HSP/HSC 専門 国家資格キャリアコンサルタント皆川公美子です。
というのはネットで見て知っていたのですが、なんとまさか偶然、
安藤美術館で間近にお話を聞けました!
若者たちが一番安藤さんに近いエリアに陣取っていて、
いいぞ!若者!食らいつけ!みたいな雰囲気で
ある上昇気流のエネルギーに満ちていて、
と~っても よかったです



ひとつのデザインとして建築美術に高めた方。
無機質なデザインが大好き、という訳ではないけれど、
自然と建築物を思ってもみない方法で一体化させる
その手法に、いつも驚かされます。
その驚かされることを楽しめる。
わお、と驚く瞬間の自分を楽しめる。
そういう楽しみをくださる建築家さん。
私にとって、安藤忠雄さんはそういう方です。
大阪の光の教会。
淡路島にある本福寺の水御堂。
よかったなあ。
どっかんどっかん会場の笑いをとられる安藤忠雄さん。
大阪のおっちゃんは今日もとってもお元気!!という感じで。

あとで地元の方に伺ったら、安藤忠雄さんは70歳にもなるのに、
少しでも時間があくとすぐトークショーなどをやってしまう、
とてつもないエネルギーの持ち主だそうです。
瀬戸内・直島をベネッセの社長の福武さんと立ち上げたときの
お話を交えながら、今後の日本について語っていらっしゃいました。
私には
若い人への愛あふれるマナザシ と聞こえました。
それはね、すごいことなんですよ。
ヨーロッパでは、バッハやらベートーベンの音楽は
貴族だけが楽しんでいた。
でモーツアルトが18世紀に出て来て
はじめて庶民が音楽を楽しむようになった。
でも日本は違うんですよ、歌舞伎やら相撲やら文楽やらは
もとから庶民の楽しみだったんです。
直島のことを、はじめて福武さんと話したときも
庶民が文化的に楽しむ島にしようということではじまった。
中略)
僕、福武さんにこんなとこ無理や、やめよう言うてましたもん。
でも1万人、来るようになって
3万人来るようになって、
10万人来るようになったら
それまでよそから人が入ってくるのをいやがってた島民が
「そんなにぎょーさん人が来るんやったらうどん屋しよか、コーヒー屋しよか」
になったんですよ。
それがこの島の年寄の生きがいになってる。
でもここのコーヒーはまずいですよ (会場爆笑)
この生きがい、好きなこと、が日本中になっていかないといけないです。
なぜなら、人は好きなことがないと生きていけないからです。
男性は80歳、女性は90歳を超えて生きます。
そのエネルギーは好奇心なんです。
好きなことがなかったらなかなか生きていけない。
最初、この島のプロジェクトはお金がなかったです。
あの草間彌生のかぼちゃみたいなオブジェあるでしょ。
あれも最初安かったんですよ。250万。
福武さんは安いもんで、値上がりするものを買ったんです。
そうしたら島にアーティストが自分からオブジェおいてくれ、て
言うじゃないですか。
ただでね。


今、1億2500万ですよ。 (会場、ほ~~~~う!)
年をとってるていうことは美しいことです。
古い建物、民家を保存しようというのもそういう考えの一部であって、
当時、(20数年前)ベネッセは優等生の大企業ではないから、
できることひとつひとつやっていこう、いうことになったんです。
この建物かて(安藤美術館)最初、福武さんが
「安藤さん、お金ないで。」て言うんです。
「冷房とか暖房とか電気とかお金かかるから、なしでいこう」と。
この美術館の新しい壁と古い壁の間に、隙間があるんですけど、
その隙間に風の道があって対流が起こるからそれで涼しいんです。
今かて涼しいでしょう?
なかったらなかったでいろいろ考えるわけです。
日本は1980年に経済大国になって
お金があるからもう考えんでもええわ、てなったんですけど、
日本人はもともと考えてやってきたんです。
今50、 60代の人は必ず80歳まで生きます。
でも30代の人は63歳で終わりらしいよ((笑)

