イメージ 1

 『神との友情 (上)』 の続編。          

 

 

【思考と存在】
「思考は、創造の方法としては最も遅い」 と言ったのを覚えているかな?

 ええ。あれには驚きました。

 驚かなくてもいい。身体の重要な機能はすべて、考えずに行われている。あなたはいちいち考えずにまばたきし、呼吸し、心臓を鼓動させている。いちいち考えずに汗をかき、「痛い」 と言う。みんな自然に起こる。なぜなら、あなたは人間(human being)、人間(human)と言う存在(being)だからだ。

 ええ、覚えています。生命の機能や経験の中には自動的に創造されるものがある、努力なしに潜在意識という経験の段階で起こる、と前におっしゃいました。そこが、いちばん効率的な創造がおこなわれるところなんですか?

いや。効果的で、効率的で、迅速に創造するのは潜在意識ではなく、超絶意識だ。
超絶意識とは、潜在意識、意識、超意識がひとつになり、それを越えたときの経験の段階に与えられる名称だ。そこは思考を越える場だ。あなたがたの真の状態であり、その真の状態こそが真のあなただ。そこでは思考に乱されることも、動かされることも、影響されることもない。思考は最初の原因ではない。真の存在が最初の原因だ。(p.21-22)
 “真の存在” とは、いわば 霊的なマスター = 神 に等しいもの。
 霊的な<マスター>はすべて理性の外にいる。つまり、自分はどんな存在かと意識的に考えたりしない。ただ、シンプルに存在する。そうであるかどうかと考える瞬間は、そうではありえない。考えは存在を遅らせる、あるいは否定するだけだ。

 俗っぽい例をあげれば、恋することができるのは恋しているときだけってことですね。考えていたら、恋じゃない。自分を愛してくれるひとに 「わたしを愛してる?」 と聞かれて、「考えてみよう」 なんて言うようだったら、うまくはいかないってことですね。
 
 いいぞ! よくわかってるじゃないか。 ・・・(中略)・・・ 。
 存在は即時的だ。それにくらべれば、思考は非常に遅い。思考がいくら速くても、存在にくらべれば非常に遅い。(p.32-33)
 〈思考と言葉と行為〉 は創造のための道具であり、非常に強力な道具ではあるけれど、創造が完了するまで非常に時間がかかる(遅い)。存在は即時であるから、創造に時間を要さない。
   《参照》   『神との対話 ③』 ニール・ドナルド・ウォルシュ (サンマーク出版) 《後編》
             【聖なる二分法】

 上記の書き出し内容は、「感謝すること」 の伏線として記述されている部分。

 

 

 

【神に感謝する】
 前に、感謝というのは、自分が必要だと思うものをすでに持っていると言明することだ、とおっしゃいましたね。言い換えれば、神に何かを願うのではなく感謝するなら、すでにそれが与えられていると、知っていなくてはならないわけだ。

 そのとおり。(p.35)
 「神に感謝する」 ことは、思考を介入させずに即時的に存在を引き寄せる、最速の創造方法なのである。
 人間関係を良好にするために “(人に対して)感謝する” という意識でいるなら、(素晴らしい生き方であるけれど) 単にそれだけのことである。

 

 

 

【罰と結果】
 ―― 神は赦す。わたしはすべてのひとに、好きなようにさせる。

 結果は問わないんですか?

 その二つは、べつのものだ。
繰り返し言ったように、私の王国には罰などない。だが、結果はある。
結果とは自然な成り行きで、罰とは通常のなりゆきだ。
あなたがたの社会では罰が通常だ。あなた方の社会では、ただ成り行きにまかせて結果を見るのは、通常ではない。
罰とは、自然な結果を待つ辛抱強さがないということだ。

それでは、何をやっても罰するべきではないとおっしゃるんですか?

 それはあなたがたが決めることだ。実際に決めている。
 ・・・(中略)・・・ 。高度に進化した社会は、罰からはほとんど学べないことに気づいた。それよりも結果のほうがよい教師であると考えたのだ。
すべての知覚ある存在は、罰と結果のちがいを知っている。

罰は人工的に作られた結果だ。結果は自然のなりゆきだ。
罰は、罰される者とはちがった価値観をもつ外部の誰かが強制する。結果は、自己が内部で体験するものだ。(p.100-101)
 外罰は内省を生まない。単なる懲らしめに終わるのが殆どである。
 例えば、DVによる悲惨な親子関係は、世代を超えて連鎖している。虐げられた子どもが内省して立派な大人になるかといえば逆である。大人になってから、やはり自分の子供を虐げる親になるのが一般則である。
 刑罰が厳しい社会というのは、進化レベルの劣った社会なのである。
 かつての日本人は、「水に流す(自ら他者を裁かない)」 を常とする高度な社会を維持していたのだけれど、アメリカ化が進むにつれて、次第に劣った社会になってしまっている。

