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 海外でビジネスに携わっている人でHSBCの名を知らない人はいないだろう。ビジネスマンではなく一般人でも、海外旅行に行ったことがある人は、たいてい諸外国の空港でHSBCという文字を見ているはずである。
 古書店で見つけて、「何か面白い情報が見つかるかも」と期待しつつ読んでみたけれど殆どなかった。2006年3月初版。

 

 

【HSBCの始まり】
 香港上海銀行(以下HSBC)の歴史と遺産は、世界のトップクラスの金融機関のなかでも異彩を放つ存在である。19世紀半ば中国大陸沿岸の英国商人たちが中心となって、清国と欧州や北米との間の貿易にファイナンスすることを目的として香港に設立されたHSBCは、設立当初から、アジアの主要な金融機関として機能してきた。今日、HSBCを中核メンバーとするHSBCグループは、世界の最大級の銀行・金融企業集団の一つとなっている。(p.1)
 きれいごとな表現で書けば上記の通りだけれど、真実は下記リンクの経緯である。
             【HSBCの始まり】
 英国商人たちは、グラスゴーで積み上げた経験知を生かして、東アジアの香港や上海に進出して来たのだろう。今日では、「ユニオンジャックの矢」構想の中核となっているであろう巨大な金融グループである。
   《参照》   『最後の黄金時代が来た』 今井澂 (幸福の科学出版)

             【イギリス人の投資における経験知】

 中国人や台湾人はアルファベットを使わないので、HSBCと言ってもほとんど分からない。
 中国圏の看板は漢字が殆どだから、どういう漢字なのか知ってないと、今度は日本人が中国現地で分からない。
 香港ではウェイフーン(□豊)―― 中国語で富の中心あるいは潤沢な為替を意味する ―― と呼ばれるように、HSBCは香港で設立された銀行では最大であり、香港の発券銀行三行の中で、発行シェアは62,9%を超えている。(p.3)
 ウェイフーンのウェイは、日本で使われている漢字にはないので□にしておいた。
 正しくは、「漚」という漢字の「品」の部分を「唯」という字から「口」を取った部分に置き換えたもの。

 

 

【本支店の開設】
 HSBCの開設は、植民地主義の時代だから、いきなり世界展開である。
 1865年春の香港本店及び上海支店開業に続いて、夏にロンドン支店が開設された。その後2,3年間に世界各地に支店や代理店網が構築された。この店舗展開は、基本的には清国及び極東を重点に置くものであったが、また、欧州、米国、及びインドの主要な金融及び商業中心地にも拠点を設けようとするものであった。支店を開設したアジアの多くの都市において、HSBCは、近代的な西洋式銀行業務を導入した最初の銀行として、パイオニアの役割を果たした。タイにおいてはHSBCは最初の銀行であり、最初の発券銀行であった。(p.12)
 香港本店開設の1865年に、横浜にも代理店が開設され、翌年には支店となっている。
 ロスチャイルド家の薫陶を受けて渋沢栄一が設立した日本発の銀行である第一国立銀行の設立が1873年だから。その7年前にHSBCは日本に支店を開設していたことになる。
   《参照》   『ロスチャイルド200年の栄光と挫折』 副島隆彦 (日本文芸社) 《中編》

             【国立銀行(今の日本銀行)】

 このようにHSBCの東南アジア各地への支店開設は積極的であったが、そうしたなかにあって、清国貿易とのつながりを重視していた。(p.13)

 

 

【中国展開の挫折】
 しかし、1949年の中国大陸における共産党政権(中華人民共和国)の成立は、HSBCが最も重視してきた中国市場ビジネスの展開を困難にした。このため、HSBCの中国本土における支店はほとんどが閉鎖された。
 しかし、戦後、香港に流入してきた企業家をHSBCが技術や企業面で支援したことは当時の製造業を起こしていく上できわめて有意義なものであった。その結果、資産の拡大は著しく、1940年と1954年の間にHSBCの総資産は12億香港ドルから34億香港ドルへ膨張した。(p.30)

 1955年には、香港本店、上海支店を除いて中国から完全撤退した(p.31)と書かれている。
 当時のHSBCが純然たる産業資本に特化した金融機関だったと信じるのは甘すぎるだろうけれど、日本においても中国においても、戦争に巻き込まれる過程と結果において、英国資本(ロスチャイルド系)が後退し、米国資本(ロックフェラー系)が台頭したのは間違いないことである。
   《参照》   『ロスチャイルド200年の栄光と挫折』 副島隆彦 (日本文芸社) 《後編》

             【中国での主導権争い】

 

 

