続きです。

震災のこと 前編

 
神戸市のサイトに、家の近くの写真があったのでお借りしました。
まさにこんな状態でした。
 
 
 

ノコギリが大活躍&

懐中電灯の電池大丈夫?

 
もちろん電気は来ていないので、暗くなると明かりがありません。
懐中電灯を持って居る人は割といましたが
殆どの人は電池を入れっぱなしだったようで
途中で電池が切れる人が続出しました。
 
また、野宿で一晩中焚き火をして気づいたのは、
燃料はすぐに無くなるということでした。
 
私たちのグループでは、
最初に声をかけてくれた親子連れの小学生の男の子と
後から加わった30代の男性が、
あちこちに燃料となる木切れや紙くずなどを探しにいってくれました。
 
その時に必要なのが、木を切る道具です。
近所の人がノコギリを広場に持って来てくれたので、
たった一本のノコギリを、広場中の人で使い回しました。
 
最初は散乱したゴミや破片
幸いにも?建築中の家が近くにあったのでそこから木材を調達していましたが
大勢の人があちこちで焚き火をしているものだから
やがて燃料となるものが周りでは無くなっていきました。
 
そのうち、倒壊した家屋から瓦礫を調達せざるを得なくなりました。
誰かが「あそこの家の人、亡くなりはったって・・・」と言いましたが
「かまへん、かまへん!」っていいながらみんな燃やせるものを持っていきました。
そうしないと、寒くて耐えられないのです。
 
そのうち、それでも足りなくなって、公園の桜の枝まで切りました。
 
 

 

食べるものがあっても・・・

 
そうやって火を囲みながら、
誰かが持ってきたペットボトルの水を回し飲みして
缶入りのクッキーを1つづつ食べました。
私は全然お腹が空いてなかったので、全然平気でした。
 
お正月の小さな鏡餅を持って来た人がいたので
私は、焚き火で焼いて食べよう♪と
鏡餅を包んでいるセロファンを剥がそうとしましたが、
どうしても開けることが出来ませんでした。
 
便利なようで、道具がないと何もできないんだ。。。と気づかされた経験でした。
 
 
 
妙なポジティブ感に包まれる
 
そうやって、世界の終わりみたいな光景の中
見ず知らずの人たちと
外の公園で焚き火を囲んで
月ってこんなに明るいんやね〜なんて
話をしているのが不思議でした。
昨日の夜までは、普通に会社に行って帰って寝る
ごくありふれた日常だったのに。。
 
ひっきりなしに救急車がサイレンを流しながら
隣の中学校に入って行きました。
聞くと、けが人を運んでいるのではなく
ご遺体を運んでいるとのことでした。
教室の一室が遺体安置所になっていました。
 
 
手や足を怪我している人
家が倒壊して何もかも失った人もいましたが
何故か悲壮感はなく
命が助かった喜びの方が強く
妙な高揚感に満ちている、不思議な場でした。
 
家が無事だった人まで、無性に人と話がしたくなって・・・と
家を抜け出して輪に加わっていました。
 
隣にいたごく普通のおばちゃんが、
集めていた高価な食器が皆割れてしまった、と言ったあとに
でも、なんだかスッキリしたわ。。。と呟いていました。
 
そんな感じで、みんなで夜10時の震度8の地震を待ちました。
 
震度8って、後ろのマンション(私の家)こっちに倒れてくるかな?
そうなったら諦めるしかないか〜
などと笑いあっていました。
 
そして夜10時が過ぎて、、
誰かが言いました。
 
「よく考えたら、地震の予知なんてできる訳ないよな〜」
 
今考えたらコントのようですが、本当の話です。。
 
私もその時はじめて、家に帰っても大丈夫かも・・・と思いましたが
このままここにいる事にしました。
 
 
公衆電話の盲点
 
男性陣が寝ずに火の番をしてくれたおかげで
無事に翌日を迎えることができました。
とは言っても、ウトウトしたくらいで
寒さのためて全身こわばって、鼻の中がススだらけでした。
 
