聖徳太子 | だるまんブログ

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生きる知恵である陰陽五行についてだるまんと語るブログ。『だるまんの陰陽五行』(三冬社)より発行。

本日、2月22日は聖徳太子の命日です。西暦622年の2月22日、没したのです。聖徳太子というと、仏教を初めて日本に広めた人というような理解をされているのですが、私はどうもそれだけではないと思っています。

聖徳太子の仕事として有名なのは冠位十二階とか十七条の憲法ですが、その他に先代旧事本紀という膨大な歴史、思想書も太子のブレーンである秦河勝と共に編纂したのではないかという説があります。説と言っているのは、現在のところ、先代旧事本紀というのは偽書ということになっているからです。なかでも先代旧事本紀の大元ともいわれる大成経にいたっては、江戸時代には何度か禁書にされています。
そして、現在残っているところの先代旧事本紀を見ると、その内容はむしろ陰陽五行的な内容がほとんどです。太子のやったことのうち、冠位十二階も五行そのものであることにも気づきます。
五行の象徴する色である青、赤、黄、白、黒を「木」「火」「土」「金」「水」の順で地位の高い順番にふっています。そしてさらにその上に「徳」という位を置き紫色の位階を設けているのです。紫という色は「水」の一部になるので一番下の位階である「智」が一番上に循環してつながっているとも取れる考え方です。

ここまでくると、太子は仏教をひろめたのではなく、陰陽五行をひろめようとしていた…という事もありえることになります。しかし、仏教だろうと陰陽五行だろうと海外のものです。ミスター日本ともいえる聖徳太子は実は海外思想のスポークスマンだったということになります。しかも、太子の存在すら虚構だという説すら現在ではあるのです。

ところで陰陽五行というのは中国のもので、それが日本に伝わったということになっています。なかでも聖徳太子の時代に日本に訪れた中国の僧である観勒が暦を持ち込み、このときに陰陽五行の考え方も入ってきたことになっています。これが平安時代に花開いて日本の五行である陰陽道へとつながっていった…というのが一般的な歴史観です。しかし、もし、陰陽五行は中国だけのものでないとしたらどうでしょう?『幽真界研究』という本の中で、著者である勅使河原大鳳氏は日本にあった三元論などの五行の元になる思想は霊智が開けてないと理解できなかったために中国の体系化された五行のほうが一般的に使われることになった…と述べています。

ここで、以下の仮説を立ててみます。陰陽五行と同じ思想は日本にもあって、太子はそれを深く研究していた。その結果を先代旧事本紀などに記しつつ、日本人の思想的背景を完成させた…と。仏教は、体系的に構築されているので法令的に扱うのに都合がよく、多いに引用したのだと思います。太子の仏典の講釈は現在もいくつか残っています。しかし仏教だけではなくキリスト教的な愛の発想も「和」という形で十七条憲法にも生きています。従って、太子は中国伝来の仏教を国のものとして広めた…というのではなく、日本古来のものを生かしつつ、真に役立つものとして仏教やキリスト教をブレンドして人々に広めようとしたのではないか…ということです。

日本という国は、日本独自の良いものをどうも否定したがる癖があります。前回も書いた神事である相撲を海外的に通用するようにスポーツとしてしまったり、戦争責任を、ヒステリックなまでにひたすら自己否定で貫こうとしたり、あげくのはては古代の日本独自の文化の存在すら否定したり、敗戦時には日本語そのものをなくしてしまおうという論議すらあったと聞きます。

実は同じく偽書とされるものとして古事記や日本書紀以前に編纂されたとされるホツマツタエという文献があります。ここには日本独自の五行として「五元」というものが出てきます。これは言葉は違えど、五行とまったく同じものです。海外の錬金術にも五行と似た四大と第五元素という考え方がありますが、広く深く大自然と森羅万象を見ていれば五行的な発想が浮かぶのはどこの国だろうとありえることなのです。聖徳太子ともあろう人が、このことに気づいていなかったわけはない…と私は思うのですが、みなさんはいかがでしょうか?

大阪の太子町には太子の墓とされるものがあって、私はそこにも行ったことがあります。「だるまんの陰陽五行」にも書いたように、国津神はいびられて復活する…という原則があるので、太子にも同様なイメージをついつい感じてしまいます。本当の私を知って欲しい!…そう太子が語りかけている気がします。そして太子の思想が復活し、本当の善き日本となれる日が来るのでは…。そんな期待をしてしまいます。