日本国の広範囲にわたる幾つもの「北斗七星」の結界を張ってゆく過程と、それに関わる興味深いことがたくさん書かれている。「蝦夷は、縄文人たちの末裔」とばかり思い込んでいたチャンちゃんは、津軽地方に張られた「北斗七星」結果に関する記述を読んで、ビビった。そして、大祓い祝詞にある「大倭日高見國」という表現に、すこぶる納得することができた。2022年2月初版。  

 

 

【北斗七星の結界作用】

 北斗七星というのは柄杓の形をしていて、水を汲む「合」の部分と長い柄の部分からなっていますが、・・・(中略)・・・7個の星のうちの4個が「合」の部分、残りの3個が「柄」の部分にあたります。・・・(中略)・・・、この「合」の先端を相手に向くように北斗七星を描くと、相手からの悪い作用をシャットアウトする働きがあります。これが陰陽師の作法です。(p.15-16)

 「だったら、北斗七星は、天空の中心である北極星の悪い作用をシャットアウトすることになっちゃうじゃん」とパープリン系のチャンちゃんと同じような🐙な連中は思うのだろうけれど、結界というものは、悪い作用を封印しても、良い作用は逆にその働きを強める働きをするもの。ご心配なく。

 ところで、陰陽師による北斗七星結界の技を介して、かつて語られてこなかった縄文時代から弥生時代となる頃の日本史の真実が、この記述を鍵として見えてくることになる。

 

 

【江戸に北斗七星結界を張らせた徳川家康】

 陰陽道の北斗七星の結界がなぜ古くから東京に張られていたのでしょうか。

 伝承をたどっていくと、それを最初に作るように命じたのは徳川家康で、江戸城や江戸の町を築く際に天海僧正に命じて結界を張らせた、ということです。(p.17)

 徳川家康は、若い頃、中国にわたっていて、当時に中国の優秀や技術者や学者を日本に連れてきていた。天海僧正はその中のひとりで、彼らの力によって、当時、沼地だった江戸に良田が整備され大都市へと変貌していった。当時、江戸から先の東日本側は未開の地だったのだけれど・・・

 アラハバキ族と呼ばれる力が強い蛮族に脅かされながらこの地を命がけで開拓していくことになります。こうした蛮族が西の方にやってこないようにしなくてはならない、・・・(中略)・・・、蛮族を抑えるために陰陽師の力を総動員して守らなければならない、と天海僧正に命じて結界を張らせることにしました。(p.19-20)

 徳川家康と天海僧正と北極星に関連する横道リンク。

  《参照》 『古代天皇家「八」の暗号』 畑アカラ (徳間書店) 《後編》

         【家康は北極星】

  《参照》 『世界支配者vsライトワーカー』 サアラ×玉蔵(ヒカルランド)《4/4》
         【比叡の人脈】

  《参照》 『なぜ日本中枢の超パワーは「天皇」なのか』中丸薫・ベン・アミー・シロニー《後編》

         【明智光秀と徳川家康】

 

 

【坂上田村麻呂は陰陽師】

 坂上田村麻呂という人物は実は陰陽師で、陰陽道の作法や技術、呪術などを全て知っていたのです。(p.20)

 坂上田村麻呂の蝦夷討伐の際には胆沢城の築城をはじめ、その進路にも陰陽道の作法が用いられています。・・・(中略)・・・。胆沢城から結界を張りながら岩手から青森の方へと進軍していきます。その名残は、一戸、二戸、・・・八戸という東北各地の地名に残されています。この順番通りに坂上田村麻呂は進軍していったわけです。(p.21)

 《参照》 『日本国史(上)』田中英道(育鵬社)《後編》

        【朝廷と東国(日高見国と蝦夷)】

        【日本武尊と坂上田村麻呂】

 《参照》 『火怨(上)』高橋克彦(講談社)

        【坂上苅田麻呂】

        【阿弖流為と坂上田村麻呂】

 《参照》 『願いをかなえる「縄文ゲート」の開き方』保江邦夫(bio)《前編》

        【坂上田村麻呂とアラハバキの末裔たち】

 