早朝5時くらいに、実家に電話するため
近くの公衆電話ボックスに行きました。
すでに長蛇の列でした。
 
電話の横に男性がいて、
誰かが電話を掛ける前に毎回電話機をバンバン叩いていました。
 
聞いてみると、電気が通ってないのでテレフォンカードは使えない。
みんなお金を入れるからもう一杯になっていて、
少しでもお金が入るように叩いてくれているのでした。
その人は、その為にずっと公衆電話の横にいてくれていたのです。
 
やっと私の番になった時
もう100玉は入らない、10円玉ならなんとかいけそうと言われました。
私は100円玉しか持ってなかったので諦めようとしたら
後ろの人が10円玉をくれようとしました。
 
ここで私が使ってしまうと、
電話機が使えなくなってしまうかもしれないので
断りましたが
「いいからいいから!かけなさい!!」
と無理やりお金を入れてくれました。
 
幸いにも実家に電話がつながりました。
母が悲鳴のような声で喜んでいました。
なんと、昨夜こっちに助けに来てくれていたのです!
おばあちゃんを連れ帰ってくれてました。
(おばあちゃんは、1人でちゃっかり家に戻っていたのでしたw)
 
私は、実家が無事だとは思えず
まさかこんな早くに来てくれるとは思ってませんでした。
家に書き置きしておくべきでした。
今だとスマホで簡単に連絡が取れますが。。
 
 
当時の私は
仕事と恋愛とスキューバダイビングに明け暮れていて
近所の人の顔も知らず
自分だけの世界に生きていました。
 
彼氏も昼間に一度来てくれたのですが、
実は夜も迎えに来てくれたのだと後から知りました。
 
愛を拒否して、他人を信用せず、小さな世界に生きていた当時の自分にとって
この震災時での体験は私の世界観を大きく変えました。
 
一人で毛布を被ってウロウロしていた私は
ショートボブにしたばかりもあってか子供に見えていたらしく
沢山の人が声をかけてくれました。
「中学生でしょう!ご両親は?お家は?」
とても25歳ですとは言えず・・・笑い泣き
 
隣の家の人はガウンを着せてくれ、
見知らぬ年配の男性が
自分に貼っていたカイロを剥がして私に貼ってくれました。
 
昼過ぎに家族が車で迎えに来てくれて
私は一夜を共に過ごしたグループの人たちに
家にあった食料を持って挨拶に行きました。
 
給水車が来ていましたが
公園の人たちは水を入れる容器が無いため
もらいに行く事が出来ませんでした。
 
みんな「良かったね〜!!」と喜んでくれましたが、
私は自分だけ帰るところがある事に胸が痛みました。
 
この罪悪感が自分に与えたダメージに
本当に気付くのは15年後でした。
 
 
体は正直
 
実家はおばあちゃんの家から普段は車で45分くらいの場所ですが
この日は2時間以上かかりました。
 
信号は止まっていて
ガムテープで補修したり、ガラスの割れた車が
普通に走っていて日本じゃないみたいでした。
途中「がんばれ神戸」と窓に書かれた車とすれ違い
そんな風に思われてるんだ・・・と思いました。
 
 
実家は予想と違い
全く被害がなくて崩れそうになりました。。
今まで変な夢を見ていたような感覚でした。
 
 
帰るとすぐに母がうどんを作ってくれました。
丸一日半何も食べて無かったので大喜びで食べたのですが
食べ終わったと同時に急に吐き気に襲われて
トイレに駆け込み全部吐いてしまいました。
 
自分では全く平気なつもりだったのでびっくりしましたが
無意識のうちに無理をしていたんですね。
 
 
 
先ほど書いた15年後のダメージですが。。
 
2010年の1月17日
深夜にNHKでやっていたドラマを偶然見ました。
 
それは「その街のこども」というドラマで
のちに映画化もされました。
 

 

 

 
当時子供だった男女が
15年後の神戸を訪れる話ですが
ドキュメンタリータッチの演出があまりにもリアルで
ドラマが終わる頃には咳が止まらなくなり
終わった後急激に体が重くなり
 
なんとその後2日間も寝込んでしまいました。

 

 
25年後の今、こうやって、文字に起こすことが
私にとってのヒーリングになっているのかも。。
 
 
淡々と生きていく
意識して
目覚める
 
そうやって
一生かけて
人間らしくなっていくのかな。。