歎異抄 | ふーちゃんのブログ

ふーちゃんのブログ

ご訪問ありがとうございます。
私のブログは、離れて暮らす子どもたちと孫たちに向けて書いています。

こんばんわニコニコ
 
 
 
 
 
この時期家の中の掃除するときにマフラーして、
ジャケット着てやってるのわたしぐらいかしらはてなマーク
庭の福寿草も頭の先っぽが出てきました。
春が待ち遠しい今日この頃でございます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
五木寛之さんの著書にしばしば出てくる歎異抄を
積読したままだったのですが今さらながらですが読みました。
浄土真宗は日本最大の信者を持つ仏教の宗派です。
開祖は親鸞、親鸞没後にその門徒たちが教団として発展させました。
 
 
 
 

金子大栄(校註)ー1981年7月発行ー。

著者は、親鸞の弟子の唯円とする説が有力。
 
 
 
 
 
ベル『歎異抄』とは何か
親鸞の語録をもとにしつつ、
親鸞の死後に現れた様々な異説を歎き(なげき)、
親鸞の真意を伝えることを目的としている。
著者は直弟子の唯円ということが、現在では定説になっている。
 
 
親鸞の思想を伝える本は他にも
覚如の『執持鈔』(しゅうじしょう)や『口伝鈔』があるが、
これらは親鸞の孫である如信から伝え聞いたものと考えられるため、
直接親鸞から聞いた話を記録したのは、この『歎異抄だけといえる。
 
 
 
『歎異抄』の構成は二部に分かれており、
前半部分は親鸞の言葉を集めたもの、
後半部分は唯円が異説を批判する内容となっている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ベル真宗の教義
「他力本願のむねをあかせるもろもろの聖教(教)は、
本願を信じ(信)念仏をまうさば(行)仏になる(証)、
そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや」
と歎異抄のなかにあるように、
真宗の中心的な教義はいたってシンプル。
 
 
親鸞は、
本願を信じるとは真実を心から受け入れるということであり、
念仏はその道理を身につけるために行われるものだという。
 
 
 
では本願とは何か?
それは生死や愛憎の悩みを抱える生きとし生けるものを、
苦しみのない場所に連れて行きたいという、
無限の存在である如来の願いである。
 
 
 
人間は生まれながらにして不安や苦しみを背負っている。
その人間に対し、如来は、
老少善悪にかかわらず平等に慈悲のこころを持っている。
そう考えることが「本願を信ずる」ということである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
親鸞かく語りき
ベルすべては念仏である
はるばる訪ねてきた門徒や信者たちが、
親鸞に念仏の道について聞くと、
親鸞は、念仏を唱えることで浄土に行くか、
地獄に落ちるかはわからないと答えた。
 
 
 
さらに、
そもそも自分は仏になれることはとても期待できない身なので、
たとえ自分を導いた法然聖人に欺かれていたとしても、
まったく後悔はしない、と彼らに告げ、
信心は知識ではないことと自らの熱い信仰を表明している。
 
 
 
親鸞は念仏についてこうも言う。
念仏を熱心に行う者は、いかなる神や魔物にもさまたげられない。
過去の業の報いも、いかなる善も、
念仏の持つ徳の大きさに並ぶものはない。
 
 
 
しかし念仏自体は善ではないし、自らの意志で行うものでもない。
あくまで他力自然にて行われることを忘れないようにするべきである、と。
 
 
 
 
 
ベル悪人こそが救われる
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
善人でも往生できるのだから、
ましてや悪人が往生できるのは当然のことである、と親鸞は語る。
 
 
 
世間では、悪人でも往生できるならば善人が極楽に行くのは当然、
というふうに、
善人のほうに救済される可能性が高いといわれているが、
これは、本願他力の教えに反している。
 
 
 
なぜなら善人は、
善い行いをしているから救われるはずだと自力の心で信じているため、
そのことによって弥陀へ全面的にすがるという信心が欠けているからだ。
 
 
善人は、自力で救済を得ようとする心を捨ててこそ、
信心を得ることができる。
また、そもそも、弥陀が衆生を哀れんだのは、
衆生が苦悩に満ちた世界から逃れることはできないためなので、
自らの中に善を見いだせず、
弥陀をすがるしかない悪人こそが、弥陀の救済の対象であるといえる。
 
 
 
 
 
ベル計算高くあってはならない
これだけの念仏を唱えれば
これだけの罪を消すことができると考えるのは、
自分の力で罪を消して浄土へ行こうとする行いであり、
本願他力の教えに反している、と唯円は諭している。
 
 
命が終わろうとしているときになって、
罪を消して往生しようとすることもしかりである。
この苦悩に満ちた世界の中では、
生きているだけで次々と罪が生まれてくる。
だからといって、念仏を罪滅ぼしの行とするのは間違っている。
 
 
 
 
そもそも、まことの信心から念仏をする人にとって、
正しい仏の道に入る廻心(えしん)を経験するのは
たった1回なのである。
 
 
 
なぜなら廻心とは、本願他力の教えを知らなかった人間が、
自力ではとても往生できないと思ったときに
弥陀の本願に頼ることだからだ。
その後は、弥陀の御恩が深いことを常に思い出すことで、
念仏が自然と出てくるものである。
それこそが本願他力というものなのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
グローバル化が進む現代において、
自国の宗教に関する知識を持つことは、教養であると。
真言宗が生活に馴染んでいるので、
言葉一つ一つを理解するのが難しいかったです。
 
 
自身の宗教の有無にかかわらず、
大きな影響を与えた宗教の教えについて学ぶことは、
文化を、歴史を、そして他者を学ぶことにつながると。
人間への理解を深めるためにも読んでおきたい歎異抄です。
 
 
 
 
では、また明日^^
 
 
 

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 小さな幸せのある暮らしへ
にほんブログ村