【アメリカにおけるHSBC】
 1999年、HSBCという統一ブランド名を世界的規模で採用するという戦略の一環として、マリン・ミッドランド銀行はHSBC銀行USAと改称された。 ・・・(中略)・・・ 。
 2001年1月、HSBC銀行USAは、リパブリック・ニューヨークの子会社、リパブリック・ナショナル銀行と合併した。(p.58)

 ニューヨークで3番目、全米で10番目の銀行となった。(p.59)

 

 

【イギリスにおけるHSBC】
 1900年までに、ミッドランド銀行は英四大銀行の一角に成長した。 ・・・(中略)・・・ 英国系銀行で初めて外国為替部を設立した。1919年には、世界中の約650のコルレス先銀行をもつロンドンの銀行として活躍した。当時、HSBCもそのコルレス先銀行の一つだった。(p.69-70)
 このように、世界展開する上でもっとも大きなコルレス銀行であったミッドランド銀行を、HSBCが買収したのである。
 コルレス銀行とは、外国為替取引において、内国為替での中央銀行と同様の役割を果たす銀行。
 コルレス銀行であれば、外国への送金ができて、そうでなければ外国へは送金できない、ということ。
 余談になるけれど、足利銀行の閉鎖は、財務状態が悪かったのではなく、北朝鮮への送金可能なコルレス銀行だったから、ブッシュ政権の時に資金源を断つために潰されたというのが本当のところらしい。
   《参照》   『この国を支配/管理する者たち』 中丸薫・菅沼光弘 (徳間書店) 《前編》

             【足利銀行】

 1987年、ミッドランド銀行がHSBCグループの仲間入りした (p.72)
 1992年ミッドランド銀行の完全子会社化にともない生じた重要な出来事は持ち株会社、HSBCホールディングスの本部機構を1993年1月に、香港からロンドンへ移転したことである。これは英国の監督当局の要請に応えたものである。ただし、HSBC(本体)の本店は香港から移転したわけではない。(p.94)

 

 

【日本におけるHSBC】
 日本におけるHSBC初の横浜支店開設は、上述したように1866年。その他で興味深いのは、
 HSBCの対外戦略は当初から積極的であった。 ・・・(中略)・・・ 67年長崎に代理店(委嘱先はグラバー商会)を開設した。 (p.106)
 HSBC長崎代理店の委嘱先は、当初はグラバー商会であったが、1870年アドリアン商会、72年バン・デルデン商会、76年R・ホルム、78年T・ロバートソン、79年再びR・ホルム、81年ジャーディン・マセソン商会、88年ブラウン商会へと、めまぐるしく変わっている。
(p.120)
 グラバーが武器商人だったのは明白なこと。ジャーディン・マセソン商会と言う名前も、広瀬隆の『赤い楯』の中で何度も出てきたロスチャイルド系列の企業名である。
 その後の長崎支店は、長崎財界との直接の関係は薄く、在留外国人、特に貿易商人の利用者が主で、業績は振るわす、1931年に閉鎖されたと書かれている。

 

 

【外債引き受け】
 1899年6月1日、日本政府代表と引受シンジケート団(横浜正金銀行、パース銀行、HSBC、チャータード銀行)との間で、次の諸条件を内容とする引き受け契約書が調印され、(p.141)
 明治末から昭和初期にかけて、資金の不足した日本政府は、多額の外債発行に頼らざるを得なかった。
 HSBCは27件の引き受けに参加した。その功績が認められ、HSBC横浜支店長タウンゼントに勲二等瑞宝章が送られたのに続き、1925年には、昭和天皇からHSBCロンドン支社長サー・ニュートン・スタッブへ同じく勲二等瑞宝章が送られたのである。(p.144)
 今日たまたまテレビで、今はなき昭和初期に走っていた通称ボロ電というローカル線の映像を見ていたら、レールにはイギリスで作られたものであることを明かす刻印があった。当時の額で20万円、今日の額で30億円と言われた当時のボロ電をつくる資金も、HSBCが引き受けた外債によって作られていたのかもしれない。

 

 

【現在の日本におけるHSBC】
 福岡は87年11月、名古屋は99年10月に閉鎖された。この結果、HSBCの在日支店は東京、大阪の二ヶ店を残すのみとなっている。(p.173)
 日本国内での知名度は高くないけれど、世界的には邦銀よりはるかに知名度の高い銀行である。
 この本の後半には、明治以降の外資系銀行のことがいろいろ記述されているから、そんなことに興味がある人にとっては参考になるだろう。我々一般人が読んでもつまらない本である。

 

 

<了>