「アンチウーラノス(去勢)」ローンチ?、ずっとモテモテだからこそ精神的に去勢されているのかも? | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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アンチ・オイディプスの感覚でアンチ・ウーラノスというのはどうでしょう?

 

「アンチ去勢」というβ版の技術があり、これがダンス部とマスター・クラスで話題になりました。

かなり効きます。

 

ただ、これはあまりにストレートな名称すぎて、ブログなど不特定多数に公開するには憚(はばか)れるネーミングです。

 

ですので、名前をとりあえず変えたいと思って、去勢と言えばクロノスに男性器を切られたウラノスが思い浮かぶでしょう(まあ、ウラノスから見て、奥さんでお母さんであるガイアおばあちゃんのクロノスへの命令なのですが)。そしてその男性器の周辺の泡(アプロス、aphros)から生まれたのがアプロディーテー。

 

 

ここからギリシャ神話に関する面白い話を延々と続けたいのですが、一旦「アンチ・オイディプス」へ。

 

アンチ・オイディプスというのは、ドゥルーズとガタリによる著作の名称です。

 

 

 

 

この研究では、題名でも示されている通り、フロイトが主張したエディプスコンプレックスの学説に対する反論として読むことができる。ここで議論の中心となっているのは、人間の無意識の欲望の概念である。フロイトは、人間が児童から大人へ移行するときや、社会が未開状態から文明状態へと移行するとき、欲望がどれほど抑圧されるのかを判断の基準においていた。つまり、欲望を抑制するほどに人間は大人であり、社会は文明状態であると判断していた。したがって、人間の欲望あるいは無意識とは、「欲望する諸機械」で、エディプスコンプレックスという欲望の抑圧を家族という社会的単位に留める装置が働く中でしか是認されないと考えられてきた。このような欲望の概念は、近代においてルネ・デカルトやトマス・ホッブズが人間に備わっている情念のある主の実体を指す考え方に根ざしたものであった。ドゥルーズとガタリは、この説に対して、無意識の欲望の概念を再検討し、欲望とはそれ自体で成立している実体ではなく、ある関係の中で存在するものであると考えた。そして、欲望をさまざまな事物を生産する機械として定義している。この見解によれば、エディプスコンプレックスは、フロイトの弟子ラカンが言うように人間が原初的に備えているものではなく、社会的な発明によるものである。Wikipedia

 

*僕が子供の頃に親しんでいたのはこの装丁だった気がする。

 

*もしくはこっちかな。

*今から(そして再び)読む方はこの合本版のKindleを

「アンチ・オイディプス」とは、端的に言えば、アンチ・エディプスコンプレックスということ。そこからアンチ・フロイトに至ります(多分)

 

 

オイディプス王とは近親相姦の王であり、父親殺しの王であり、探偵であり犯人、奥様であり母親を持つ王です。

 

 

 

 

それを模して、アンチ・オイディプスならぬアンチ・ウーラノスです。

 

社会的な抑圧が進めば進むほどそれは大人であるというフロイト先生に対して、社会的な去勢が進めば進むほどそれはキリスト教的である、もとい、社会的洗脳の順応者であるという批判があります。

社会的知性を纏(まと)うのと、本当に欲望を抑圧してしまうのは異なります。

(「いただきます」の精神です。お命を頂戴するからこそ、そこに強い儀式性が必要なのです。それは燔祭であるべきなのです)

 

ああ、ここでフレーザーを持ち込みたくなります。

フレーザーは王を「祭司であり殺人者」と言います。

 

    

彼は祭司であった。同時に殺人者でもあった

 

 

ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』には「王殺し」についてこうあります。

王となったものもまた次の王となりたいものに寝首をかかれると。

 

(引用開始)
この聖なる森の中には一本の樹が茂っており、そのまわりをもの凄い人影が昼間はもとより、多分は夜もおそくまで徘徊するのが見うけられた。手には抜身の剣をたずさえ、いつなんどき強襲を受けるか知れないという様子で、油断なくあたりをにらんでいるのであった。彼は祭司であった。同時に殺人者でもあった。いま彼が警戒をおこたらない人物は、遅かれ早かれ彼を殺して、その代りに祭司となるはずであった。これこそこの聖所の掟だったのである。祭司の候補者は、祭司を殺すことによってのみその職を継承することができ、彼を殺して祭司となった暁には、より強く老獪な者によって自分が殺されるまでは、その職を保つことを許されるのである。

 この不定的な享有権によって彼の保つ地位は、王の称号をも併せ有していた。
(引用開始)(フレイザー「金枝篇」ほぼ冒頭です)

 

 

なぜ、この金枝篇を取り上げるかと言えば、勘の良い方は気付かれたように、同じ構造がギリシャ神話にもあるからです。

 

ウラノスがクロノスに追放され、

クロノスはゼウスに追放され、

ゼウスは、、、、

 

いやゼウス様は追放を免れて未だに全能の神の座にいます。

 

しかし、そのゼウスも本来の運命は追放でした。

 

それを防いだのはプロメテウスの箴言があったとか、なかったとか(♫少女の悲鳴にも似た叫び声が聞こえるとか聞こえないとか♫ 蝋人形の館:聖飢魔II)。

 

プロメテウスと言えば、世渡り上手な弟の名前がエピメテウス。プロメテウスが先んじて考えるのに対して、エピメテウスは後から考える。すなわち、後知恵バイアス君です。

 

ギリシア語で「προ(翻字: pro、先に、前に)」+「μῆτις(翻字: mētheus、考える者)」と分解でき、「先見の明を持つ者」「熟慮する者」の意である。同様に、弟のエピメーテウスは「epi(後に)」+「mētheus」に分解でき、対比的な命名をされている。Wikipedia

*お兄さんは人間に火を与えたりしたのに、それでゼウスにキレられて永遠に肝臓を食べられる刑に処されています。

 

いや、これだと永遠に本題に入れない。

プロメテウスが永遠と肝臓を食べられるように、永遠と本題に入れないので、デウス・エクス・マキナに強制的に終了します!

 

タイトルにもあるように、ずっとモテキな人っています。

受け身でも、自分がハントしなくても、向こうから押し寄せてきてしまう人っています。

逆にそうすると、自分の内なる衝動を感じることなく、流れ作業のように道を歩いてしまう人がいるのです(僕の前に道はない)。

 

 

そうすると、社会から要請されているから、周りから期待されているから、役割を間違えて演じてしまったりするわけです。アメフトのQB(クオーターバック)とチアリーダーのトップが周りから持て囃されて付き合ってしまうような。

 

 

 

そこに愛があれば、良いのですが、他者の視線によって構成された自分しか無ければ悲惨です。

孤独になると、自分を見失います。

他者との縁によって生かされているのは事実ですが、ここで指摘しているのは他者の視線のみを自分の欲望とすることの問題提起です。

 

それによって引き起こされた心身の状態を仮に社会的去勢と表現しました。

 

他者の視線をエポケーして、「自分が好きだから好き!」で良いのです。誰が何と言おうと。

 

そうでないと文字通り、勢いが去るのです。

 

思春期と呼ばれるホルモンの暴風雨を経験しなかったり、「甘酸っぱい」と表現するには苦すぎる恋の苦痛(苦い痛み)を経験できなかったりするのです。

 

小林秀雄の言う通りです。恋しか人を成長させません!

 

 

 

というか、本当に面白い技術なので、また配っていきます!!!体験してください!!!

 

 

【ブログ紹介〜シュン君覚醒!】

良い記事です!