生きるための表現手引き | ふーちゃんのブログ

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私のブログは、離れて暮らす子どもたちと孫たちに向けて書いています。

こんばんわひらめき

 

 

 

昼間は温かい一日になりました。

花や草木の心配をして水やりをする2月ははじめてです。

美作の北、鳥取県境に湧き水を汲みに行ってきたお隣さんが、

雪がまだドサッと積もっとったでーと。

積雪が多い地方の方、

くれぐれも雪崩にはお気をつけくださいね。

 

 

 

田園風景と青空、山並み

 

 

 

 

 

のつづきです。

 

 

 

つくる

ベル模倣する

表現や創作については「模倣をくり返すと、やがて模倣から離れ、

人は創作という別の世界に移行する」

とよく言われる。

しかしこの本では、「あらゆる創作は、模倣の失敗である」と考える。

 

 

新たなものを生み出すイメージがある創作が、

誰かのものをなぞる模倣の、しかも失敗であるというのは、

意外に思えるかもしれない。

もちろん模倣や複製によって社会に混乱を起こしたり、

法律に反したり、他者の創作物をルールに反して活用し

利益を得ることはよくないことである。

しかし模倣や複製は大きな意味や価値を持ち、

むしろオリジナリティに接続されている。

美術史においても、多くの画家が「模倣によって」

あらたな作品を生み出してきた。

 

 

他者の作品を写し線をなぞることには

「あたらしさ」が欠けているようにも思われるが、

なぞるほどに完全な模倣は不可能ということに直面するだろう。

 

 

自分の身体、自分の経験を映し出す一本の線は、

いくら練習しても他者の線になることはない。

似せようとすればするほどに、むしろその差は際立ってくる。

創作とは模倣がうまくいかないことの連続であり、

その差分がやがて反復によってスタイルや個性となっていくのである。

 

 

まずは好きな作品を選び、なぞってみることからはじめてみよう。

 

 

 

ベル引き継ぐ

先行する作品をベースにしたりモチーフにして作られる作品は

さまざまな分野に多数存在しており、

なかには名作としてよく知られているものもある。

 

 

たとえばシェイクスピアの『ベニスの商人』は

複数の原話に基づいているし、

ウォルトディズニーの映画のように、

原作をとっている場合もある。

また、芥川龍之介の「羅生門」は平安時代の『今昔物語集』から

着想されており、

それが芥川の別の短編「藪の中」と組み合わされて黒澤明の映画になっている。

さらにアメリカのテレビドラマ『CSI:科学捜査班』では、

複数の目撃者からなるという黒澤明の映画『羅生門』の構造を

取り入れた「Rashomon」というサブタイトルのエピソードがある。

 

 

作者の存在は当然重要だが、

こうしたケースにおいては誰がもともとの原作なのか

ということはもはや些末な問題に思える。

なにかをもとにしながらも、

それぞれの人があらたな要素を加え、

創作をし続けるという連鎖に意味が宿っているのだ。

 

 

こうしたあらたな解釈は、まずは「読む」ことによって生まれてくる。

創作はアウトプットだと思われがちであるが、

実はインプットも私たちが考える以上に創造的な行為なのだ。

 

 

 

ベル見方を変える

旅行先では日常茶飯事であってもすべてが新鮮に見えてくるように、

異邦人の目で周囲を未知なるものとして扱うと、

知っているはずのものごとに改めて驚くようになる。

文化人類学ではこれを「訓質異化」と呼ぶ。

 

 

江戸時代の医者で思想家だった三浦梅園は、

枯れ木に花が咲くような奇跡に驚くのではなく、

生木に毎年花が咲くという当たり前のことに驚く目を持つことの

大切さを説いた。

人は珍しいものにばかり目を奪われるが、

当たり前の世界の成り立ちに

驚きの目を向け続けることができるならば、

それ以上に創造的なことはないはずだ。

 

 

このような見方をすれば、

つくることやつくられたものは、

つくり手がどう世界を見たかの副産物であるといえる。

とはいえ、世界をただ見ているだけでは、

いつまでもつくることははじまらないのではと

感じる人もいるだろう。

 

 

一般には、他者の表現に触れることをインプット、

自らが表現することをアウトプットと呼ぶ。

しかしこのふたつは

それほどきれいに分けることができるものではない。

 

