明恵上人が若き日に自殺しようとしたときに、その原因は平たく言えば「性の衝動」だったのではないかという分析を若き日に読んだことがあります
奈良の東大寺は、この華厳経の大本山で、有名な明恵上人も華厳宗の人です。
明恵上人と言えば、子供の時分に死のうと思い、自殺するのはいけないから、墓場に行って、死体をむさぼり食う狼の餌食になろうとした人です。
この強烈なエピソードが気功技術の「物忌」に繋がっています。
c.f.陰陽の暦のひとつ、物忌み(ものいみ)という生まれ変わりの儀のカラクリは霊の発酵と熟成? 2017年05月07日
いや、そう書いてあったのではなく、のちの僕自身の分析というか解釈かもしれませんが、いずれにせよ記憶が定かではありません。未来においては、自分が読んだ文章、自分が書いた文章の全てがアップロードされ、即座に検索できるのでしょうが、今はまだその途上です。まだまだ忘れる権利が保証されているのです。Oblivion大事。
セミナーなどでも紹介していますが、思春期に入る直前にいわゆる「透明な身体」となり、一種の完成形になる。それが時を置かずして壊れてしまう兆候を感じて、自殺しようとするという議論でした。これは少なくとも児童心理学の文脈でそう習いました。
僕自身はこのイエスの言葉は岡 真史くんのこの詩を思い出します。
『ぼくの心』
からしをぬったよ
体に
そうしたら
ふつうになったんだ
よっぽど
あまかったネ
ぼくの心って
この詩に出会ったのは小学生のころ。
本の表紙に
ひとり
ただ
くずれさるのをまつだけ…
とあり、タイトルは「ぼくは12歳」。
彼は12歳で投身自殺。
透明感ある詩は当時の同級生たちにも共感を呼んでいました。
いま読み返してみて、からしを塗ったのが「ぼくの心」ではなく「体に」であるところにいまさらながら衝撃を受けます。
*ドゥルーズも投身自殺です。
なぜ予兆を感じるかと言えば、ホルモンというのは生まれる前から(胎児の時から)当然に流れているからです。Sex Scienceにおいて自慰行為が胎児の段階で観察されているという知見を紹介したことがあります(あとで探してリンクを貼ります、見つかったら)。
それが遠い日の花火だったのが、だんだんと近づいてくるのを感じるのです。線路を歩いていると(映画「Stand by me」のように)、遠くに警笛を感じるようなものです。
そしてそれがどんどん指数関数的に大きくなってくるのを感じて、それが不可避であり、自己破滅的であることに、聡明な人びとは気づいてしまうのです。
(かつであれば、ラヴェルのボレロのように、と言いましたが、今やJAWSのようと言うべきかも、もしくはその音楽の元ネタであるドボルザーク(新世界第四楽章)を流したい!
新世界の第4楽章はとても有名です。出だしは鉄道が遠くから近づいてくるシーンを彷彿とさせます。ドボルザークは鉄道マニアであり、ロッシーニが愛する美食に名を残したように、ドボルザークは愛する鉄道に名を残します。葉加瀬太郎さんいわく、この第4楽章が映画ジョーズのテーマにパクられます。
特に男性にとってはそれは破滅的な暴風雨として経験されます。
だからこそ社会は抑え込もうとするのです。
抑圧しようとします。
なぜなら社会の構成員の多くはその衝動を抑え込むことに成功しているからです。
ですから、自分のように諦めろ、自分のように抑え込めと教えるのです。
この見事な社会的洗脳の結果として、多くの人が戦線離脱をしています。
バブル崩壊後の「失われた20年」(1992年から2015年の間に)、18~39歳で性交渉の経験がない日本女性(処女)が21.7%から24.6%に、日本男性(童貞)は20%から25.8%に増加。
また、国勢調査によれば、男性の生涯未婚率は1985年3.9%から2020年25.7%へ6.5倍、女性は4.3%から14.9%へ3.5倍へ。(日本成人における異性間性交渉未経験の割合の推移について: 出生動向基本調査の分析, 1987 – 2015年)
c.f.壁の内側は快適だったんですよ。誰に何の期待もされず何の責任もない。孤独だけど心地よい世界(逃げ恥 2022年02月07日
この「逃げ恥」のセリフをはじめて紹介したのはこちらの記事。
c.f.一度に全部のことを考えてはいかん、次の一歩のことだけを考えるんだ。 すると楽しくなってくる。 2019年06月19日
政府の調査によれば、1992年から2015年の間で、18歳から39歳の処女率と童貞率が20%から25%に増加したそうです。5人に1人から、4人に1人です。もはやマイノリティーではないのです。
かなりの人数です。生涯未婚も男性は4人に1人、女性も7人に1人とこれも相当にすごいことです。