 

【縄文人と弥生人の違い】

 縄文時代と弥生時代のそれぞれの遺跡から発掘される人骨を比べてみると、縄文人の人骨は矢尻がささった跡などはありませんが、弥生人の人骨には石斧によって砕かれた跡など戦いによって亡くなった形跡が見受けられます。このことから、大陸から渡って来た弥生人は暴力によって人を殺すことができた民族であり、縄文人はそれができなかったことがわかります。(p.23)

  《参照》  『縄文からまなぶ33の知恵』はせくらみゆき(徳間書店)《前編》

         【土器:焼成の技】

 

 

【蝦夷は縄文人か?】

 平安時代に坂上田村麻呂が桓武天皇に命じられて蝦夷征伐した相手が北海道にいるアイヌ民族や東北地方にいる縄文人たちの子孫だと、ほとんどの人がそのように理解しているかもしれませんが、それでは話が合わないのです。(p.24)

 縄文人は戦いを嫌い、戦うよりは逃げることを選ぶ人たち。それで北海道や九州、沖縄まで逃げて行っておとなしく生活しているのに、そういう人たちが奈良時代、平安時代、あるいは江戸時代に蛮族になって、自分たちから戦いを仕掛けてくるというのでは矛盾が生じます。(p.25-26)

 大陸から海流に乗ってやって来た弥生人たちが、日本の中央を支配するようになり、日本列島の南北(沖縄・北海道)に追いやられたのが縄文人であるという見解は、今日、DNA解析の結果、正しい見解であると認められている。

 しかしながら、「江戸時代以前は未開の地だった東北地方にいた蝦夷は縄文人である」という見解は、おかしいといっている。蝦夷の行動形態は、縄文人のそれではなく弥生人のそれだから、というのが理由。

 であるなら、蝦夷のルーツもまた大陸ということになるけれど・・・。

 

 

【大陸か半島か:2つの海流】

 弥生人が日本に渡って来た縄文時代の終わりの時代は中国では春秋戦国時代にあたり、ちょうど呉が越に敗れて滅亡した頃にあたります。呉は揚子江から南の東側を支配していた国で、・・・(中略)・・・、この呉の人たちが国を追われて潮の流れに乗って日本に船でやってきたと考える方が、対馬海峡を渡ってきたと考えるより現実的です。

こうしてやってきた大陸からの渡来人である弥生人は九州に上陸して瀬戸内海から京都や奈良に上がっていくわけですが、その過程は『古事記』の神武東征に書かれている通りで、・・・(中略)・・・縄文人を征伐しながら、・・・(中略)・・・弥生系、つまり大陸系の人たちが支配していき、やがて大和朝廷を樹立。(p.28-29)

 中国大陸の揚子江以南の地点から出発し、海流に乗れば、日本の太平洋側や九州付近に漂着しやすい。

 日本が弥生時代であった頃、朝鮮では高句麗や百済、新羅という国が治める時代でした。・・・(中略)・・・。日本には中国大陸からだけではなく朝鮮半島から海流に乗ってきた人たちもいたわけです。・・・(中略)・・・。そのほとんどは日本海流の影響で若狭湾や能登半島、佐渡島、そして秋田などの東北地方にたどり着いた人の方が多かったのではないかと考えられます。(p.30)

 対馬海峡を流れる日本海流の流れは速いので、スクリューなどない当時の船で朝鮮半島から漕ぎ出た場合、東側に流されてしまい、北九州に着くことは困難。着くのは佐渡島、秋田、青森(津軽)になる。また、秋田美人といわれる人々について、白系ロシア人の血が混ざっているからと思っている人が多いけれど、これも違う。朝鮮系の血が混ざっているからである、と書かれている。

 まとめると、

 弥生時代当時の日本には、中国の揚子江以南からやってきて、西日本・表日本を支配した大陸系(中国系)の人々、と、朝鮮半島からやってきて、東日本・裏日本に定住した半島系(朝鮮系)の人々がいたということ。