アウトプットは無から有を生み出すような作業ではないし、

むしろインプットの最中で芽生える意識のかけらを

育てていく行為であるからだ。

 

 

「読む」というのは、そもそも創造的な行為である。

読者は、作者の思考が結晶化した

文章という緻密な構造物をたどるうち、

いつのまにか文章を介して

作者自身に成り代わるかのような時間を過ごす。

それでも作者と自身のあいだに生じる「ずれ」が広がることで、

あらたな世界が立ち上がっていく。

なにかを書くために絞り出すように

頭を捻ることもあるかもしれないが、

読む営みの過程でいつのまにか生じる想念からも、

書くことを始められるのかもしれない。

身近なところでは、会話は相手の言葉を受けて

自分の言葉が紡がれていくし、

解釈を連鎖させることで作品にしていく現象は

アートの世界でも一般的と言える。

見る者はそのまま表現する者である。

読み解くことを苗床とし、そこで表現を育てていくこう。

 

 

 

続ける

ベル傷つき続ける

いざ自分なりの表現をはじめたとしても、

それを続けることは怖さを伴う。

なにがよいのか、どうやって作るのか、いつが完成なのか。

すべての問いに対して、自分で答えを出さなくてはならない。

正解がないからこそ、いつまでもこだわることができる。

そしてそのすべてに、誰のせいでもない自分のものとして

向き合わなくてはならない。

 

 

自分と同じジャンルの表現を幼少期からはじめた人の作品や

姿を目にしたとき、

憧れと同時にうらやましさや自分への落胆を感じることもあるだろう。

人から批判を受けて傷を負うこともあるかもしれない。

しかし、表現とは傷つき続けることを受け容れることである。

 

 

仕事ではないから追及しにくい、

と心理的負担を感じるならば、

むしろ仕事ではないからこそできるという逆の考え方にも

触れてみてほしい。

プロには予算があり、納期があり、日程の制限がある。

そして普通は単独で仕事をする。

しかしアマチュアの場合、ひとつの作品のために、

時間と予算をどれだけかけてもかまわない。

さらにアマチュア同士は仲間としてネットワークとノウハウを

共有しながら助け合うことができる。

むしろ職業ではないからこそ、

合理性を超えた情熱を注ぐことができるのである。

 

 

 

ベル「成長」の物語を超えて

ひとりひとりの表現は、つたなくてもいいーーいや、

むしろつたないからこそいい。

 

 

人は社会の中で常に成長を求められる。

成長は喜ばしいことであるが、

それだけが唯一の正しいナラティブであるかのように

押しつけられると、窮屈に感じるものだ。

だが、成長のナラティブは資本主義に深く浸透しており、

そこから自由になることは容易ではない。

 

 

そこで成長ではなく、変化に着目することを考えてみたい。

たとえば、ジャーナリングで自分の思索や行動、

感情などを観察し、

一連の物事が自分にとってどのような意味を持ち、

価値観の変容につながりうるかを考えてみるのもいいだろう。

 

著者の知り合いのある女性は、

会社勤めをやめ独立してから英語を学びはじめ、

「つたない英語」の映像を記録しているという。

独立後は得意分野の仕事を請け負うことの多い彼女は、

依頼を受けたらすぐに先の見通しが立てられ、

だからこそ飽きを感じやすい。

一方、英語はできる実感が容易には得られないからこそ

打ち込みが愉しい。

思うようにしゃべれないから、身振り手振りを交えたり、

なりふり構わぬ勢いでどうにか伝えようとする精神があるが、

これはじつは上達するとあっさり失われてしまうものでもある。

彼女は語学のスキルを得る過程で、

失っているものもあると感じたそうだ。

つたないものを記録する意味は、こういうところにもあるのだろう。

 

 

成長ではなく変化に目を向けること。

つたなさを受け入れ、いま・ここを楽しむこと。

足早に旅をするのではなく、

あえてゆっくりと遠回りしてみることが、

創作にも同様に大切なのだ。

 

 

 

 

山道で散歩する人物と枯野原

 

 

 

成長ではなく変化を楽しむこと。

(もう高齢なのである意味成長はしなくてもいいから)

旅をするように道のりを味わうということ。

ささいな創作を通じて生きることそのものを

問い直す日々をゆっくり歩んでいけたらいいなと思います。

 

 

 

では、また明日^^

 

 

 

 

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