イメージ 1

 時間の経過を意識せずにたちまち読み終えた小説は久しぶりである。深く考えさせるというような種類の小説ではないけれど、ストーリー上の仕掛けや、なるほどと思える心理描写や、多様な比喩が小説ならではの煌めきになっている。2001年10月初版。

 

 

【途中下車】
 確かにそれまでごくありふれた兄妹に過ぎなかったぼくらが人生のレールから途中下車をするために、両親の死という事件は不可欠だったに違いない。(p.4)
 途中下車とは、近親相姦関係となった兄妹の人生のメタファーなのだけれど、このストーリーを読み進む上で、 ”途中下車” と “太陽” という用語が何度か用いられ、場面と場面を繋ぐ象徴的なキーワードになっている。推理小説ではないから意味的に100%キッチリという訳ではないけれど、上手に使われている。
 この点の類似として、場面や言葉が緊密に連結されていたストーリー構成の 『ブラックブック』 という映画を思い出す。

 

 

【お母さんの思い出】
 「ねえ・・・・お父さんとお母さん死んじゃって悲しい?」
  ・・・(中略)・・・ 。
 「そりゃ悲しいよ。突然ふと思い出したりするんだよね・・・・・朝寝坊した時とかさ。それまで当たり前だった事が突然無くなった感覚っていうのかな、あ、あと妹の作る朝御飯の目玉焼きが半熟じゃなかった時とか」 (p.42-43)
 学生時代に母親を亡くしている人は、こんな時に悲しみを感じるものなのか・・・とよく分かる会話である。
 『ホームレス中学生』 を読んだ時も感じていたのだけれど、大切な良き母親の記憶だけで生きている人は、一面においてとても恵まれているのではないだろうか、と思うのである。
 生き長らえてアルツハイマーにでもなって、出鱈目な思い込みで息子を泥棒と決めつけたり、常識外れの言行が常態化してくると、 “美しくあってこそ思い出” という人の心を支える柱にヒビが入り、そのうち天井までガラガラと崩れ落ちてくるのではないかというような、暗澹たる思いで生きなければならなくなるのである。

 

 

【お父さんの思い出】
 キャッチボールをする時に投げる父さんの球は幼いぼくには少し速すぎたこと。(p.31)
 同じような記憶をもっている男性は多いことだろう。私も同じだけれど、少し速すぎたと言うよりまるで懲罰のような恐怖心を抱かせる速さだった。この経験以来、私の中で父親は心理的にかなり遠くなったのである。だから、この小説の中に出てくる主人公の友人である宇賀神が抱く継父に対する心理がおおよそ理解できる。

 

 

【男だけ】
 宇賀神は、この物語の終盤で、継父に対する反発から自殺してしまうのだけれど、その時、主人公をはじめとする友人4人が集まって交わされる “自由” という言葉にまつわる会話を読みながら、学生時代の頃を思い出してしまった。著者は、自由を求めて革命を起こした啓蒙思想の国・フランスの文学を専攻する東大生だから、ダイレクトにこの用語が思念の対象になったのかもしれないけれど、普通の文学好きであっても、大抵はこの用語の周辺を巡ることになるはずである。
    《参照》   『今を深く生きるために』  中野孝次  海竜社
              【精神の自由】

 そうなるのは、若き魂を有している時代だけなのだろう。とはいえ若い女性が書く小説に秀でた印象を持てないのは、このような思念を女性は経ることがないからではないかと思うのである。
 養老孟司さんが著書の中で、「男は現象だが、女は実体だ」 と書いていたけれど、実体世界に生きる女性にとって自由という概念は、男が考えるような概念の領域におそらく重ならないのである。女性のそれは、せいぜい実生活の範囲なのであろう。
   《参照》   『オバサンとサムライ』 養老孟司・テリー伊藤  宝島社
              【オバサンとサムライ】

 この小説の中で、最も入り込んでしまったのは、麗奈や理名の登場する主要な場面ではなく、男四人だけが集うこの場面だった。脳味噌が下半身に付いているような人なら、ラブホテルの場面だけが記憶に残るのであろう。

 

 

