<スイスは定員オーバー>
一九四五年一月、戦争六年目のドイツは、東西からベルリンを目指す連合軍に挟まれ最終段階を迎えつつあった。五月の敗戦を目前にしたベルリンの日本大使館では、ドイツに滞在する邦人の名簿を作った。
名簿をまだ日本とは中立関係にあるソ連に渡し、ソ連軍がベルリンを占領した際に、彼らを中立国人として無事日本に送り届けてもらうためであった。ソ連外務省はその依頼を快く引き受けた。独ソ戦の最中に、日本が彼らの背面にあたるシベリアに攻め込まなかったことへの、せめてものお返しかもしれない。
手渡された「邦人リスト」には五百六十四名の名前があった。遠くアフリカからフランスを経由してベルリンに逃げ込んできた邦人も中には混じっていた。彼らはドイツの崩壊に際し、二つの方法で帰国を考えていた。
まず外交官はドイツ外務省の用意した南ドイツ、バード.ガスタインという温泉地に避難が決まっていた。彼らは外交特権もあり、抑留されても米英は手荒なことはしないであろうと予想された。
一方身分保証の無い民間人は、ベルリン総攻撃を合図に市の中心から数十キロ離れたいくつかの避難所場所に集結し、ソ連軍の到着を待つ手はずであった。先のリストは主として彼らのためであった。日本と交戦中である米英軍の手に落ちないよう、避難場所の選定には気を配った。
そんな中、ドイツから程遠くない中立国スイスへの避難は理論的には可能だが、残された邦人にとっては全くのあこがれでしかなかった。何故ならスイスは開戦以来一貫して、入国査証の発給を厳しく制限し、難民の移入を厳しく取り締まっているからだ。ユダヤ人というだけで、ドイツの支配下では死を意味した。しかしスイスはそれだけでは亡命を認めず、不法入国者は全て押し返した。
一九四二年十月には一万一千八百人であった難民の数は四十五年には十万に達し、スイス国内では"DasBoot ist voll."(小船であるスイスは定員オーバーだ)の声が大きくなっていた。当時のスイスの人口は四百五十万人ほどである。この十万人という数は、スイスには負担であったかもしれないが、入国を希望する人の数に対してはあまりにも少なかった。またスイスが「定員オーバーの声」を出すのは早過ぎで、まだまだ受け入れられたはずであるという非難もある。
大戦の勃発当時、そのスイスに邦人はわずか二十名ほどしか滞在していない。終戦の年には八十名を超すようになっていたが、彼らはほとんどが外交官、軍人及びその関係者であった。アジアに滞在するスイス人の待遇改善の目的で、スイスは日本人外交関係者には比較的寛大に入国査証を発給した。
一方民間人の入国は、他の外国人同様まったく認められない。よってベルリンの邦人は、誰もスイス入国を考慮だにしなかった。しかしどこにも例外はある。まさに難民として中立国入りを許された邦人もいた。そんな彼らの奇抜なスイス入国体験を紹介して行く。
<最後の国際列車>
一九四四年は終戦一年前の年である。後半にはいると連合国の連日の空襲で、ドイツでは鉄路も散々痛めつけられ、列車の運行は不定期になっていた。その年の十二月、南ドイツのシグマリンゲンという都市からベルリンに列車で旅をした桜井一郎中佐によると、約五百キロを四十八時間かけて列車は乗客を運んだ。
車内は満員で途中での乗り降りは皆窓から行い、ホームにはそのための台が等間隔に置かれていた。トイレに行くことも出来ず,ドイツ人に体を支えられ窓から用を足したという。日本の終戦直後の列車も同じであったかもしれない。
それでもベルリンとチューリッヒ間の国際列車は空襲を受けにくい夜行であること、およびドイツの威信もあって、年が変わり一九四五年になっても、比較的予定通り走っていた。戦前のダイヤによれば、国境の町バーゼルを十九時三十分に出発した列車は、ベルリンに翌朝八時二十九分に着いた。おそらく戦争中も同じ運行であったはずである。そして第三帝国終焉を迎える時期が近づいても、一夜で両都市を結んでいたことは以下の記録から見て取れる。
朝日新聞のベルリン特派員からスイスへと転勤を命じられた笹本駿二は、一九四五年一月二日の夜、空襲警報の鳴り響く中、その国際列車でベルリンを離れた。以下はスイス入りした笹本の感想である。
「翌朝のひる前チューリッヒ駅に降りたわたくしを、笠さんとT君とが迎えてくれた。"ここまで来ればもう大丈夫だよ。" まるで政治亡命者でも迎えるような笠さんの言葉だった。」
この様にまだスイス入国自体はそれほど苦労ではなかった。
<与謝野秀>
