久しぶりに文章について綴ります。
以前に、文章を磨こうって思って取り組んだことは特にないのだけれど…
という記事を書いて、
自分の文章力がどうやって身についたのかを振り返ってみました。
今日はその経験のうちの一つを詳しく。
1.実はコンを詰めて読書していた時代があった
わずか1〜2年のことですが、
名作と言われる近代小説を読むことで時間を費やしていた時代があります。
高校の同級生から「えみさんは本を読んでいる姿しか思い浮かばない。」
と言われるまで忘れていました。
あー!そうだった‼︎
記憶から抹殺したのに友人の記憶に焼き付いてるなんて…。
読んでいた理由は、無気力で他に何も興味を持てなかったから。
本でも読んでおくか、
どうせなら時代の‘ふるい’にかけられて評価されているものを。
読書姿で親を安心させ、糧にもなる。
そんな冷めた動機。どうよ…。
読む速度は遅く、大した量は読めてません。
図書館でドカッと借りては半分以上は未読で返却…。
でも、どうやらその経験が今に反映されているようです。
その時の読書には特徴があります
・情景を思い浮かべながら読む
・理解できるまで何度でも読み返す
・著者の意図を探りながら丁寧に読む(行間を読む)
・気に入った表現は噛み締め、反芻して暗記したりする
暇でしたから、
ちーっとも楽しくもないけれど、そんなことをしていました。
それらの文章が「文豪」と言われる人々の良質な小説だったので、
幸い、得るものが大きかったようです。
こういう文章が良い文章なんだ
ということをなんとなく体得したのでしょう。
絵画でも音楽でも、なんでも質の良いものに触れていると、
自ずとその分野の本質がわかってくると言いますね。
文章もきっとそうなんだと思います。
その後は、実用書や科学の文献、ビジネス書を必要に迫れられて読む以外、
読書らしいことをした記憶がありません。
活字には触れたくない、時間がない、読むのは苦手、
そんな意識が定着した年月を送ってきました。
それなのに、学生時代に触れた文章は、
感覚として焼き付いて、
今、文章のお手本として思い出されている。
そして、文章の細部に目が行き届く、
その下地となっているようです。
活字依存症で、読むことが大好き、
読むのが早く読書量は膨大だと自認する知人がいますが、
読み終わった瞬間に内容の記憶が消えていってしまうと聞いたことがあります。
量を読めば語感が身につくというものでもなさそうですね。
