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 論語を読みたくなって手にしたのではない。単にページ数と活字量が少なかったから。孔子さんが聞いたら、プイと横を向かれてしまいそうな理由である。2006年9月初版。

 

 

【忠恕】
 子曰く、
 吾が道は一を以てこれを貫く。忠恕のみ。

 孔子が言われた。わたしの道は一本に貫かれている。それは 「まごころ」 と 「思いやり」 である。
 「忠」 とは、まごころ、誠意をつくすこと、「恕」 とは、おもいやり、人の身になって考えること、広い心で許すことをいう。  (p.26)
   《参照》   『心花、静裏に開く』 新井正明 致知出版社
              【 『論語』 の真髄は 「忠恕」 】
 「恕」 に関しては、下記のリンクを。
   《参照》   『テンダー・ラブ』  日野原重明  ユーリーグ
              【愛の陰には恕しがあってこそ】
 子曰く、
 其れ恕か。己の欲せざる所、人に施すことなかれ。 (p.39)

 

 

【恥躬之不逮也】
 子曰く、
 古(いにしえ)は、言をこれ出ださざるは、躬(み)の逮(およ)ばざるを恥ずればなり。 

 孔子が言われた。昔、人々が言葉を軽々しく口に出さなかったのは、実践がそれに及ばないことを恥じたからであった。(p.48)
 『論語』 の中に実践の大切さを語っている記述は、ここに限らず何箇所もある。しかし、それでも実践できていない人が多いから、後に 『朱子学』 や 『陽明学』 が語られるようになったのだろう。

 

 

【曲肱の楽しみ】
 子曰く、
 疏食を飯い水を飲み、肱を曲げてこれを枕とす。楽しみ亦た其の中に在り。
 不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し。 (p.54)
 前半の部分を読んで、何となく、「家は漏らぬほど、食は飢えぬほどにてこと足れり。薪水を己で運び、湯を沸かし、茶を点てて、仏に供え、我も飲む」 という利休の言葉を思い出してしまった。これって、スローライフというかロハス的な生き方だろう。お金のためだからといって、社会的に必要も意味もない仕事のために無駄な時間を費やすより、簡素な衣食住生活に楽しみを見出したほうが、ずっといいんじゃないだろうかとチャンちゃんは思っている。
 まあ、心と精神を清め高めるはずの宗教的学びのサークルにありながら、「食べ物がないと盛り上がらない」と言っている戯け者が多いらしいから世も末である。夏は暑さを楽しみ、冬は寒さを楽しむといった禅語のように、貧なるときは貧なる状態を楽しむような精神のバネを蓄えようとするのではなく、貧すれば貪するという発想に向かうのである。そういう日本人ばかりだから、そう遠くない未来に厳しい時代が来るんだろう。
 後半の文言については、下記。
   《参照》   『中国古典からもらった不思議な力』  北尾吉孝  三笠書房
             【 『利の元は義』 】

 

 

【啓発】
 子曰く、
 憤せずんば啓せず。悱せずんば発せず。一隅を挙げてこれに示し、三隅を以て返えらざれば、則ち復たせざるなり。

 孔子が言われた。生徒に学問を教えるのには、生徒の心の中が奮いたつようになっていなくては駄目である。また生徒が自分の意見を言いたくて、口をもぐもぐさせているようでなくては、教える甲斐がない。一を示すと三と反応する(世に一を聞いて十を知る)ようでないと、繰り返し教える意味がない。 (p.59)
 「憤せずんば啓せず。悱せずんば発せず」 をチャンちゃん的に音のイメージからお気楽に解釈すると、「おおいに力んで踏ん張らないと便秘のウンチは出てこないし、サッパリしないよ」 である。つまり “糞排の教え”。 孔子さんは君子の道を説いているから、こんな阿保チャンちゃんでも決して罵倒などしないだろう。たぶん絶句する。
   《参照》   『未知への旅 「日本」とのつながりを求めて』  丸山敏秋 新世書房
             【啓発の出典】

 

 

【周公】
 子曰く。
 甚だしいかな、吾が衰えたるや。久し、吾れ復た夢に周公を見ず。

 孔子が言われた。最近は私も年をとって、ひどく衰えてしまったものである。そのために久しいこと、周公の夢をみることもなくなってしまった。これではいけない。(p.80)
 孔子が私淑していた周公であるけれど、歴史の本なんかでは読みたくない人用に、下記のような小説もある。
   《参照》   『周公旦』 酒見賢一  文芸春秋
             【魯国・泰山】

 

 

【馬を問わず】
 厩焚(や)けたり。
子、 朝より退きて曰く。人を傷(そこな)えりや。馬を問わず。

 馬小屋が焼けた。すると役所から帰ってきた孔子が、「馬丁に怪我はなかったか」 と聞いたが、馬のことは何も聞かなかった。(p.81)
 日本人がこれを読んだら 「これのどこが論語なの? どこが道徳? 当たり前でしょ」 と思うのだろうけれど、孔子の時代にあっては、このような孔子の言動こそがヒューマニズムなのである。つまり当時は奴隷並みの馬丁より馬の方が値段も価値も高かったのである。
   《参照》   『驕れる中国 悪夢の履歴書』 黄文雄 (福昌堂) 《中編》
             【民の字源は・・・】 【奴隷の価値の推移】

 

 

【君、臣を使うに礼を以てし、臣、君に事うるに忠を以てす】
 定公問う、君、臣を使い、臣、君に事(つか)うること、これを如何せん。孔子対(こた)えて曰く、君、臣を使うに礼を以てし、臣、君に事うるに忠を以てす。(p.87)
 日本のビジネス社会の上下関係は、大抵この記述にあるとおりに行われている。しかし、儒教国家と言われている韓国はそうではないのである。韓国には根強い階級意識が基盤にあるから、儒教の骨子とも言える 「幼長の序」 が支配・被支配を正当化する解釈に使われているだけなのである。
 もうかなり前になるけれど韓国に行った折り、クラウンベーカリーという韓国で2番目か3番目の規模の製バン会社の工場に行く機会があった。そこで見た工場長の尹さんの従業員に対する命令ぶりは、凄まじいものだった。日本であんな社会人(上司)を見たことはない。従業員も面従腹背的な態度を露わに最低限の作業をシブシブしているだけの様子だった。
 韓国の実状に呆れながら、「これで、どこが儒教国家なのか?」 と常々思っていたから、下記の本の著者の誤解も良く分かったので、韓国人向けに下記の読書記録を書いたのである。
   《参照》   『悲しい日本人』 田麗玉 たま出版 (その3)
             【
デパートの挨拶

 

 

 ビジネスマン向けに論語を教えてくれている北尾吉孝・著の読書記録

 

 

<了>