前回までは、私たちが物質と思っているものが実はエネルギーにしか過ぎないというお話をいたしました。まずは簡単におさらいをいたします。
物質の最小単位である素粒子とは、物質と波動の両方の性質をもつものであり、波動であるときは観測が難しく(要するに存在していないのと同様)、波動が物質化すれば何もない空間から突如として出現するようなものです。
そういう事実から科学者たちは、宇宙は「ダークマター(Dark Matter)」あるいは「ダークエネルギー」に満たされたいると考えています。
なぜダーク(暗黒)と呼ばれているかというと、それがなんであるか全くわかっていないからなんですね。
そういうわけでここでは単にエネルギーという言葉で話を進めていきたいと思います。
エネルギーは私たちの周りに様々な状態で存在しています。
エネルギーは主に波動という呼ばれる性質を持っています。波動は物質の持つ固有の振動数として観測されます。
たとえばクォーツ時計。これは水晶の持つ固有の振動数を利用して正確な時間を計る技術ですね。
一般に電波と呼んでいるものは電磁気力の波動のことなのですが、周波数の低い方は長波、周波数が上がってくると短波と呼んでいます。短波ラジオという言葉をご存じの方もいらっしゃると思います。さらに周波数が上がると、超短波と呼んで、AMラジオ、FMラジオ、VHF、UHFなどのテレビなどに使われています。さらに周波数が上がると極超短波と呼ばれ、携帯電話や衛星放送などの通信に使われています。
さらに周波数が上がると、赤外線という光になります。さらにその上に可視光線と呼ばれる、私たちの目が捉えることのできる光があり、その上が紫外線、さらに上がっていくとレントゲンに使うX線…、それ以上になるといわゆる放射線と呼ばれている領域に入っていきます。
そして今の観測技術では観測することのできないダークエネルギーと言われるものになっていくのですが、科学者たちの予想によれば、この観測不能のダークエネルギーは全宇宙の74%を占めていると言われているのです。
そして残りの26%のうち、22%がダークマター(観測できない物質)、4%が私たちの見知ることのできる世界だと言われています。
たった4%!
私たちの持っている視野が実にわずかなものであるのかということを表している数字です。
ですから、私たちが現実だと思っている出来事というのは、実に本当に陽炎のようなものでしかないとも言えるでしょう。
そのような中にあって「私」とは何かというのが前回までの疑問でした。
さて、人間は自分の中にあるものしか知覚できないと言われています。
つまり自分の知らないことは、その人にとって存在しないのと同じです。
逆に、その人がまだ見知らぬことであっても、疑問をもったり、問いを発したりすることは、すでにそのことが存在していることを意味しています。そういうわけで、答えは問いを発する前にすでに存在していると言えるのです。だから私たちは探究することができます。
キリストが「求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすればあけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである(マタイ7:7,8)」と言ったのはそういう意味です。
ゆえに「私」が見ている世界は、すべて「私」の中にある…、つまり私自身であると言うことができるのです。
私が見ている世界 = 私
そういう視点で自分の周りの世界を見たとき、何が見えてくるでしょうか?
「人のふり見て我がふり直せ」という言葉があります。これは、他人の行いの善悪を見て、自分の行いを反省し、改めよ、という意味です。
ある方が、人の欠点を探しなさいというようなことを言っていて、面白いことを言うもんだと思いましたが、それはその欠点を見つけて指摘しなさいということではなくて、それが自分の中にあるんだということ、つまり人の欠点を見つけることは、自分の欠点を見つけることなんだということを知って感心しました。
私たちはともすると、人の欠点を見つけては「だからあなたは○○なのよ…」などと言ってしまったりします。
特に心やスピリチャルな学びを深めていくと、最初のころはついつい知っている知識を応用して、さらに追い打ちをかけるようなことを言ってしまったりするものです。
それを「真理の誤用」というのですが、私も最初のころはそんなことをして、妻や友人から反感を買ってしまったりしたものです。
キリストは「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁(丸太)を認めないのか。自分の目には梁(丸太)があるのに、どうして兄弟に向かって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。…まず自分の目から梁(丸太)を取りのけるがよい。そうすればはっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう(マタイ7:4~5)」と教えました。
目にゴミが入ったらそれがどんなに小さくても痛いものです。他人の目にゴミが入っているのを見つけて、とらせて下さいというおまえはどうなんだ、丸太みたいにでかいのが入っているのに気がつかないのか、と言うわけです。
丸太というのはずいぶん極端な例えだと思うのですが、それくらい人は自分のことを見ようとしない、自分に対しては無感覚になっているということなんですね。
口論の最中に「だからおまえは○○○なんだよ…」と言いそうになったら、ちょっと待て、そういう自分もそうなのかもと感じてみることです。
そうして、どうして自分がそうなのか考えてみると、相手の状況が理解でき、感じていることが分かるようになります。
するとそこに共感が生まれます。
傾聴することは共感を伴います。
相手の話を聞いていても聞き流しているだけだったら、相手はいつまでたっても聞いてもらえているとは感じないので、何度も同じ話を繰り返すことでしょう。
この人も自分なのだと思って話を聞こうとすると、最初はいろんなネガティブな感情が出てくると思います。しかしそれもじっと感じていると、どうして自分がそんなにネガティブになるのかが見えてきます。すると相手のネガティブさの原因が見えてくるのです。
そして突然霧が晴れたように、共感が生まれます。心から分かり合える瞬間が来るのです。
ネガティブさを避けようとしたり、否定しようとすることは、自分の中にあるそれらのものを否定するのと同じです。否定し続けている限り、そこから解放されることはありません。否定もまた一種の執着だからです。
この世界を構成しているものは、たったひとつの光、エネルギー、プライムパーティクルと呼ばれる「私」です。
良いも悪いも、ポジティブもネガティブもありません。それらは同じものです。
ただ「私」が世界をそう見ているにすぎません。
逆に言えば、答えはすべて私の中にあると言えるのです。
ポジティブなこともネガティブなこともそのまま受けとる、そして自分をよく知ること、そのことを心がけていきたいと思います。