「表の学びがあれば、裏の学びがあります。」と書いたのが、2023年6月2日のことでした。
そこから2年。
待望の裏Tスクールの開講です!!!!
「裏T」とは何か?という大事な問題に答えないままに開催の日が来てしまいました。
そして初日はその解説に終始しました。その解説をすることが、裏Tを理解する最良の方法だからです。
表の学びがあれば、裏の学びがあります。
T理論完全マスタースクールが終わり、そこからひたすらに(狂ったように)動画を視聴し、そしてグラフを描き続けている人々の成長が著しいです。
彼らの存在ゆえに裏版のT理論の扉が開きました。
(略)
One more thing!
「エネルギーが流れる」というタイトルのEnergy Flowというのは僕にとっては感慨深い作品なのですが、それを辻井伸行さんが演奏されていました。
もちろん教授による演奏も味わい深いです。
(余談ながら、歌舞伎タワーの映画館の音響や音楽を坂本龍一さんが監修されています)(それもあってか、この5月いっぱいまで「戦場のメリークリスマス」と「ラスト・エンペラー」を上演していました)
サティと言えば、、、、と(裏Tスクールで)受講生に聞いてみたところ、シュンくんが答えてくれたのがこの「ジムノペディ」でした。
まさに!!
*サティと言えば、こちら!誰もが好きな一曲!
*サティ:3つのジムノペディ~第1番(Nobuyuki Tsujii - Erik Satie: Gymnopedies)
先日のIBCガラ公演では幸江さんがサティの曲で踊りました。
その一週間後のサントリーホールでの吉川さんのピアノでもサティの曲が演奏されました。それが ベジャールの「M」の印象的なシーンの曲でした(その話題が2人の間で盛り上がりました。吉川さんもベジャールの「M」は映像で観たことがありました。幸江さんは「M」でも重要な役を踊っています)。
サティがいかに傘を愛していたかを知ると、この「傘は私をなくして、とても心配しているに違いない。」というつぶやきがメタファーでも奇をてらっているのでもなく、素直な気持ちであることが見えてきます。
サティについても、裏Tについても書きたいことはたくさんあるのですが、セッションの時間なので、またの機会に!
あ、なぜここでサティかと言えば、これが裏Tっぽい言説だからです。
*ああ、結局、ブログのほぼ全文を引用してしまった!!!!(手抜きすぎる!)
2年前にも申し上げているように、裏Tと言えば、「傘は私をなくして、とても心配しているに違いない。」という感慨です。
リップルマークなわけです。
我々は宇宙に人格を見てしまうのです。
ここで裏Tスクール受講生のために、「失われた時を求めて」のプルーストの一節を引いて終わります!
私はケルトの信仰が実に理に適っていると思う。それによると、亡くなった人の魂は、動物とか植物とか無生物とか、なんらかの下等な存在のなかに囚われの身になり、われわれには事実上、失われている。ところが多くの人にはけっしてめぐって来ないのだが、ある日、木のそばを通りかかったりして、魂を閉じ込めている事物に触れると、魂は身震いし、われわれを呼ぶ。そしてそれとわかるやいなや、魔法が解ける。かくしてわれわれが解放した魂は、死を乗り越え、再度われわれとともに生きるというのだ。
われわれの過去もそれと同じである。(p.110 プルースト作 吉川義一訳『失われた時を求めて1スワン家のほうへⅠ』)
*2017年、2019年、2021年と書いてきて、2025年に再登板!
この感触こそが、そしてこれが「神話」ではなく、リアルである(これもまた裏Tというシンの意味での神話)ということが重要です!!
だからこそ「ところが多くの人にはけっしてめぐって来ないのだが」とあるのです。そして、めぐってこないからこそ「われわれには事実上、失われている」のです。
あ、もう一つ!
裏Tにおける奥義の一つである「花束を君に」とは過去現在未来の世界線(エヴェレット)を束にして握るイメージですが(←奥義をさらっと書いている)、そのイメージとは、エド・シーランの「スーパーマーケットの花(Supermarket Flowers)」にも重なります。Supermarket Flowersとはお祭りのときに使われる藁の犬(芻狗:すうく)なのです。
「スーパーマーケットの花(Supermarket Flowers)」という曲があります。
(略)
非常に個人的な歌ですが、非常に心を打ちます。
アルバム「÷」をレコーディング中に亡くなったお祖母様を追悼した歌です。
レコーディング中に幾度も病院にお見舞いに行ったそうですが、看取ることはできなかったそうです。
お祖母様のパートナーであるお祖父様からお葬式のときに、このことは記録に残した方が良いと言われ、ギターを取って作ったのがこの曲だそうで、エド・シーラン自身の視点ではなく、自分のお母様の視点から描かれた歌です。
エド・シーランのこの素晴らしい作品が、自分のための書かれた曲だと思うくらいに聴き込むことは大切です。
その地平に移動できると、世界中の偉人の絞り出す言葉が全て自分へのオラクルに感じます。
そして実際にそうなのです。
(引用開始)
But mum, there's a tear every time that I blink
Oh, I'm in pieces, it's tearing me up, but I know
A heart that's broke is a heart that's been loved
【芻狗】
蛇足とは思いつつ、「芻狗(すうく)」って何という方に以下にご案内を!
では、我々はどこに安寧を求めれば良いのか?
巨大サーバーはリニアにしか増加しませんが、ネット空間の使用状況は指数関数的です。
どこかで成長の限界が来ます。
どうすればよいのでしょう。
この答えもすでに2500年前には明らかにされています。ただ我々がそれに聞く耳を持たないだけです。
無情もとい無常ということです。老子という人はシンプルにこう言います。
天地は仁ならず、万物をもって芻狗(すうく)となす。聖人は仁ならず、百姓(ひゃくせい:人民の意)をもって芻狗となす。
現代語訳は
「天地に仁愛などはない。万物をわらの犬として扱う。聖人に仁愛などはない。人民をわらの犬として扱う」(以上、老子第五章。出典は下記のリンクを)
たしかに大宇宙は万物をわらの犬程度にしか見ないでしょうし、それは人間に対しても同じです。
同様に我々が理想とする人間像もまた、お祭りのときに一時(いっとき)だけつくられて、消費されていく「わらの犬」として人を観るということです。
もちろん自分自身も宇宙も「わらの犬」でしかないという諦観と共にです。
わらの犬とは我々の言葉で言えばファンクションということです。関数であり、機能ということです。永遠に不滅なのは「わが巨人軍」とセゾンカードのポイントだけで、アプリオリで永遠不滅なものは存在しないのです。諸行無常なので。
それをヘラクレイトスは「万物は流転する」と言いました。もちろんその背後に普遍の存在としてロゴスをヘラクレイトスは想定していますが、ロゴスもまたファンクションでしかありません。
「同じ川に二度と入れない」と言ったのはヘラクレイトスだったかと思いますが、このときに不動点として存在している(概念空間に存在しているところの)「川」がロゴスです。可能世界での固定指示詞が「川」であり、ロゴスです。ですから不変なアプリオリでは毛頭なく、むしろそのように「要請される(ユークリッド「ユークリッド原論」)」のです。
すべてを残したいというアイデアは永遠に生き続けたいという煩悩、もしくはホメオスタシスの当然の帰結の一つでしかないということに思い至れば、心安からに生きられるのではないかと、今年3月に買い替えたばかりなのに、うっかりと液晶を壊してしまったばかりに御臨終を迎えそうなMacBookProでこれを書いていますw







