事実は小説よりも奇なり | ricky321のブログ

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云い古されたことばであるが、言い換えれば「ノンフィクションはフィクションに優る」ということではないだろうか。丹羽宇一郎が、書店の息子として生まれ、年少の時から乱読を続けてきたが、社会人になる頃には、小説はもう卒業してもいいかな、と思ったそうである。これは分かる。いくら小説愛読家であっても、優れたノンフィクションを読めば、所詮小説は作り物に過ぎないのではないか、と思う時が来る。以前にここで書いたとおり愚生は常に読みかけの本が数冊ある。この中には小説はもちろんだが、雑誌やノンフィクションも大概は混ぜている。1冊の本だけに感心したり、また絶望したりというのを防ぐ効果がある、と勝手に自負している。以前掲示板で、エンタメ系の小説だけを年間100冊読むことをノルマ化しているという人がいたが、こんなのは、愚生はできないし、辞めた方がいいと思う。また、非常に失礼ではあるが、ブログで小説を書く方をお見受けすることがあるが、ドツボにはまりやすい。たまには小説ではなく、それこそ日記のようなもの、随筆であるとか混ぜて書いたほうが視野が広がると思うのだが。

 

『科挙』宮崎市定/中公新書19-111
★★★★長く読まれて版を重ねているだけあっておもしろい。著者が亡くなって20年以上にもなるが、焦点を絞って書かれた本は色あせない。ただ、これは中国の話であるから、今日の中国人がどう評価しているのか、現地の知識人に取材してあれば、もっといいのだが(1963年で日中の国交がなかったので致し方ない面もある)、と惜しまれる。
童生がおかれる試験場の過酷な環境、解答用紙を雨に濡らさぬよう、蝋燭で焦がさぬようにしなければならなかった、などというリアリティ。また、興味深いのはカンニングをはじめとした‘不正’の数々で、かなり紙面を費やしてあるが、これこそ社会の‘歪み’を映し出している。浅田次郎『蒼穹の昴』で科挙の話が出てくるが、この事実の重みには適わない。
予想できたことではあるが、科挙に何回臨んでも合格できなかった例として、魯迅の小説の主人公の孔乙己(こういっき)を挙げている。もちろんインテリで、自尊心だけは立派だが、盗みを働くなど悪事に手を染めている。こういう清朝末期の奇矯な人物を魯迅は実にうまくこしらえる。阿Qといい、‘狂人’といい、打破すべき旧社会を象徴する人物が強烈なのである。ノンフィクション云々から書き始めたが、改めて魯迅作品の秀逸さを考えた。