先日、東京で『陰陽五行でわかる母親像~グレートマザーから地母神まで~』という演題で講演会をやりました。
母ということから女性という意味合い、そして男と女で陰陽ということ、そして究極には男女の合体で陰陽和合ということ…などについてもお話をしたのですが、今日はそこからほんの一部を紹介したいと思います。
エロ話といっちゃあなんですが、みなさんは不思議に思ったことはありませんか?男性のあそこ、つまりチンポコはこのように平気で口に出したり書いたりできるのに、女性のあそこつまり○○○○(関西地方では○○○、九州では○○)…は、はっきり言ってNGワードです。私もひと昔前までは一種のフェミニズム的な発想から女性に失礼だという理由で口に出せないものだと思いこんでいました。しかし、陰陽五行を学ぶことでその理由を知りました。実はここには深い理由があるのです。
陰陽五行からわかる私たち人間存在の最終的な目標はやはり「陰陽和合」なのです。陰と陽は互いを必ず互いを求める。そして和合することで新たな次の一歩が始まる。それは人間で言えば男女がひとつになって赤ちゃんという新たな人間ができていくことに一致します。これを精神面に応用したのが心理学者のユングです。意識と無意識が合体することで自己(セルフ)という本来の自我が生じ、そしてこれを「個性化」と呼び、精神性を高め安定するための目標としたのです。ユングが参照したものとして西洋中世に流行した錬金術というものがあります。金属が火によって溶かされて新たなものへと姿を変えていくことから、非金属を貴金属に変えていく作業ともいわれるが魂の変性過程を捉えた方法論ではないかという点に着目したわけです。
陰陽和合によって新たな生命を生み出す力は陰陽の協力によってできるのですが、おおもとの力はどちからというと陰の方に宿るというのが基礎的な考え方です。そして当然ながらこれは女性の力にたとえられます。
古人は、これをもっとシンプルに女性の性器の力ととらえました。男性はその力に動き出すきっかけをつくる存在にすぎないのです。
言い換えると、何かを生み出す暗黒の洞窟があって複雑に入り組んでいるのです。そこに入っていくには、松明がいるのです。男女の性器は、この洞窟と松明の関係だというわけです。
洞窟と松明、このスケールの違いがおわかりでしょうか?私がこのケースにおいては陰のほうが巨大な力であると説明したことがよくわかると思います。
古代インドでは男女の性器をリンガとヨニという言い方をします。有名なシヴァ神という神にはラクシュミーという奥さんがいます。この夫婦がよくリンガとヨニに例えられるのですが、なかでも奥さんのラクシュミーには注目すべき点があります。ラクシュミーの絵姿は必ず蓮の上に立つのですが、まずこの蓮がヨニの姿そのものであり、おだやかな時の女性性器であるとされるのです。しかしいったん激しくなると(たとえばセックスの最中)、姿を変えます。それはカーリー神ともドゥルガー神とも言われますが、その絵姿を見た方は驚くと思います。舌をだらりと下げて髑髏を首からぶらさげた恐ろしい魔女なのです。一般的にはラクシュミーとカーリー(ドゥルガー)で女性の二面性を示すと言われていますが、実は女性の二面性と言いつつ、実はその性器の力(シャクティー)をさしているのです。ということは、魔女的なカーリーの姿は、洞窟に近づく松明を飲み込み吹き消してしまう巨大なエネルギーであると同時に新たな生命を生み出す大いなる力でもあるということなのです。
そんなわけで、女性性器には生命を奪う力も新たな生命を生み出す力もそなえているというわけで、冬には殺し春には産み出すという大地の力と一致した地母神の力を見ることができるわけです。
だから、女性性器は偉大であるし、うかつにその名を口に出してはいけないというわけなのです。
その延長上に、地母神を魔女と誤解してしまう民間信仰が生じました。有名な所では、ダキニ天と言われる仏教系の女神様がいますが、その本体は地母神です。ダキニ天は死肉を喰らい、セックスの力を司ることになっており、暗黒にうごめく魔女のイメージで一般的にはとらえられています。
稲荷神にもつながるし、烏天狗でも有名な飯綱権現にもつながっていきます。しかし、こういった流れはすべて地母神の「殺し、かつ産む」という力の理解から派生したものです。殺すとはいっても再生のためにいったん墜とし込むということです。
しかし日本の信仰は西洋よりも、なんとなくゆったりとしており、西洋では悪魔崇拝だと言って白い目で見られるようなものが、普通にまかりとおっている所があります。鬼子母神とか、夜叉を祭ったりするのもそのひとつでしょう。だから上記のような魔女的な存在も単に悪魔としてとらえられずに済んでいるのかもしれません。
江戸時代にはどうしても叶えてほしいお願いをするには女性があそこをポンポンと叩くという奥の手があったそうです。つまり地母神への直訴というわけです。シャモジや柄杓を祀るのも、あそこを象徴したものとしてだそうです。
私はこういうのは、なんかほのぼのとして、とても良い感じだと思います。エロとも取れる話が昇華されつつ、また卑近でもあり、身近であるようで。
このように、ゆたかな女神さまが私たちには密接に存在しているということを知っておいてもらえればと思います。