これは性の漂白化の明確な例だと思います。
逆に普通であることがマイノリティーになります。
社会的知性を身にまとうことは大事です。社会性も大事。それは当然です。
しかし、良心の自由があり、妄想は暴走させて良く(それが適切にコントロールされている限りは)、抑えるべきではないのです。
そしてそれが創造性の根源であり、喜ばしき知なのです(ニーチェに怒られそう)。
そのような前提を踏まえて、その衝動をどんどん昇華させていく様をクンダリーニと称し、それが歴史的には以外なことに中国とそして当然なことにヨーロッパを介したときに性は漂白化されたのです。逆にインドから直で入ってくるとクンダリーニは性力と訳され、キリスト教文化圏を介すると生命エネルギーとなるのです。重要なところが綺麗にOblivionされてしまうのです。猿回しの芸を仕込むのに、「根切り」を教えないようなものです。
根切りという言葉があります。
千年続いた猿回しの芸が途絶えたのは差別によるものでした。
失った伝統を復活させるのは非常に困難で、しかしその困難を実現した人がいます。
その方のキーワードが「根切り」でした。
調教は、誰にでもできるものではない。猿は猛獣であるから、気力、体力、すべての点で、猿にまさる者でなければならない。弱い人間が調教をこころみたら、あべこべに噛みつかれてしまう。また、調教師は、練習は人前ではやるが、芸の根切り(仕上げ)は、人前ではやらない。根切り法を他人に見せると盗まれる。盗まれたら飯の食いあげである。(p.34)
我々の世界にも「根切り」はあり、それが「仕上げ」です。
人前でやらないのは激しい狂気にしか視えないからです。
飯の食い上げなどと本当に思っていたなら、それがゆえに千年の歴史が途絶えたのです。蜘蛛の糸と同じです。僕らは飯の種をふんだんにばらまいています。それも無料で(このブログのことです)。
共有地の悲劇(コモンズの悲劇)とちょっとだけ似ています。自分のことだけ考えると、蜘蛛の糸がプツリと消えるのです。短期的には損に視えても、長期的には徳なのです(誤字ではなく、得であり徳)。
コモンズの悲劇(コモンズのひげき、英: tragedy of the commons)とは、多数者が利用できる共有資源が乱獲されることによって資源の枯渇を招いてしまうという経済学における法則。共有地の悲劇ともいう。Wikipedia
という前提を踏まえた上で、ドゥルーズの「理解する」のではなく「使用する」を考えます(前回の続き)。「もうすでに該当の書籍を読み終わったよ」という方も散見するので、あわてて解説します(別にあわててはいないけど、修辞的表現←いや、こういうのが冗長なのかな)。
前回紹介したのはこの一節。
むしろ、どんな断片でもいいから、それを手にとって、使ってみること、たたいたり、裏返したり、匂いを嗅いでみたりして、いっしょに時間をすごし、別の脈絡に移動させ、それぞれに使いみちを見つけること、もちろん全体を相手にする必要はなく、必要に応じて断片を扱うだけでいい。そんなイメージを、ドゥルーズは思想を「理解する」のではなく「使用する」こととして提唱するのだ。(ドゥルーズ 流動の哲学)
「もちろん全体を相手にする必要はなく、必要に応じて断片を扱うだけでいい」とありますが、我々は一歩先に行き「ユニコーン」はいるけど(それも警察官のコスプレして、月の裏側に)、世界はないというマルクス・ガブリエルを思い出したい。
しかし他方で、わたしの主張は、世界以外のあらゆるものが存在するのだから、存在するものは一般に期待されているよりもずっと多い、ということでもあります。わたしが主張したいのは、警察官の制服を着用して月の裏面に棲んでいる一角獣でさえ存在する、ということです。この考えは世界のなかに存在しているし、この考えとともに警察官の制服を着用した一角獣も世界のなかに存在しているからです。これにたいして宇宙のなかには、わたしの知るかぎり、そのような一角獣は現れてきません。(マルクスガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』)
そして、続きを!
そもそも世界の認識は、決して全体的な設計図にしたがっておこなわれるものではない。世界の認識は、隣接する部分から部分へと、触覚に頼るようにして、局地的に進むことでしか実現できない。哲学の諸概念は、そのためにこそ使用される。
反論するわけではないのですが、この意味では全体的な設計図も世界も存在しないのです。
「局地的に進む」ではなく、局地しかない。自分の周辺と頭の中にしか世界は存在しないのです。
だから、理解するではなく、使用する。
気功技術も理論も同じです。