さらにドイツが追い詰められ、最後にスイス入りした外交官は与謝野秀一等書記官である。かれは三月十八日にベルリンを離れた。ドイツ崩壊の四十日前のことだ。ソ連軍はベルリンまで六十キロの地点に到達して、最終攻撃の態勢を整えていた。
ベルリンとスイスを結んでいた国際列車はもう運行されていない。南ドイツのシュトットガルトとチューリッヒを結ぶスイス航空の航路は前年の四十四年の八月に停止となっている。
与謝野はオーストリア領内のバード.ガスタインへ避難する外交官とともに自動車で南を目指す。闇市で買い集めたガソリンを出しあった。
一日目はバイロイトまで来た。二日目にミュンヘンを通り過ぎ、国境のブレゲンツに着き、翌朝スイス入りした。正式の書類を持っていたので入国も問題はなかった。全三日の行程であった。
また軍人では藤村義一海軍中佐が、三月十八日に車でベルリンを離れ、四月にはいってスイス入国を果たした。藤村中佐一行のスイス入国に関しては、ユダヤ女性を一緒にベルリンから逃亡させたと言う回想があるが、筆者はまだそれが事実か確認できていない。(「終戦前後秘話」参照下さい。)
これが民間人となると事情は異なる。また彼らは外務省の指示ではなく、自分でスイス入りを希望し、かつ実現しようとした。
<倉知緑朗、古澤淑子夫妻>
倉知緑朗、淑子の二人は共に音楽家で、それが縁で滞在先のフランスで結ばれた。連合軍パリに迫るの報で二人はベルリンに避難し、緑朗は同盟通信社の事務員として職を得たが、フランス派の彼にとって、ドイツはまったく居心地の悪い場所であった。
四十四年の暮れ、淑子は軽い肋膜炎と診断された。医者はドイツでは手当てできないのでスイスへ行くことを薦めた。早速スイス領事館に行ったが、新聞記者として入国申請したため、許可はなかなか下りない。とにかく南ドイツで査証を待つことにして翌年二月二十六日にベルリンを列車で離れた。
着いた先はペタン元帥の親独フランス政府も避難していた、シグマリンゲンという小都市であった。後に紹介するが当時この町には、日本人外交官が複数滞在していた。その一人であった三谷隆信フランス大使(当時)は、回想録にこう書いている。
「(自分の投宿していた)宿の娘の友人に、駅の切符売りをしている娘さんがいた。その頃ある日本人夫妻がベルリンからシグマリンゲンに、目当てもなく疎開してきたが、夜遅く駅につき駅の待合室で休んでいたのを、この娘さんが見つけ、自分の家に連れて行き、自分は母親の部屋に同室して、しばらく世話をしてくれた」
この文章から判断しても団体行動をとらずに、勝手に行動する民間人に対し,外交官は冷淡であったことが想像できる。
緑朗は査証を求めて当地のスイス領事館へ日参するが、いつも「待ってください」の一点張りである。ちょうどフィリピンでスイス人十数名が日本軍の手で虐殺された事件の後で、対日感情は最悪であった。それでもドイツの最期が近づいてきたので、査証のないまま国境の町ブレゲンツへと移動した。
そうしている間にも淑子の病状は悪化する。そして四月二十日、ホテルで「今日の午後スイス向けに出る列車を最後に、列車の連絡も途絶える」と聞き込み、その最終列車に飛び乗った。ちなみに当時の朝日新聞も「四月十九日、スイスは押し寄せる難民対策のためスイス東北部の国境を閉鎖」と報じている。夫妻の行動もこれと関連していようか?
税関のあるサンクト.マルガレーテンに着くと、構内放送があり「入国査証のあるものは列車から降りてよろしい。査証の無いものはそのまま席に残り、引き返す列車でドイツに戻るように」と告げた。
同乗していたドイツ婦人たちは「自分らはアメリカ人と結婚しているからスイスに入る権利がある」とわめいたが、兵士に無理やり列車へと押し戻された。そのうちの一人は「ホームの柱にしがみついて、ドイツには戻りたくない」と泣き叫んだという。
スイス官憲の管理は噂通りに厳格であった。緑朗はこの光景を見てとっさに「病人がいるから軍医を呼んでほしい」と頼んだ。するとかなり年取った医者が来て、簡単な診察らしきを済ませると「一応、降りろ」と言った。そして希望する病院ではなかったものの、町外れの難民収容キャンプに送られた。夫婦別々の収容だった。
スイスでは赤十字の精神が発達していたことを緑朗は咄嗟に思いつき、利用したと言える。ドイツ降伏後間もなくして、二人はジュネーブに移送された。淑子はジュネーブ近郊のサナトリウムに入ることが出来、回復にむかう。
やはり入国したばかりの与謝野一等書記官が見舞いに来て、シャンペンを抜いて無事を祝った。あの時押し戻されていたら、二人はどうなっていたかわからない。国境での特例に関し与謝野は、自著の中で「容姿端麗な日本婦人がスイス官憲の同情を惹いたのであろう」と推測している。
第一部以上
