国の日本人ゆえマニラやシンガポールなどの寄港地では上陸を許されなかった」

フランス船ラ・マルセイエーズ号には何人かの日本人が乗船していた。また当時の渡欧には資金等でカトリック教会の援助が大きかったことが分かる。

 

他にも乗船者の一人に女子画学生、毛利眞美(後に画家・堂本尚郎夫人)がいた。お嬢さん育ち、わがままいっぱいの眞美は戦前の女らしさ教育に大反発しての渡仏であった。彼女も教会の援助で渡仏した。

 

作者の日記から

次いでその遠藤の「作家の日記」からである。そこからは当時どのような邦人がフランスにいたのか、知ることが出来る。

「1950年7月8日 朝、パリに着いた。

再びタクシーをつかまえてド・ラ・サンテ通り45番地の片岡美智を訪ねる。突然の訪問であったが、久しぶりに話す日本語ゆえ何ともいえずたのしい」

 

片岡は戦前の1939年、日本女性初のフランス政府招聘留学生としてパリに渡り、連合国によるフランス解放時もパリに留まる。そして1952年まで滞在した。つまり彼女は戦後の渡航者ではない、フランス滞在の猛者ともいえる女性である。ジュネーブの前田護郎同様、学問の世界には戦争の勝者、敗者は関係なく、そのまま留まることが出来た。

 

「1950年8月2日 古沢夫人、兄貴に手紙をしたたむ。10月14日 滝沢敬一老を訪問する。よくしゃべる元気な老人である。」

 

古沢はソプラノ歌手古沢淑子で戦争中のパリ滞在を経て、終戦直前よりスイスに滞在していた。彼女に関しては「スイス国境目指して」を参照されたい。1949年フランスのラジオ番組出演のオーディションを受けると言うことで、古沢にフランス入国のビザが発給された。そしてオーディションンに合格して、念願のパリへの里帰りをものにする。

 

滝沢も残留派であった。彼に関しても筆者は「敗戦ドイツの首都に残る」で紹介している。遠藤は懐かしさからか、それとも儀礼上か、残留日本人とだいぶ接触したようだ。

 

「9月25日 リヨンに日本人来る。プラットホームに入ると岩瀬孝が青い顔をして、立っていた。」

岩瀬 孝はフランス文学者で1950年アンジェー・カトリック大学に留学し、パリ大学文学部博士課程第1年度を修了する。

 

「1951年6月12日 在外設置事務所の萩原氏に会う。」

萩原氏とは外務省の萩原徹である。彼は1950年10月、パリ在外事務所長に任ぜられている。大使館が開設される前、こうした形で外交官は海外に出て、再開に備えた。まだ外交官としての地位、特権は所持していない。

 

「7月18日 野村教授がリヨンにやって来られた。

11月16日 12月上旬パリに行くことにした。

会うべき人 : 片岡美智、森有正、木下氏、萩原氏」

後の哲学者で評論家森有正も留学生である。だいぶ日本人も増えたようだ。

 

別題の「渡仏日記」は1952年9月から1953年1月までの日記である。そこには

「1952年11月19日 マイヤーと食事をした。日本レストランに連れて行く約束をしたのだ。」とある。

すでに日本食レストランが出来ている。有名であったぼたん屋の再開であろうか?また日本食レストランがあるという事は日本人が増えた証左でもある。

 

遠藤周作の妻旧姓岡田順子は、別稿「終戦直後の渡米日本人」で紹介した西村クワと文化学院で同級生であった。遠藤周作も同学院で講師をしたことがある。

 

遠藤が書いたパリ在外事務所には次のような方がいた。まず萩原所長と共に外務省の高橋覚、通産省から佐藤清一と松永信雄が着任する。翌年6月に戦時中在外研究生としてフランスにいた井川克一と田村豊もやって来る。2人の旅券にフランス政府はカジ・ディプロマティック(準外交査証)を発給する。(『フランス今昔』)

同じ時期、ブリュッセルの在外事務所には与謝野透が赴任している。

 

