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 旅行ガイドの記述を長くしたようなものばかりで、読みモノとしてはかなり中途半端な感じがする。殆ど印象に残る記述がない。97年5月初版。

 

 

【闘牛とフラメンコ・・・??】
 「情熱の国」というイメージは「闘牛とフラメンコ」というイメージとどこかでつながっている。(p.9)
 闘牛は、スペインの国技であっても、日本の相撲と同じように必ずしも全国民が熱中しているわけではなく、特に北部では無関心派が多いと書かれている。
 フラメンコにいたっては、アンダルシーアというスペインの一地方の郷土音楽であり郷土舞踏である。他の地方ではそれぞれ全く趣の違う音楽、舞踏および衣装を、郷土の伝統として昔から持ち続けている。他の地方に人たちは、フラメンコがまるでスペインを代表しているかのようにいわれることを、たいへん嫌う。(p.10)
 ヨーロッパはどの国も、アルカサル(Alcazar 王城)を中心とした都市国家の集合体だから、国に関する類型化はそれぞれの郷土(都市国家)から見たら、たいそう不愉快なものなのである。
 スペインを始めとする西欧諸国でサッカーが盛んなのは、それぞれに都市国家を代表するチームだからと考えればいい。サッカーという代替戦争をすることで、いまだに都市国家のアイデンティティーを継続しているのである。

 

 

【スペイン語とイタリア語】
 スペイン語とイタリア語の違いは、日本のいわゆる共通語と生粋の大阪弁との違いくらいしかない。
 文人のセネカやルカヌス、皇帝トラヤヌス、ハドリアヌス、テオドシウスなど、スペイン出身でローマ史に名をはせた人物は多い。(p.21)
 スペイン語がイタリア語にそんなに似ていたとはビックリである。ローマ支配が600年間も続いたという過去の歴史が影響しているのだろう。カスティーヤ語やカタルーニャ語は、ラテン語の口語が変化してできたものだという。唯一の例外は、フランスとの国境にあるピレネー山脈付近で話されているバスク語で、これはラテン語とは何の関係もない。
 受験の世界史に出てくる有名な名前が並んでいるけれど、教科書にはスペイン出身だなんて書かれていなかった。

 

 

【モーロ】
 スペイン語やイタリア語ではモーロ Moro、英語ではムーア Moor である。(p.27)
 フェニキア人が、アフリカ北西部の原住民をさして言っていたらしい。今日では北アフリカのイスラム教徒全体を指す言葉になっている。ジブラルタル海峡を越えてやってきたモーロ人たちは、レコンキスタで押し返されてしまったけれど、スペイン文化を多様かつ豊饒なものにしたのは間違いない。

 

 

【エル・エスコリアルと天正の使節団】
 マドリードの北西45キロ、グアダマラ山脈の南麓エル・エスコリアルには、フェリペ2世が王宮と霊廟を兼ねて造った壮大な修道院がある。(p.60)
 1557年8月10日、のフェリペ2世はスランス軍と戦って記録的な大勝利を得た。この日はスペインにゆかりの深い聖ロレンソの命日であったことから、戦勝はロレンソの加護のたまものであると信じてこの大修道院ができたのだという。
 戦勝記念の建物って、凱旋門のように名称として明白なもの以外にも、ヨーロッパにはけっこうたくさんある。
   《参照》   『バトル・アビー こころの教育』 西浦みどり 廣済堂出版
          【バトル・アビー・ガールズ・スクール ( Battle Abbey girls school ) 】
 部屋数1500に及ぶ豪壮な建築がわずか21年でできあがったのは、当時としては異例の早さであった。フェリペ2世の意気ごみのほどがうかがわれる。
 完成してまだ2カ月しかたっていないときに、ここを訪れてフェリペ2世に謁し、三泊していった日本人がいる。九州のキリシタン3大名から派遣されたという天正の少年使節たちだ。(p.64)

 フェリペ2世は使節たちの日本式いでたちに非常な関心を示し、施設が着用していた足袋まで手にとって観察するありさまであった。いつも重々しい威厳を保って人に接するのを常としていたフェリペ2世にしては、近侍の者が驚くほど破格の親愛の情を現わしたという。(p.68)
 この使節団とは別に、50年ほど後、仙台藩の使節団もスペインに行ってエッチしちゃった経緯があるらしい。
   《参照》   『もう一つの日本』 皆川豪志・徳光一輝 (ソフトバンク新書)
             【スペインのハポンさん】

 

 

【トレド】
 もしスペインでたった一日しか時間がなかったら、ためらわずにトレドを見よ、とよくいわれる。まさにそのとおりで、トレドはスペインの歴史と文化が一点に凝集してできたような町だ。(p.102)
 スペインの都市の多くは、川や岩盤を自然の城壁として利用し得るところに造られているけれど、トレドもタホ川が湾曲して流れているところに作られている。直径2キロ以内に収まっているから、ゆっくり歩いてでも全てを観て回れるだろう。
 西洋の川には男女の区別があり、タホ川 Rio Tajo は男性なのである。(p.103)
 男女の区別の仕方って、何んなんだろう?