 

 

 

【愛は手放す】
 まだ未熟な場合には、いちばん早く成熟に導く方法は、できるだけ早くから自分で選択する自由を与えることだ。
それが愛だ。愛は手放す。だが、あなたがたがよく愛と混同する、必要だという思いは反対だ。
必要だと思うとしがみつく。それが愛と必要だという思いを見分ける方法だよ。
愛は手放すが、必要だという思いはしがみつく。

 すると、全面的に愛するなら手放せ、と?

 それもひとつだ。
 期待を手放し、要求を手放し、愛する者に押しつける規則や規制を手放す。制約されていたら、愛されていることにはならない。(p.104)
 愛は自由と共にあり、必要は束縛と共にある。
   《参照》   『神との対話 ③』 ニール・ドナルド・ウォルシュ (サンマーク出版) 《中編》
             【自由と安全保障】

 この付近には、愛に関わって重要な示唆を与えている他者の著作も言及されている。
 ジェラルド・G・ジャルポルスキー医学博士というんですが、 『愛と怖れ』(邦訳:ヴォイス刊) という画期的な本を書いています。(p.116)
 だからこそ彼の新しい本、 
『ゆるすということ』 という本に感動しました。(p.118)

 

 

 

【神と友情を結ぶということ】
 本書のクロージング付近にある記述。
あなたが真の自分を全面的に思いだしたとき、あなたの経験は変わる。
わたしは、あなたが思い出す助けをするためにここにいる。
あなたは、他者が思い出す助けをするためにいる。
覚えているだろうがあなたが思い出す(re-member)とは、もういちど神の身体の一員(member)になるということだ。あなたは、存在するすべてとひとつになるが、全体を具体的、個別に表現する一部としてのあなたは消えない。消えるどころか、さらに栄光を増したように見える。
・・・(中略)・・・ いま、あなたがたはお互いを見いだし、ひとりぼっちではなくなった。
それが、神と友情を結ぶということだ。もう、ひとりぼっちではないということだ。(p.207-208)
 「ひとつになる」 ということに関する記述は、全編にわたって記述されていることだから、書き出すわけにはいかないけれど、あとがきに以下のように書かれている。

 

 

 

【誰も他者よりすぐれてはいない】
 最も古くから最もひろくわたしたちが信じてきたのは、分離の物語である。この物語のなかで、わたしたちは神から離れ、お互いからも離れていると想像してきた。この分離の物語のために、競争が必要になった。わたしたちがばらばらなら、個人や文化や国がそれぞれ自分のことを考え、限られた資源をめぐって競わなければならない。
 この誤解から、「こっちのほうがすぐれている」 という考え方が生まれた。 ・・・(中略)・・・ 。
 すべては、自分たちの神に近づく道のほうが 「すぐれて」 いるし、政治の方法も 「すぐれて」 いるし、経済システムも 「すぐれている」 し、土地を要求する理屈も 「すぐれて」 いると信じたから起こったのだ。だが、 『神との対話』 のメッセージは、はっきりしている。誰も他者よりすぐれてはいない。
――― わたしたちはみな一体だ。
わたしたちがひとつの声で語ることを学ぶまでは、地上に平和は訪れない。その声は知性の声、共感の声、愛の声でなければならない。それは、わたしたちのなかの神性の声でなければならない。(p.225-226)
 この本は、西欧文化圏の人々向けに書かれたものであるけれど、戦後、文化的にアメリカ化してしまった日本人にも、得るところの多い著作だろう。
 しかしながら、普通の日本人なら、 「すべてはひとつである」 というような基本的な概念に関する神の語りなど読まなくても、感覚的に分かっているのではないだろうか。
 ところが、日本人であっても領土問題となれば熱くなってしまう人々が少なくない。地上のあらゆる領土は、いかなる国の領土でもなく地球のものなのである。
 国際政治の問題は、最も進化レベルの劣った国の政治指導者がボトルネックになっている。世界各国の政治家が同時に 「すべてはひとつである」 という認識に至る時があるとするなら・・・・人類全体がとてつもなくタフな事態に遭遇した時なのかもしれない。

 

 

<了>

 

 

  ニール・ドナルド・ウォルシュ著の読書記録

     『神との対話』

     『神との対話 ②』

     『神との対話 ③』

     『神との友情 (上)』

     『神との友情 (下)』

     『神とひとつになること』

     『神との対話 フォトブック』