給費留学生

1950年8月、横浜港からラ・マルセイエーズ号に乗船した給費留学生は次の通りだ。 ラ・マルセイエーズ号は遠藤周作の次の航海になる。

秋山光和 東京国立博物館研究員

北本治  東京帝国大学助教授

森有正  同上

八木国夫 名古屋大学助教授

吉阪隆正 早稲田大学助教授

田中希代子 ピアニスト 

 

男性は皆30歳くらいの年齢であったが、唯一の女性である田中希代子は18歳であった。さらに田中は1952年秋、ジュネーヴ国際コンクールで最高位(1位なしの2位)を獲得する。1953年6月25日付けの朝日新聞には

「昨秋(希代子の)母親が渡仏したのも、送ってきた写真がやせていたので心配して出かけたという。」と載っている。経済的にもかなり恵まれていた事を想像させる。

 

また翌1951年には加藤周一が給費留学生として渡仏する。

 

芹澤光治良が1951年にパリに向かった時に空港で迎えた一人の桶谷繁雄(東大助手)は 1949年にフランス政府の招きで2度目の留学をした。おそらく敗戦後最初の留学生であったろうと芹澤は書いている。これまで見て来たように1950年頃には多くの留学生が、様々なルートからパリに来ていて、誰が一番であったかは判断がつきにくい。

 

スランス大使館再開

日本ペンクラブが戦後、国際ペン大会に代表を送ることが出来たのは1950年8月、イギリス大会であった。翌1951年にはスイス、ローザンヌで開かれたが、そこには芹沢光治良が石川達三派遣され、池島信平がオブザーバーとして参加した。

 

芹沢はパリを訪問した時のことを書いている。

「1951年7月14日

この日、日本人に忘れられないことは、アベニュー・オッシュにあった日本の大使官邸が日本に返って、萩原事務所長があばら家になっていた官邸の一部に手を入れて、ここにパリにいる日本人を集めてカクテル・パーティーを催したことである。日本が戦後初めてパリに腰をおろしたような喜びであった。集まった日本人は5,60人もあった。

 

画家の佐野繁次郎さん、文学者の森(有正)さん、彫刻家の高田(博厚)さん、声楽家の古澤女史、などにも会った。こんなに日本人がいるのかと驚きもした。」(『芹沢光治良文学館 エッセイ 文学と人生 1』より)

 

高峰秀子

6歳で子役としてデビューした高峰秀子は1951年6月、パリへ旅立つ。27歳であった。女優が個人で海外に出る時代になったともいえるが、そのために高峰は自宅を売却した。日本人にとって海外旅行は、とてつもない費用がかかる代物であった。

 

彼女は先に芹沢の書いた大使館の再開レセプションに参加し、それについても書いている。

「パリ祭

夜、雨もあがって、日本の在外事務所が昔の大使館に移ったレセプションがあるとのこと。大使館へ向かう。お客様は100人ばかり、思いの外たくさんの日本人に会って、何となくマゴマゴしてしまいました。(中略)その後、石川達三さん、藤山愛一郎さん、佐野繁次郎さんたちと郊外で食事」

藤山愛一郎はユネスコの総会に出席するためであった。先述のペンクラブ大会同様、日本人も再び国際会議に招待されるようになった。

 

彼女は半年余りのこの旅行について『巴里ひとりある記』というエッセイ風の本を書いているが、そこには多くの日本人が登場する。もうパリ在住日本人は固有名詞で語るほど、珍しい存在ではなくなったといえそうだ。また戦後、日本人が欧州で最初に向かった国はフランスであった。これまでに紹介していない名前を以下に挙げてみる。

 

中原淳一 (画家)

高英雄 (シャンソン歌手)

高橋豊子 (女優)

黛敏郎   (音楽家)

宇野千代 (小説家 ブリュッセル滞在)

砂原美智子 (ソプラノ歌手)

木下惠介  (映画監督)

マドモアゼル山崎 (フランス人のお母さんと日本人のお父さんを持ったお嬢さん)

小平さんの奥さん  (?)

 

戦前同様、1948年から一気に日本人が増えたパリであった。

 

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