 

 

【コルドバのメスキータ】
 スペイン語でメスキータとは、イスラム教徒が礼拝に集まる場所つまりモスクを意味する普通名詞である。ところが、なんの形容もつけないでただ単に Mezquita(頭は大文字)といえば、それはこのコルドバの元モスクのこと。キリスト教の大聖堂(カテドラル)に転用されてからもう760年以上もたつというのに、今なおカテドラルという正式名称よりはメスキータという愛称で人々に親しまれているところに、この建築が持っている極めて特異な魅力がうかがわれる。(p.170)
 コルドバは前3世紀にカルタゴ人に征服され、当時はイベリア半島における最大の都市だった。その後、モーロ人が流入してメスキータが造られたのだけれど、人であれ都市であれ、いくつもの異文化の洗礼を受けつつ、それらを吸収して排除しないほうが多様で個性的で秘めやかなものになれるだろう。だから魅力的なのである。

 

 

【パティオ】
 コルドバやセビーヤなどの旧市街を歩いていると、しゃれた感じのパティオ(中庭)が通りから見えて、思わず足を止めたくなることがある。(p.184)
 庭園を愛好する心豊かな生活という面以外にも、パティオには暑い気候から人体を守るという生活の智恵も含まれているらしい。

 

 

【グラナダのザクロとアルハンブラの思想】
 現在のグラナダの町をモーロ人はカルナッター karnattah と呼んでいた。カスティーヤ人がそれをなまってグラナダ Granada というようになったが、カスティーヤ語でグラナダといえばザクロの実のことだ。そこでたまたま発音が同じだったことから、再征服後にグラナダのシンボルはザクロになった。この町でお土産として売っているいろんな陶器に、ザクロの絵付けをしたものが多いのはそのためだ。(p.197)
 アルハンブラ宮殿のあるグラナダ。グラナダの旗に描かれている絵は、王冠を被ったザクロだろうか?
 アルハンブラでは「アッラーだけが勝者」というアラビア語の文句が反復して使われている。「勝った負けたと一喜一憂するのは人間のあさはかさ。すべてはアッラーの神が定めたまう」という意味である。(p.219)
 これなら、グラナダを本拠地とするサッカーチームが強くなるわけない。でもこの文言は確かに叡智を秘めている。
 ついでに、メッカに関するイスラム教徒の概念を安易に理解しないように、下記のリンクも。
   《参照》   『メッカ – 聖地の素顔 - 』 野町和嘉 岩波新書
            【イスラムの聖地】

 

 

【ハレム】
 アラビア語で「禁じられた場所」を意味するハリームから来ており、女性たちの生活空間だ。男性はその家の主および一定のかぎられた範囲内の近親者しか立ち入ってはいけないとされている。日本でも西洋でもハレムという言葉は「後宮の美女たちが囲われている所」というようなニュアンスで使われることが多いが実際にはアラブ人の社会ではどんな家でもハレムがある。(p.226)
 江戸時代の「大奥」みたいな所だろう。

 

 

【ソル】
 マドリードで旧市街の雰囲気が良く残っていて、夕方から夜にかけてのぶらぶら歩きにもってこいなのが、ソル sol からマヨール広場 Plaza Mayor のあたり一帯だ。地下鉄利用の場合には1号線、2号線、3号線の3つが集まっているソル駅 sol で降りる。
 ソルの本当の名称はプラザ・デ・ラ・プエルタ・デル・ソル Plaza de la Puerta del Sol で、「太陽の門広場」という意味。(p.51)
 このようなことは、どのガイドブックにも当たり前に書かれていることだけれど、ソルはスペインを象徴する単語のひとつだから書き出しておいた。
 コスタ・デル・ソル(Costa del Sol 太陽の海岸)はアンダルシーアの地中海岸を指す言葉だ。同じくアンダルシーアでも太西洋岸はコスタ・デ・ラ・ルース(Costa de la Luz 光の海岸)と呼ばれている。(p.288)
 コスタ・デル・ソルという地名は、下記の若者向け小説の中で象徴的に用いられていた。
   《参照》   『途中下車』 高橋文樹 (幻冬舎)
             【太陽】

 スペイン関連の読書記録
   《参照》   『アンダルシア讃歌』 大内聰矣 毎日新聞社
 

 

<了>