【代用品】
 「あのね、これ言ったらきっと怒ると思うけど・・・・・あの人とそっくりなの。喋り方が」
 言い終わると同時に、麗奈は破裂したように泣き出し、ぼくはその告白を厳粛に受け止めた。(p.99)
 人はみな思い出の中で生きている。過去の思い出という記憶の中にある “美しく好ましいもの” を希求し続けてゆく。主人公のぼくだって、麗奈に惹かれたのは、大きな瞳と厚い下唇が、妹の理名に似ていたから。
 このテーマは、 『ラヴレター』 岩井俊二 角川書店 の主題でもあったけれど、過去に留まることなく、現在の出会いによって美しい記憶をさらに美しく更新させてゆくつもりで生きることが、人生を有意味化させることなのではないか・・・と思う。
 流転する世界の中で、自分の心だけ立ち止まり停止させるというのは、法則の必然に習わぬ愚かな違反である。

 

 

【文学と境界】
 どれだけ大きいものが石で、どれだけ小さいものが砂なのかを判別できないように、ぼくらはどこからが愛で、どこで愛が終わるのかすら知ることができない。(p.104)
 土質工学を学んだことのある人ならば、「何mmから何mmまでが礫で、それ以上が石、以下が砂」 などと真顔であるいは冗談半分で思いつくのであろうけれど、文学の比喩表現に実学の知識を持ち込むことほど最低なおせっかいはない。
 文学小説というジャンルの “類まれさ” は、心その他の境界の不明性を不明なままに如何に適切に表現するか、ということにあるのである。
 そもそも人為的なものを除いて如何なる境界にも截然たる境などあるわけないのだから、それを簡潔に表現しようとするなら比喩に類するもので表現するしかないはずである。だから文学にとって比喩は必要不可欠な正統的技法だと思っている。言葉を尽くして正確な記述を究めたいなら、行き着くところは文学ではなく哲学になってしまうだろう。
 下記は、異なる心理の風変わりな境界例。
 ぼくはそんなことで注意する彼女を警戒すべきなのか、それとも彼女が初めて口を開いた事を喜ぶべきなのか決めかねたので、警戒しつつ喜ぶことにした。(p.92)
 普通なら “決めかねた。” で曖昧なまま終わるのであろうけれど、その後にあえて判断を記述しながら、それが二者択一せぬ繰り返しという意外性が面白い。

 

 

【文学と音楽】
 理名はなんだかぼく以上に怯えた様子でうつむいており、トリルのように震える声で呟いた。(p131)
 堀の言葉は音程の外れた音楽のように、不安定に震えていた。(p.159)
 音楽に関わる比喩表現は、音楽の詳細を知らなくても、何故か適切な表現と思えてしまう。
 比喩表現だけではなく、文体とか文章のリズム感まで含めて、文学と音楽は相性がいいのだろう。村上春樹の小説も音楽的な技法や雰囲気が感じられる場合が少なくない。

 

 

【太陽】
 三角地帯へと続く坂を登って行くと、フランス語で 「太陽」 という名のホテルがあった。(p.36)
 主人公のぼくが麗奈と入ったラブホテルのこと。
 フランス語で太陽はソレイユであることを知っている人がこの記述を読んだら、「何故そう書かないのだろう?」 と思うのではないだろうか。おそらく著者は、ストーリー上のテクニックとして、此処ではあえて表記を避けたのである。
 下記は、ぼくが妹の理名と入ったラブホテルの名前。
 「コスタ・デル・ソルだって」
 「何が」
 「ここの名前。どういう意味?」
 コスタ・デル・ソル ―― 確かスペインにある 「太陽の海岸」 の事だ。太陽 ・・・ 確かぼくと麗奈が始めて入ったホテルはソレイユだった。(p.128)
 この “太陽” は、途中下車した兄妹にとってキーワードになっている。突然人生から消えてしまった両親によって出来た心の穴を埋めるのに相応しいのは、肌の温もりであり、陽光の暖かさであることを、ラブホテルの名前として同時に象徴させているのであろう。
 ぼくは麗奈とソレイユで肌を合わせて心の穴を埋め、ぼく(兄)はコスタ・デル・ソルで、 “理名(妹)の乾いた孤独を潤すために自分の生き血をすべて使い果たそう(p.166)” とする。
 もしも、30年前に書かれた小説なら、社会道徳に反する近親相姦者であることに身を縮めて生き続けるという息苦しさに満ちたものになっているのだろうけれど、この小説は、そのような息苦しさで終わっていない。いつか本物の 「太陽の海岸」 へ行くことを希求しつつ明るく閉じられている。
 文学は判定するものではないから、近親相姦の善し悪しは別として、この小説は文学作品の楽しさ面白さを広くかつ適度に深く持っていると言えるだろう。
 「活字がそんなに好きじゃないけれど、面白い小説を読んでみたい」 という若者は、このような小説を手始めにするのが良いかもしれない。

 

<了>