 この区分は、中東をルーツとする秦氏系と物部系とも混ざり合って、日本の深層を構成している。

 

 

【蝦夷は、朝鮮半島勢力の弥生人】

 つまり、坂上田村麻呂が大和朝廷に命じられた蝦夷征伐の相手、蛮族とは縄文人である今のアイヌの御先祖ではなく、朝鮮半島からやってきて若狭湾から秋田のあたりまでを支配した百済や高句麗の一族だったのです。こうした一族が東北地方に一大勢力を築き、そこから日本全国を統一しようとして青森から太平洋側を南下してくる動きがあった。その動きを封じることが征夷大将軍である坂上田村麻呂の任務だったわけです。(p.34)

 これを読んで思い出したのが、蝦夷の首領・アテルイが拠点とした岩手県の胆沢城近くにある陸中一宮・駒形神社のHPに書かれていた、「駒形」の「こま」は、「高麗」が元であって「お馬さん」ではない、という内容。

  《参照》  駒形神社

 

 

【「青森ねぶた祭」と「秋田竿灯祭」】

 どちらも大きな灯篭である「ねぶた」や「竿灯」が祭のメインとなっていますが、これは坂上田村麻呂が結界を張る際に用いた陰陽師の呪術作法の一つが祭として残されているものです。(p.34)

 であるなら、「青森ねぶた祭」と「秋田竿灯祭」の今日的意味は、青森や秋田の中央進出を阻止する祭り、ということにもなる。観光客が来てくれたら、それでいい・・・の🦆。

 

 

【アラハバキの語源】

 また坂上田村麻呂は蝦夷征伐する相手を「アラハバキ族」と呼んでいました。これは、現地の人が話していたのを聞いてそう呼んだのではないかと考えられています。「アラハバキ」の呼び名もこうした百済や高句麗の言葉が語源なのではないかと思います。(p.38)

 「アラハバキ」が、百済や高句麗の言葉で、何を意味するのかは書かれていない。

 

 

【大北斗七星伝説】

 坂上田村麻呂の蝦夷征伐の痕跡や国家鎮護のために張っていた結界については、様々な書物や伝承などにも残されています。

 古くから津軽地方で言い伝えられているのは「大北斗七星伝説」と言われるもので、津軽地方を鬼神から守るために7社の神社を建立したとされています。その7社とは青森市の「大星神社」と「浪岡八幡宮」、平川市の「猿賀神社」、弘前市の「熊野奥照神社」と「岩木山神社」及び「乳井神社」、西目屋村の「鹿島神社」で、熊野奥照神社の社伝によると「津軽地方は王城の鬼門にあたることから古くから鬼神の蜂起が発生して庶民を脅かすことがあり、・・・(中略)・・・、7社を北斗七星の形に配し、星の威光を借りて鬼神を封じたという」という記述とともに古文書にもその配置図が記載されています。

 ここに記されている「鬼神」とは、坂上田村麻呂が「アラハバキ族」と呼ぶ人々、つまり百済や高句麗からやってきた人々だと僕は考えます。(p.40-41)

 「大北斗七星」の結界を張りなおした際、いくつかのフェイクがあったことが書かれている。「熊野奥照神社」は「熊野神社」、「鹿島神社」は「諏訪神社」、また「岩木山神社」は本殿ではなくその裏手にある「白龍神社」が本当の場所だったと書かれている。

 ところで、津軽地方に張られていた「大北斗七星」の結界が、縄文人の侵入を防ぐためであったのなら、北斗七星の「合」の先は、北海道の方向を向いているはず。ところが、この7社を結んでみると、「合」の先は、逆の方向、すなわち北海道ではなく、秋田の方向を向いていた。

 であるなら、坂上田村麻呂が施しておいた「大北斗七星」の結界は、明らかに朝鮮半島勢力の封印を意図していたことになる。陰陽師だからこそ語りうる史実。

  《参照》  『鬼神まもり』まさよ(KADOKAWA)

          【鬼神社】

 

 

《後編》