化学肥料、農薬、防腐剤、いっぱい食べてるでしょ。
そのかわり死んだら腐りませんけどね (爆笑)
みんな考えないといけない。
どこへ行っても、ここへ行っても考えないといけないんです。
63歳で死んだら、年金いらんから政府は大喜びですけどね。
若い人、考えないといけないんです。
福武さんは20年前に民家保存を考えました。
「ここは安藤さんの、販売手数料だけでやって」ていうから、
私は一生懸命手売りでがんばってるんですけどね。 (笑)
何もなかったらないで、考えるんです。
今日本はテレビや冷蔵庫売っててそれもあるけど、
少なくなってくる。
でも観光資源はあるんです。
観光で人集められたらレストランが必要、
レストランがあったら食材が必要です。
ここは観光客が44万人来るんですよ。
芸術祭やったら100万人来るんです。
そうすると人間が動いてる。
そのうち20%は外国人なんですね。
福武さんの発想は、困難にも負けず
勇敢にいろんなことを仕掛けてきた結果です。
ちょうど9月2日からパリのボンマルシェというルイ・ヴィトンのやってる
百貨店で直島の展覧会やるんです。
そしたらフランスからまた人が来るでしょう。
そういうことも含め、我々は次の時代のことを考えていかないといけないと
私は思うんですけれども、
そのなかで、直島で何ができるかということを考えてきたんですけど、
これからは自分の家族で何ができるかということを
考えていかないといけないです。
それを考えていかないとやっていけないんです。
私は、大阪にいるんですけどね、
大阪のどこ見にきよんのかな、とおもうんですけどね(笑)
関西は京都、大阪、神戸で仲悪いんですよ。
「ダサい大阪だけは死んでも行かん」とかね。 (笑)
その大阪で今度ハリーポッターのイベントやるんです。
安倍総理とケネディさんと先日会うたんですけどね、
壮大なスケールで人呼ばないかん、とね。
中略
昔三菱マテリアルの亜硫酸で、直島はげ山やったけど、
日本人の技術力がね、未来を変えたんです。
僕は今ユニクロと組んでオリーブ基金ていうのやってるんですけどね。
ひとつの店舗で一日30円入るんですよ。
それが3店舗で100円くらい。
日本全国で10万円になるんです。
一日、10万円、それでこの島の緑を回復させてるんですね。
一度やりはじめたら、やり続けないといけない。
今の若い人に、一度始めたらやり続けろと言いたい。
そして考えること。
考える力のない人は、冷暖房のある部屋にいといてくださいね。(笑)
安藤さんの漫談、とてもおもしろかったです。
そしてそのまなざしの奥に、
「僕、ずっとは居ないからね、次の世代の若い人、考えてやっていけよ!」
っていう強烈なメッセージがありました。
私としては「家族でやっていかないと~」のくだり、
もう少し説明してほしかった。
その奥にとても大切なことをおっしゃっていたんだろうな。
いつかお会いすることがあったら、
そのことを質問してみよう。
今、思い出しても幸せな空間でした。

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お読みになりたい方は、以下、安藤忠雄さん略歴 Wikipediayより
双子の兄で、さらに弟がいる三人兄弟である。双子の弟は東京で北山創造研究所(都市コンサルタント業/商品デザイン業)を主宰している北山孝雄。下の弟は建築家の北山孝二郎(ピーター・アイゼンマンとのコラボレーションで名を馳せた)。一人娘だった母親の実家を継ぐために、生前からの約束にしたがって大阪市旭区の祖父母安藤彦一・キクエの養子となる。大阪の下町にある間口2間、奥行き8間の長屋で育つ。
大阪府立城東工業高等学校卒業後に、前衛的な美術を志向する具体美術協会に興味を持ち、関わったこともあるが、大学での専門的な建築教育は受けておらず、関西の建築家・都市計画家の水谷頴介などの建築設計事務所でのアルバイト経験と独学で建築士試験に合格したという。
木工家具の製作で得た資金を手に、24歳の時から4年間アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、アジアへ放浪の旅に出る。ヨーロッパからの帰路、マルセイユで数週間待たされた後、帰国の船に乗り、象牙海岸、ケープタウン、マダガスカルに立ち寄り、インド・ムンバイ(当時のボンベイ)で下船する。安藤は”何かに導かれるように”汽車に乗り、ベナレスに向かった。ガンジス川で牛が泳ぎ、死者が荼毘に付される傍らで多くの人々が沐浴するさまや、強烈な太陽の下、異様な臭気に包まれた果てしなく続く大地、生と死が渾然一体となり人間の生がむき出しにされた混沌世界に強烈な印象を受け、逃げ出したい気持ちを必死にこらえながらガンジス川の岸辺に座り込み、「生きることはどういうことか」を自問し続けた。「人生というものは所詮どちらに転んでも大した違いはない。ならば闘って、自分の目指すこと、信じることを貫き通せばいいのだ。闘いであるからには、いつか必ず敗れるときが来る。その時は、自然に淘汰されるに任せよう」と考え、ゲリラとしての生き方を決心する。1965年、24歳のときである。この放浪中に安藤が撮影した写真は、ルイス・I・カーンの作品集などで使われている。また、過去にはプロボクサーでもあった。ファイティング原田の練習風景を見て、その才能に圧倒され、ボクサーとしてやっていくのを諦めた(男子ボクサー一覧)。
1977年のローズガーデン(神戸市生田区)等初期の作品のいくつかは、弟の孝雄の所属していた、セツ・モードセミナー出身の浜野安宏が代表を務める浜野商品研究所(1992年、浜野総合研究所と改名)と共に実現した。
1970年代には個人住宅などの小規模建築、1980年代には商業施設、寺院・教会などの中小規模の建築の設計が多かった。1990年代以降は、公共建築、美術館建築、また全国や海外の仕事も増えている。



