歴史的に台湾でどんな言葉が使われていたのか、非常に興味がある、台湾の言語オタク、たまりです。
日本の植民地だった50年間はどうだったのか。非常に大雑把に言うと、公的には当時の「国語」だった日本語、私的空間では台湾住民の母語(閩南系住民なら台湾語)、というのが最終的な棲み分けの形。
『悲情城市』の記事でも書いたように🈁、特に「書き言葉」に関しては、母語や標準中国語の書記体系が整理される前に植民地化されてしまったので、台湾知識人の間では日本語が唯一の正式な書き言葉となってしまっていました。
では、植民地時代、台湾で標準中国語は全く使われていなかったかと言うと、実はそんなことはないんですね。日中戦争(1937年)が始まるまでは、台湾や日本から中国本土に行くことは可能でしたし、留学した人もおり、中国の情報は台湾に入ってきていました。
中国大陸本土では1919年の五四運動を契機として「白話文運動」が広がり、言文一致の機運が高まります。その情報は台湾にも伝わり、台湾の知識人達の中華ナショナリズム、台湾アイデンティティを大いに刺激しました。中国大陸における近代化への渇望は、台湾では祖国の言葉で、自分達の言葉で表現したいという欲求、願いとして新文化運動を支えたのです。
中国語の白話文運動から波及して「台湾語」の書記言語化を目指した「台湾語白話文運動」ももちろんありました。ただ植民地政府(総督府)の監視の目をかいくぐって活動できるほどの資源も研究者も存在せず、少しハードルが高すぎました。まずは中国で標準化されつつあった「中国語」白話文の習得と普及を有識者達が目指します。
そういう状況を背景に、台湾人による初めての新聞、『台湾民報(過去記事)』には日本語ではなく中国語白話文(現代中国語)による記事が掲載されます。しかし、記事の文章レベルは玉石混交。流暢に現代中国語を操れる知識人は当時台湾にはほとんどおらず、完全体の「標準中国語」白話文で書かれたものは極少数でした。
新聞では中国の作家の文章も紹介されていましたが、台湾の記者や知識人が見よう見まねで書いた中国語白話文は、正しい白話文とは言い難く、実際には、台湾独特の台湾式漢文(植民地漢文)といったものだったようです。
その辺りのことは、『日本統治と植民地漢文ーー台湾における漢文の境界と想像』(陳培豊)の第二章に詳しく書いてありますが、実際私が台湾の図書館でプリントアウトしてきた当時の『台湾民報』でも、台湾人の「白話文」に対する批判がなされています。⬇️
だけど、日本語ではなく、中国語白話文で新聞記事を書こうとしたそのことに大きな意味があったと私は思います。日本語は押し付けられたあくまでもよそ様の「国語」。台湾語は言語研究や整備の機会を奪われて正書法が無い。日本語と台湾語のその狭間で、標準中国語の白話文をアイデンティティの支えにしようとした台湾知識人の心意気が、私には痛いほど伝わってくるのでした。
続く

