<序>
1945年8月の日本の敗戦で、欧米の在留邦人は原則、全員が日本に引き揚げた。
そして1951年9月8日、日本は米国など48カ国とサンフランシスコ条約を締結して、戦争状態を終結させることが出来た。同時に海外には再び日本の大使館が設置されこれ以降、海外渡航が再び可能になったといえる。もちろん厳しい外貨の持ち出し制限などは残る。
ではパスポート取得の第1号は誰か?日本が国際舞台に復帰した1951年、現行の旅券法が制定され、日本に旅券の発給権が回復した。そうして戦後のパスポート第1号は、サンフランシスコ平和条約の調印に渡米した吉田茂首相に発給された。(1951年8月20日発行) 大磯の旧吉田茂邸にはそのパスポートのコピーが展示されている。
また町田市のかつての住居「武相荘」に展示されている、吉田の側近白洲次郎のパスポートの番号は筆者が見たところ、22番であった。
大磯の旧吉田邸
ただしそれ以前にも「パスポート」は発行された。そこには常套文句の「邦人の保護要請文」は記載されず、「連合国最高司令官によって許可された日本国民であるに相違ないことを証明する」とのみ記述されていたという。
たとえば作家遠藤周作は1950年6月4日、フランス船・マルセイエーズ号で横浜を出発し、7月5日マルセーユに到着する。そして書物には“戦後初のフランス留学生”と書かれている。遠藤はこうした例外的日本人渡欧者のひとりだが、調べると他にも少なくない人数の日本人がいた様だ。
本編ではこれから何回かに分けてこうした日本人を紹介し、欧州への渡航の経緯を追う。
また同様にアメリカへの渡航者は「石垣綾子日記に見る、終戦直後の渡米日本人」で紹介したので、参照いただきたい。
<西村伊作の娘ヨネ>
文化学院の創設者西村伊作は独自の教育観を持ち9人の子供を育てたが、そのうち4人の娘が、今回のテーマである終戦後から1950年の間に海外に渡っている。さらに付け加えれば残りの2人の娘は戦前に留学している。
ここでは3女西村ヨネについて述べる。彼女は戦前の1935年7月、戦後NHKの英語講師を務める松本亨等と共にシアトルに向かい、第2回日米学生会議に出席する。
その後終戦も近い1944年12月に、スウェーデン人カート・リーベルと結婚する。知り合ったのは6年ほど前の志賀高原のスキー場であった。式場はスウェーデンの方式に倣って花嫁の実家で行うべく五反田の西村家に決まった。司式を頼みにいった時、牧師の口からは「空襲になったら行きませんよ」と前置きされたというが、式の写真には無事一緒に写っている。
1945年8月の終戦間もなくの1946年1月、夫妻はGHQの伝手を頼って病院船でアメリカに渡る。すでに出産間近であった。そして2月15日、シアトルの病院で、長女マリアンを出産した。

山下公園の氷川丸。西村ヨネが実際に乗船した船ではありません。
戦争中も聖職者としたアメリカに留まる事を許された松本亮は「自分の知る限りでは、戦時中は日本にいた日本人で、戦後最初にアメリカに来たのは西村ヨネ」と語っている。松本亨は第2回日米学生会議で一緒にアメリカに渡ったメンバーだ。
同年4月、スエーデンの客船グリップス・ホルム号(the Gripsholm)で夫妻はストックホルムに着く。戦後初めて日本から帰国した若夫婦は、四方から質問攻めにあったという。ヨネは後に書いている。
「私たちがスエーデンに到着したのは4月15日で、北の国にもやっと春が訪れたときでした」(「真夜中に太陽の照る国」より)
スエーデンでは日本の敗戦後も中立国に留まっていた外交官、軍人らにマッカーサーの帰国命令が出て、同年1月20日に岡本季正公使以下全員が、引揚船の出るナポリに向かって旅立った。その3か月後の事であった。
ヨネがこの時期に渡欧できたのは、結婚でスエーデン人の伴侶であったためであるが、戦後最初の渡欧日本人で間違いなかろう。
筆者はヨネの次女を横浜・山手のお宅を訪ねて話を聞くことが出来た。
彼女が母から聞いた話として、戻ってまもなくの1949年、湯川秀樹がノーベル賞を受賞して、ストックホルムを訪問した際、国際社会に復帰していない日本は大使館もなかった。そういう状況で専ら湯川の面倒を見たのはヨネであったという。そんな時代であった。
第一話 完
話を聞かせていただいた山手のお宅。1952年の建築。
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(西村ヨネについて詳しく書いています)


